小さな四角い画面の中を冒険してから、俺の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。



+++主人公にはなれないけれど+++



「おはようございまーす!」

 甲高い大きな声とともに、夏休みの小学生たちが、開けっぱなしの玄関から駆け込んでくる。はいおはよう、と俺は返す。我先にと受付に殺到する子供たちに、こら、順番に並べ、と声をかける。
 受講カードを確認し、手元の書類にスタンプを押していく。チェックが終わった子供たちはまた走って教室に入っていく。全く、子供の元気ってのはどっから湧いてくるんだろう。俺も昔はああだったのかね。
 押し寄せてくる子供たちを何とか捌いて、座学が始まる直前の時間くらいにようやく波が過ぎた。やれやれ、と俺はようやく一息ついて、酷使した左腕を回して凝りを取った。
 子供たちの殺到する夏休みのトレーナースクール。俺の仕事はその受付だ。

 ぽつぽつとやってくる遅刻の子や座学を取らない子たちの受付をやりつつ、諸々の書類の整理みたいな事務仕事をこなす。
 今日は確か、午前中は座学で、午後は隣町のスクールと合同で模擬バトルだったか。まだトレーナーカードを持ってない子たちに、教師陣が実際のバトルを間近で見せるイベント。
 バトルか。久しくやってないな。まあ、俺みたいなただの受付兼事務員みたいな奴には関係ないか。残念だけど。

 昼飯のサンドイッチをコーラで流し込んでいると、赤縁メガネをかけた教師が俺のところにやってきた。
 確かトレーナー経験あるよね? とメガネ教師は手を合わせて頭を下げてくる。

「すまない、今日やる予定だった模擬バトル、人数足りなくなったんだ。申し訳ないんだけど、よかったら出てくれないかな?」

 おっと、まさかバトルのお誘いが来るとは思わなかった。これは嬉しい誤算。
 いいっすよ、と俺は気の抜けたコーラを一気に片付け、机の上に置いていたボールを腰につけ、手袋をして、メガネ教師と一緒に中庭のバトル場へ向かった。





 10年前まで、俺はトレーナーとして旅をしていた。
 昔から憧れだった。きっかけは多分、小さい頃に買ってもらったゲームだと思う。
 トレーナーになって、ポケモンを連れて旅をして、巨悪を倒し、リーグのチャンピオンになる。幼いころの俺はすっかりはまりこんで、毎日夢中でゲームをプレイしていた。

 ゲームを手に入れたきっかけは、母親の妊娠だった。かまってあげる時間が少なくなるかもしれないからと、当時流行の兆しを見せていたそのゲームを、母親が買ってくれた。
 今思えば、母親は俺が望めば何でも買ってくれたけど、母親が率先して買い与えてくれたのは、あのゲームが最初で最後だったような気がする。
 だから、俺がトレーナーになったのは、ある意味母親がきっかけなのかもしれない。あまり認めたくはないけれど。

 その母親がゲームを買い与えてくれるきっかけになった弟のことは、俺はあまり好きではなかった。
 5つ下の弟は、根暗で、無口で、無表情で、いつもむすっとしていて、ノリが悪くて、俺とは全然違うタイプの人間だった。いつもじっとりとした目線で俺のことを見てきて、それが気持ち悪かった。言いたいことがあるなら言えばいいのに、といつも思っていた。
  そもそもの存在として、突然現れてどっかに消えた見知らぬ男の置き土産だ。正直思い入れも何もない。

 ただ、ふと思い出すことがある。
 俺がホウエン地方を舞台にしたシリーズをやり始めて、互換性がなくなって手をつけなくなった初代を弟に貸し与えた時のことだ。
 画質も悪く音もピコピコのそのゲームを、弟は夢中でプレイしていた。リビングの片隅で(弟は自分の部屋がなかったので、いつもリビングにいた)モノクロの画面を食い入るように見続けている姿が、今でも頭に浮かぶ。

 そんな弟に、楽しいか? と聞いたことがある。
 そうしたら弟は、普段の辛気臭い顔からは想像できないような笑顔で、目をキラキラさせ頬を紅潮させて、弾んだ声で言った。

「すっごく楽しい! 僕も将来トレーナーになりたいな!」

 そう言って顔を輝かせる弟を見て、ああ、こいつも将来はトレーナーになるんだろうな、と思った。そうしたら多分もう会うこともないだろうし、話をすることもないんだろうな。と。
 いつも死んだような顔だった弟が見せた記憶の中の唯一の笑顔を、ふとした瞬間に思いだすことがある。





