小さな四角い画面の中を冒険してから、僕の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。



+++ 夏の終わりに―Another RED― +++



 目が覚めたら、部屋の時計の短針は間もなく三を示そうとしていた。
 閉めっぱなしのカーテンの隙間から、夏の日差しが入り込んできて、足元まで蹴り飛ばしていた薄青のタオルケットに反射している。寝起きの目には光が痛くて、僕はもう一度カーテンをきっちりと閉め直した。
 枕に寝過ぎて痛む頭を預けて、ぼんやりと部屋を見渡す。見慣れた部屋。見慣れ過ぎた部屋。
 学校にも行かず、町に出ることもなく、毎日毎日同じ景色を眺めて過ごす。
 もうかれこれ、十年、僕はここからほとんど出ていない。

 ごろりと寝がえりを打って、一度伸びをして、ふと思い出して敷布団の角をめくる。
 出てきたのは、折りたためないけど画面はカラーの、クリアパープルのゲーム機。刺さっているのは、僕と同い年の、灰色のボディに赤いシールのカセット。
 そういえば昨日、いや今朝? 寝る前にやってて、いつどこまでやったかは覚えてないけど、いつからか染みついた習慣通り、敷布団の下に隠して夢の世界へ行ったんだ。

 僕が生まれた年に出たこのカセットは、僕の兄が置いていったものだ。
 まだ問題なく動くし記録も出来るから、僕はこのソフトばかりやっている。まあ、十年ほど前から、僕がこのシリーズの新作を買えていないせいもあるんだけども。
 電源を入れてみる。動かない。電池が切れている。どうやらいつも通り敷布団の下に入れたけれども、電源を切るのを忘れていたみたいだ。ああ、レポート書いてない。ま、いっか。またやり直せば。
 ベッドから起き上がり、勉強机の引き出しを漁る。電池、まだ在庫があったと思うけど。ACアダプタが何年か前に断線してから、電池しか使えないのがちょっと不便だ。充電式の奴、買おうかな。でも取説には充電式のは使うなって書いてあるんだよな。何でか知らないけど。
 しょうがない、電池はまたネットで注文しておこう。ああでも、最近電池ばっかり大量に買ってるから、そろそろ母さんに不審がられるかな。気をつけなきゃ。

 世界的に大流行したこのシリーズは、世代ごとに四季を表しているって説がある。
 リメイクして紅葉やらが増えた二作目は秋。製作者の春休みの思い出が込められてるって話のある三作目は春。雪に埋まった場所や町が出てくる四作目は冬。
 そして、シリーズ最初のこのソフトは、半袖短パンの男の子や麦わら帽子に虫取り網の少年がたくさん出てくるこのソフトは、夏。
 舞台を突然国外に移した次回作が、時間の流れと共に季節が映り変わるらしいっていうのも、そう考えるとちょっと興味深いかもしれない。
 まあ、あくまでも一部のプレーヤーの考察。確証はない。

 でも、僕はやっぱり、このソフトは「夏」だなあ、って思う。
 ゲーム内で直接季節が示されているわけじゃないんだけど、何だか、小学校の夏休みとか、その間の冒険とか、そんな感じ。
 だから僕は、それぞれのシリーズが四季を表しているという説、嫌いじゃない。

 このソフトの前の持ち主だった兄は、僕より五つ上で、優秀で、明るくて、そつがなくて、人当たりがよくて、僕とは全然違うタイプだった。
 僕がやっているこのソフトを、兄は発売された時から、つまりは僕が生まれた頃からやっていた。母さんは兄の事を溺愛していて、兄の欲しいものは大体買い与えていた。僕がこのソフトに初めて触れたのは、僕が六歳、兄が十一歳の頃、兄が世代を二つ下ったシリーズ新作に夢中になり、互換性のないこのシリーズをあまりやらなくなったからだ。
 そうやって、まあ、お下がりみたいな感じでやり始めたゲームだったけど、僕はそれはそれはまあ夢中になった。世間の流行から遅れること六年、小学校に通う前だった僕の周りでやってる子もそんなにいなかったけど、僕は一人で黙々と画面の中での冒険を楽しんだ。
 永遠の夏休みが閉じ込められた画面の中で、たくさんのポケモンを捕まえ、使役して、チャンピオンになる。
 そんな夢みたいなストーリーに、僕は夢中になった。

 大きくなったらポケモントレーナーになりたい、と僕は言った。
 母さんはため息をついて、兄さんもあんたと同じ頃、同じことを言っていたわよ、と言った。

 兄は母さんに愛されていた。僕が物心ついた頃から、母さんは兄に夢中だった。おかげで僕はほぼ無関心に扱われてきた。
 まあ、それについては別に今更どうこう言うことはない。羨ましい、と思ったことがないわけじゃないんだけど、何ていうか、まあ、今思えば兄も溺愛されているあの状態を喜んでいるわけじゃなかったかもしれないな、と思わないこともない。
 いや、やっぱわからない。ずっと兄の立ち位置を奪いたくて、母さんに愛されたくて、今も実はそう思ってるのかもしれない。

