真っ白なカーテン。 真っ白な天井。 真っ白なシーツ。 見渡す限り、白、白、白。 その中にぽつんと見える、小さな黒。 +++黄昏の黒―Dusknoir―+++ ぼくは病院に運ばれた。 頭をひどく打ったらしい。気がついたらぼくはベッドの上にいた。 なぜけがをしたの。お医者さんは僕に尋ねる。ぼくが答えると、お医者さんは困ったように看護師さんと目を合わせる。 本当のことを言って、と看護師さんが優しい声で言ってくる。そのけがは、誰かにつけられたんでしょう、と。 「違います。『階段から落ちた』んです。本当です……」 お医者さんたちはまた困ったように顔を合わせる。 だって本当だ。お父さんもお母さんも、何も悪くない。ぼくが悪いんだ。 ぼくが悪い子だから、『階段から落ちた』んだ。 お父さんもお母さんも、いつもそう言っている。 誰もいない病院のベッド。周りをカーテンで囲われている。 お父さんとお母さんは、日が沈んでからお見舞いに来ると言っていた。 でも、窓が見えない。時計も見えない。だから、今何時か全然わからない。 カーテンも白。天井も白。ベッドのシーツも白。 どこを向いても、白、白、白。白ばっかり。 ぼくはだんだん、疲れて眠くなってきた。 ぐったりと力が抜けて、まぶたがゆっくりと下がってくる。 その時、天井の方に、今まで見えなかった色が見えた。 黒。 この部屋と正反対の、暗い色。 よく見ると、それは何か生き物のようだった。 真っ黒な布を羽織って、白い仮面をつけている。中には小さな赤い火が燃えているみたいだった。 それが、ふわふわと僕のベッドの上を飛んでいる。 「君は……だれ?」 ぼくが聞くと、その生き物はびっくりして飛びあがった。いや、元々飛んでいるのだけれど、そこからさらに飛び上がった。そんなに驚くとは思わなくて、ぼくもびっくりする。 ぼくもその子も動かないまま、じっと見つめあった。赤い炎がゆらゆら揺れる。 ふっと、その子が動いた。ふわふわとカーテンの向こうへ飛んでいく。 「ま、待って!」 お医者さんにベッドから起きちゃダメって言われていたけど、そんなこと忘れて、ぼくはその子のあとを追いかけた。 廊下を歩いて、階段を上って、金属の扉を開けたら、そこは屋上だった。 もう日が沈みかけて、空は赤に近いオレンジ色。 あの子がふわふわと浮いている。 辺りが暗くなってきて、もうシルエットしか見えない。 でもわかる。あの子がぼくを呼んでいる。 ぼくはあの子を追いかけて、手すりを乗り越えた。 ゆらゆらと揺れる黒い布。ぼくはそっと手を伸ばした。 踏み出した先には、床がなかった。 空を見ていたはずなのに地面が見える。 足がどこにもついていない。 反射的に、ぞわっ、と全身を寒気が走った。でも、頭の中は真っ白だった。 「――……あっ」 ぼく、落ちるんだ。 頭に浮かんできたのは、それだけだった。 ぐっ、と腕の付け根が引っ張られて痛んだ。右手が何かをつかんでいる。いや、何かにつかまれている。 ぼくは浮いていた。あの子が、ぼくの手をつかんでひっぱっていた。 ふわふわと浮きあがって、ぼくは元の病院の屋上に足をつけた。 ぼくは少しの間ぽかんとしていた。何が起こったのかよくわからなかった。 でもひとつだけ。 ぼくはこの子に助けられた。 少し困っている様子のその子。ぼくの頭くらいの大きさの、小さなその子。 「……ありがとう!」 ぼくはそう言って、その子をきゅっと抱きしめた。 ベッドに戻ると、お医者さんがあわてた様子でやってきた。 勝手に起きたから怒られるかな、と思ったけど、お医者さんは少し悲しそうな顔でぼくに言った。 ぼくのお見舞いに来ていたお父さんとお母さんが、車を運転していた時、トラックと事故にあったらしい。 すぐに救急車が行ったけれども、もう手遅れだったそうだ。 お医者さんもびっくりするほどの早さでけがが治ったぼくは、お父さんとお母さんのお葬式に出た。 タンスの奥の奥にしまってあった黒い服を着た。あの子がしきりに何かを気にしているようだったから見てみると、濃い灰色の布が2枚置いてあった。 薄いマフラーみたいな布。気にもしていなかったのだけれど、一緒にいるあの子がすごく気にするから、持たせてあげることにした。 2枚あったから、もう片方はぼくの首に巻いておいた。 「……終わったね。だけどこれからどうすればいいんだろう」 ぼくがつぶやくと、あの子はそっとすり寄ってきた。 悲しいというより、驚いていた。大好きなお父さんとお母さんのはずだったのに。 それから、ああ、これでもう『階段から落ち』なくて済むのかな、って考えた。 ぼくは遠い親せきの間をたらいまわしにされた。 病院で出会ったあの子は、ずっとぼくについてきてくれた。ぼくとずっと一緒にいたのは、あの子だけだった。 みんなぼくのことを気味悪がっていた。 でもしょうがない。お父さんもお母さんも、同じことを言っていたから。 淡い灰色の髪の毛と、真っ赤な瞳。 ぼくは少しだけ、変わった人間だったらしい。 