 相手のポケモンが、フィールドに伏した。観戦していた子供たちが、一斉に歓声を上げる。
 久々のバトルだったが、幸いにも勝てた。受付って聞いて相手もちょっと油断してたのかもしれない。
 隣町の新人教師は、いやぁ参りました強いですね、と苦笑いする。周りの子供たちの拍手と称賛の声が心地いい。
 右手を差し出されたから、こちらも右手を出す。手袋に包まれたその手を握って、相手は俺の顔と手を何度も交互に見た。

「義手……なんですか。右手」

 昔、事故でね、と俺は曖昧に笑った。





 トレーナーになるのは、すんなりとはいかなかった。原因は主に母親だ。
 とにかく旅に出るなんて許さない、遠くに行くなんて認めない、の一点張りだった。母は昔から過保護すぎる所があったし、俺や弟の父親のこともあったから、難航するだろうな、とは最初から思っていた。結果的に、目標としていた11歳、ゲームの主人公と同い年での旅立ちより、2年も遅れることになってしまった。
 毎日19時に連絡を入れるように念押しされたが、それでもまあ旅に出られないよりはずっとましだった。

 旅に出て、色々なところに行って、色々な人と会って、色々なポケモンを見つけて、そうやって自分を見つめ直して、それでようやく気がついた。いや、多分気がついてはいたんだけれども、あまり考えないようにしていたのかもしれない。
 俺の家は異常だ。母さんの俺に対する執着も、弟に対する無関心さも。

 定時連絡を忘れると、1時間でも2時間でも鳴り続ける呼び出しの音と、電話口から聞こえてくるヒステリックな叫び声を聞く度、俺は今まで13年間も、こんな場所に縛られ続けていたのかと恐ろしくなった。


 そして、転機は10年前、旅を始めて2年経った頃に訪れた。
 ポケモンを探してとある山に行って、俺は突然何かのポケモンに襲われた。
 全身燃えるように痛くて、自分の右腕が宙を舞うのが見えて、何が何だかわからなくって、目の前が真っ暗になって。


 気がついたら、見知らぬ病院にいた。

 俺の手持ちが俺を守ろうと必死にテレポートを試みた結果、遠く離れた俺もよく知らない地方の座標へ飛ばされたらしい。身分を示すものも何もなく、謎の重傷者として何カ月か眠り続けていたそうだ。
 しばらくして、故郷では自分は死んだことになっている事を知った。右腕だけ残して失踪したのだから、そう判断されても無理はないだろう。

 でも、俺はそれを否定しなかった。
 解放されたような気がした。死んだことにすれば、俺がどこに行っても、何をやっても、追いかけられることはない。
 もう、毎晩19時に電話をかける必要はない。延々と呼び出され続けることもない。

 家を離れ、繋がりが切れ、俺はようやく自由になった。

 偶然の導きで、このトレーナースクールで働いている人と出会った。その人は俺の生い立ちと置かれている状況を知って、この国の永住権を取るのに尽力してくれた。幸いというか何というか、故郷で死んだことになっているので、実質戸籍なしみたいな状態になってて、むしろ申請はやりやすかったそうだ。俺が未成年なのも大きかったと思う。
 そういうわけで、ほぼ不法入国みたいなものだが、俺はこの地で全く新しい人生をやり直すことになった。

 困ったのは、手持ちポケモンたちの所有者登録が切れていたことだ。トレーナーカードに登録していたのが右手の指紋だけだったのは失敗だったと、この時だけは思った。どうせボールを扱うのは右手なんだから、ボールの指紋認証機能も右手だけあれば充分だろうとたかをくくっていた。虹彩認証も、手が使えない人が登録すればいいもんだと思っていた。
 自分の身にそういう事態が起こるとは、全く考えていなかった。甘い考えだった。
 ただ幸いだったのは、これまでずっと一緒にいたポケモンたちは、ボールの登録が消えても、俺を主人として認識してくれたことだ。おかげで今でも一緒に生活できている。


 だけど、トレーナーとしての俺の人生は、旅をして、大会に出て、いずれリーグで優勝するのが夢であるトレーナーとしての目標は、そこで終わった。
 もし何らかの大会に出て、テレビにでも映ったら。
 死んだことになっている俺が、見つかってしまったら。