 母さん。そうだ、確か今日母さん、集会に行くって言ってたっけ。

 いつもと同じ時間なら、帰ってくるのは四時過ぎになるはずだ。今は三時ちょっとすぎ。テレビをつける絶好のチャンスじゃないか。今の時間なら、どっかのチャンネルでワイドショーだか情報バラエティーだかやってるはずだ。
 僕はベッドに座ってリモコンを取り、テレビの電源を入れ、チャンネルを適当な局に回した。女子アナか何かの甲高い声が部屋に響く。


「――さて、こちら、ハナダシティジムでは、今年も毎年恒例の、夏の終わりを飾る水ポケモンによるウォーターショーが……」


 女子アナの背後の大きなプールでは、プールサイドに作られたステージの中央で、オレンジ色の髪のジムリーダーがカメラに向かって手を振っているのが見える。そしてプールの中では、紫のヒトデや角を持った金魚が、水面から勢いよく飛び出しては空中に水滴や虹色の泡を撒き散らしている。水がかかった女子アナが、きゃあきゃあとまた甲高い声を上げる。
 僕は画面の向こう側の光景をぼんやりと眺める。オレンジ髪のジムリーダーがカメラの近くに寄ってくる。年の割にかなり若く見える。僕より十以上年上のはずだから、もう三十路は超えてるはずなんだけど。ハナダジムのウォーターショー、今週末までです、皆さん是非ハナダジムへお越しください、と水浸しの女子アナが視聴者に向けて手を振る。僕は小さくため息をついて、行けるもんならね、と心の中で呟いた。

 タマムシシティにあるゲームフリーク本社が、そのゲームを世に出したのは、ちょうど僕が生まれたのと同じ年のことだ。そのものずばり「ポケットモンスター」という名前。あんまり安直なネーミングで、最初は敬遠する人もいたらしい。
 しかし、このカントーに住む数多くのポケモンの、比較的正確な生息地を反映した登場。実在の人物と、実際に起こった事件を大胆に投影したストーリー。そして何より、あらゆるポケモンを捕まえることができ、全トレーナーの憧れである、ポケモンリーグのチャンピオンに昇り詰めるという夢。そんな内容が若者を中心に受け、爆発的に流行したそうだ。
 ゲームの主人公は十代の少年。同じ年頃の少年少女はトレーナーに憧れ、このソフトの発売からトレーナーの若年層化は一気に加速したという。初代の発売から二十年。今や十代前半でトレーナーとして旅立つことはごく一般的なこととなっており、あの頃感化された少年少女若者たちは、今のトレーナーたちを牽引するベテラントレーナーとなっている。

 僕の兄も、感化された一人だった。

 ガチャ、と玄関の扉が開く音がした。僕は瞬間的にテレビの電源を切った。危ない危ない。いつもより帰宅が早いじゃないか。
 扉一枚隔てたリビングから、ぱたぱたという足音とか紙の束を机に置く音とかが聞こえてくる。ややあってこんこんとノックする音がし、ただいま、という声と共に部屋の扉が開かれた。
 僕はベッドに座ったまま、おかえり、と気がない返事をした。母さんはいつも通り疲れた顔で笑って、僕のそばまで寄ってきた。

「テレビ、点けたりしてないわよね?」
「してないよ」

 僕がいつも通り嘘をつくと、母さんは満足そうに笑った。

「そうよね、テレビとかそういうのに耳を貸しちゃダメなのよ。だって誰も彼もむやみやたらとトレーナーを礼讃する言葉しか言わないものね。こんな社会おかしいわよね。だってトレーナーなんていいことなにもないものね。ほら、今日もトレーナー制度反対集会でお話聞いてきたのよ。今日お話ししてた人もね、娘さんを亡くしたんですって。ひどいわよね、こんなに辛い思いしてる人がたくさんいるのに、政府は全く話を聞いてくれないのよ。それでね、署名をまた集めたんだけどね……」

 早口でいつもと大体同じ内容をまくしたてる母さんの言葉を、僕はいつも通り聞き流した。

 僕の兄は僕が八歳の時、つまり十三歳の時、トレーナーとして旅に出た。
 母さんは最後まで反対していた。僕と兄の父親はどちらもポケモントレーナーで、母さんとは旅の途中にこの町へ来た時に出会ったらしい。僕と兄は父親違いで、二人とも父の顔を見たこともない。行きずりのトレーナーだった父親たちは母さんとの間に子供が出来たことも知らず、どこか知らないところへ行ってしまい、生死すらわからない。そんなのだから母さんはトレーナーというものをそもそもあまりよく思っていなかった。それに何より、母さんは兄を溺愛していたし、自分の目の届かないところに行かれるのは嫌だったのだろう。
 でも、小さい頃から兄の欲しいものは何でも与えてきた母さんは、最終的には兄の強い意志の前に屈した。毎日定時の連絡を入れることを条件に、トレーナーとしての旅を許した。兄は律儀に、毎日母さんへ電話をかけた。まあ、定時にかかってこなかったら母さんの方から電話かけてたんだけど。

 兄からの連絡が途絶えたのは、僕が十歳、兄が旅立って二年のことだった。
 母さんは半狂乱になって行方を探した。警察に日に何度も怒鳴りこみ、探偵のようなものに何件も通い詰め、自分の生活も時間もお金も僕のことも全て投げ捨てて兄を探した。

 連絡が入ったのは、僕が自分の食事を自分で用意するようになってから、三か月ほど経ってからだった。
 呼ばれて行った警察で、僕は結局、兄の顔を見ることはなかった。

 ポケモンセンターの利用記録やら目撃証言やら、そんなものから割り出した結果、兄はとある山に向かっていた。ゲームにも出てくる、ゲームを遊んだことのある人なら誰でも知っている場所だった。
 ただ、ゲームは、どこまで行ってもゲームなのだ。その場所の生態系をかなり正確に再現していると言われているあのシリーズでも、難易度という壁は突き崩せない。ゲームの序盤はレベルを低く、後半は高くせざるを得ない。登場させるポケモンだって、自然と限られてくる。
 そんな風に、ゲームを過信しすぎたトレーナーが、事故に巻き込まれることは珍しくないのだと、警察の人が言っていたことは覚えている。

 僕は結局、兄の顔を見ることはなかった。
 兄は、右手の手首から先しか見つからなかったからだ。

 溺愛した息子を亡くした母さんの嘆きは言うまでもない。葬式どころか四十九日が過ぎても、母さんはひたすら泣き続けていた。僕だって心が痛んだ。息子として、嘆き悲しむ母さんを見るのは辛かった。
 だけど、やっぱりあの時。あの時、僕の道は変わってしまった。

 愛する息子を亡くした母さんは、散々嘆き悲しんだ末、自分にはもうひとり息子がいることを思い出した。
 そして母さんは、これまでほぼ空気のように扱ってきた僕にすがって、こう言った。

「ねえ、あなたは。あなたはどこにも行かないわよね。お母さんのそばにいてくれるわよね」

 今更何を、と突っぱねることも出来ただろう。僕は身替わりじゃない、と怒ることも出来ただろう。
 だけど、憔悴しきった母さんを見てきた僕は、今まで母さんに愛されることのなかった僕は、弱々しく震える母さんの腕を、振り払うことが出来なかった。

 延々と続くいつも同じ内容の母の説教を聞き流しながら、僕は考える。
 もしあの時、あの腕を振り払っていたら。僕はこうやって十年もこの家に軟禁されることも、ポケモンやトレーナーの情報を発信し続けるテレビを隠れて見ることも、通販の荷物を逐一チェックされることも、兄をトレーナーの世界へ導いたあのゲームの新作を買うことが出来ないということもなかった。
 幼い頃夢見たトレーナーとして、この世界のどこかを旅していただろう。兄の遺したあのゲームの、永遠の夏の世界を旅している、赤い帽子の主人公と同じように。

 あの日、僕の夏は終わった。

 僕の時は、始まることのないまま終わった夏を置き去りにしたまま、この部屋の中で止まっている。

 定型の説教を終えた母さんは、これまたいつものように、僕にすがりついてうわごとのように何度もつぶやく。
 あなたはどこにも行かないわよね。お母さんのそばにいてくれるわよね。
 僕はそれに応えない。その無言を肯定と受け止め、母さんはそれで満足する。

 もし。もしも。僕が本当のことを言ったなら。

 僕が今でも、トレーナーになりたいと言ったなら。

 この人は、どんな反応をするのだろう。
 怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも、僕は殺されるだろうか。
 二度とベッドから起き上がれないように足をもがれるかもしれない。五感を奪って、母さんなしでは生きられない体にされるかもしれない。十年も家から出ることのなかった僕だ。抵抗することもなく、母さんの好きにされるだろう。
 そうやって延々と考えていると、妙に愉快な気持ちが沸き立ってきて、僕は吐き捨てるように笑う。そしてその不気味な高揚感を抱いたまま、誰にも見つからないようこっそりと、小さな画面の中の夏の世界に飛び込むのだ。


 小さな四角い画面の中を冒険してから、僕の将来の夢は、ポケモントレーナーになることだった。
 今も、それは変わっていない。





+++++++++The end




あとがき
第1回ホワイティ杯ポケモン小説コンテスト―夏の終わりに― にて、8位(81pt)をいただいた作品。
586賞をゲットできて満足です。
(初出:2016/7/2 第一回ホワイティ杯ポケモン小説コンテスト〜夏の終わりに〜 タイトル「夏の終わりに」 マスクネーム「アナザーレッド」)



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