 そう思うと、恐ろしくてトレーナーを続けることは出来なかった。

 ようやく手に入れた自由を、手放すわけにはいかなかった。





 もうじき授業時間も終わるという時間帯。中庭から建物に戻ってくると、そこら中の教室からざわざわという子供たちの不安そうな声が聞こえてきた。
 スクールの入口周辺から、何やら不穏な音や声が聞こえる。メガネ教師が難しそうな表情で、廊下の窓から外を見ていた。
 どうしたんですか、と俺が聞くと、メガネ教師は心底困った顔をした。

「トレーナー制度に反対してる人たちだよ。時々こういう施設に来て抗議活動とかしていくんだ」

 署名集めたり、いろいろやってるらしいよ、と教師は少しあきれ顔で言った。
 どれどれ、と俺は野次馬根性をのぞかせる。門扉は閉められ、警備員が必死におさえている。教師陣の一部も加勢しに走っていく。
 横断幕やプラカードを持った集団が、トレーナー制度撤廃、子供たちを脅威にさらすな、と大声で叫んでいる。
 集団の中にいるひとつの顔に、俺は全身の毛が逆立つのを感じた。背筋が絶対零度を受けたように冷たくなる。
 警備員に押さえられている女性。先頭でプラカードを持ち、大声をあげている。息子を返して、私の子供を返して、と何度も繰り返している。
 最後に会ってから12年、曖昧になった記憶の顔よりずいぶん老けた気がするが、それでも見間違えようがなかった。

 母親だ。

 ほんの一瞬、目があったような気がした。俺はとっさに物影に隠れた。動悸がした。冷や汗と震えが止まらなかった。大丈夫か、とメガネ教師が声をかけてきたが、その声はずいぶん遠くに感じた。
 まさか。まさか。こんなところにいるわけない。こんなに遠い地方に来たのに。追いかけてくるわけない。でも、見間違えるはずがない。
 ひときわ大きな声が集団から響く。周りが必死で取り押さえているような様子が物音から感じられる。

「今、息子がいた! 息子がいたの! 帰ってきてくれたのよ! 私のところに帰ってくてくれたのよ!!」

 俺は耳を抑えてうずくまる。
 違う。違う。俺じゃない。俺じゃないんだ。
 お前の「息子」は死んだんだ。もう帰ってこないんだ。
 何度も何度も、俺と同じ名前を呼ぶ声が、耳を塞ぐ手のすき間から刺さってくる。

「お母さん頑張れって応援してくれてるのよね!! あなたのためにお母さん頑張るわ!! あなたのためにトレーナーなんて失くしてあげる!!」

 違う。違う。そんなんじゃない。
 俺は、お前の「息子」は、そんなこと望んでいない。
 トレーナーになりたかった。トレーナーになって、幸せだった。

 家を出て、片腕を失って、死んだことになって、トレーナーとしての道を諦めて。
 そうやって俺はやっと、自由になったんだ。





 しばらくして騒動は終息し、日が暮れる頃には子供たちも全員無事にそれぞれの家に帰った。
 俺も事務室の戸締りをしてスクールを出る。家まで送ろうか、というメガネ教師の誘いにありがたく乗っかり、車の助手席に座る。
 警察で少し注意を受けたら、あの集団もすぐ解放されるだろうね、とメガネ教師は言った。そうだろうな、と俺はため息交じりに返し、鞄からピカチュウがぎっしり書かれたカバーの、2画面のゲーム機を取り出した。

「お、リメイクの?」
「ええ」
「新作も買うのか? まだ先だけど」
「そりゃまあ買いますよ。生徒に言っといてくださいよ。ゲームばっかり過信してちゃんと勉強しないと俺みたいになるぞ、って」

 そう言って、俺は手袋に包まれた右手をひらひらと振った。


 ボタンを連打してオープニングを飛ばしながら、ふと俺は弟のことを思いだした。
 そういえばあいつも今、こうやってゲームをやっているだろうか。同じように新作を心待ちにしているんだろうか。
 トレーナーになりたいと言ったあいつは、自由を手に入れただろうか。あいつはきっと俺と違って、すんなり旅に出られただろうな。

 いつかどこかの街で会うことがあったら、その時はゲームの話でもしようか、とぼんやり思った。



 小さな四角い画面の中を冒険してから、俺の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。
 その夢はもう終わったけれど、様々な犠牲を積み重ねて、俺は自由を謳歌している。








+++++++++The end




あとがき

「夏の終わりに―Another RED―」のおまけ。それ以上でもそれ以下でもない。

作者のアナザーレッド氏は
「むしろ生きてる方が弟的にはより絶望感漂うと思って」
などと供述しており。
(初出:2016/8/7 マサラのポケモン図書館)



戻る