色々な家を転々として、最後にぼくは施設に預けられた。 そこでぼくは、みんなとはもう少しだけ違うところを発見した。 どうやらぼくは、病院に運ばれたあの日から、けがをしたあの時から、みんなには見えないものが見えるようになったらしい。 ぼくと一緒にいるあの子は、普段はみんなには見えていないようだった。 他にも、みんながけんかをすると、紫色のてるてる坊主がやってきたり、驚いている子のそばに紫色の髪の子がいたり。でもみんなには見えていなかった。 本を読んで、それがゴーストポケモンと呼ばれるものだと知った。 どうしてぼくに見えるようになったのかはわからないけれど。 そういえば、前は目がすごく悪かったけど、あの日から突然すごく良くなった。 明るいとすごくまぶしかったけど、平気になった。 けがをして、何か変わったのかな。考えてみたけど、ぼくにはわからなかった。 +++ 7年が経ち、わたしは15歳になりました。 小さな荷物をまとめていると、施設の親代わりだった先生が、わたしに声をかけてきました。 「本当に今から行くのかい?」 「はい。今までお世話になりました、先生」 「いいのかい? これから日が沈むよ。朝になってからお行きよ。旅は出発が大事だよ」 先生は西の空を見ながら言いました。空は鮮やかな紅色のグラデーションを描いています。 わたしは、でもいいんです、と言って笑いました。 「わたしはともかく……彼女は夜の方が好きですから」 そうですよね、とわたしは傍らに浮いているパートナーに言いました。 そっとわたしに寄りそう、濃い灰色の布を腕に巻いた、小柄なヨマワル。 そうかい、と先生は優しい目をして言いました。 小さなカバンに、旅の道具。 ウエストポーチに、ボールをいくつか。 そして首に濃い灰色の布を巻いて、わたしは門を開けました。 「では先生、行ってきます。他の子たちにもよろしくお願いします」 「行っておいで。気をつけるんだよ。いいみやげ話を持って帰ってきておくれ」 手を振る先生に背を向け、数歩歩いて振り返りました。 もう日はかなり沈んで、顔の識別ができないほど。 わたしは小さく手を振り返し、傍らのパートナーに顔を向けました。 「さあ……行きましょう、ナキリ!」 小柄なヨマワルが、大きくうなずきました。 +++ 大きな移動はほとんどが黄昏時から夜でした。 ナキリは決して太陽が駄目というわけではありませんでしたが、それでもやはり暗い時の方が好きなようでした。 普通のトレーナーなら、ボールに入れて昼に活動したでしょう。ボールに入れてしまえば、外界の環境はポケモンに対してほとんど影響を与えないからです。 しかしわたしはそれをしませんでした。否、できませんでした。 なぜなら、ナキリはわたしのパートナーですが、わたしのポケモンではないからです。 わたしは彼女を、ボールを用いて捕獲はしていません。幼いころ病院で出会い、今もその関係のままです。 常に一緒にいますが、ナキリは厳密にはわたしのポケモンではないのです。 昼ごろ起きて、街中をぶらぶら歩き、日が傾き始めたら街を出て、次の街へ向かい、朝眠りにつく。 初めのころは眠かったりだるかったりしましたが、しばらく続けていると慣れました。人間は意外と順応性があるものです。 旅を初めてから、少し経った頃でした。 季節はちょうど冬で、黒色の空からはその年初めての雪が降っていました。 湿った雪は重く、服に付いたものははらっても落ちません。じっとりと濡れた服は風にあたってさらに冷え、体温が奪われていきます。 寒さで震える自分の体を抱きましたが、あまり効果はありません。ナキリが心配そうに擦り寄ってきました。 「……ちょっと、そこのあなた」 ふいに呼び止められ、足を止めました。 声をかけてきたのは、20前後の男性でした。腰に前掛けエプロンを巻いています。 「こんな時間に、寒いでしょう? どうぞ入ってください」 男性が指差したのは、夜半にもかかわらず明かりをつける、小さな小さな店でした。 看板を見て、そこが自家焙煎のコーヒー豆を売っている店だということは分かりました。 小さな店の中にはわたしとナキリと男性以外は誰もおらず、往年の名曲をインストゥルメンタルに編曲したCDが静かに流れていました。久しぶりの暖かさに、わたしはほっと息をつきました。 壁際には、袋に詰められた様々な種類のコーヒー豆が並んでいます。産地や種類、ブレンド、煎りの深さ、色々異なっているようですが、わたしにはよくわかりませんでした。 店には小さなカウンターがありました。案内されて座ると、店主はコーヒー豆とフラスコを2つ重ねたようなガラスの器具を出してきました。じっと見ていると、店主は笑って、サイフォンを見るのは初めてですか、と言ってきました。わたしは小さくうなずきました。 コーヒー豆の専門店なのですが、ちょっとした喫茶店のようなものもやっているそうです。 香ばしいコーヒーの香りが、狭い店内に広がります。 店主はカップに注いだコーヒーに温めた牛乳と砂糖を加え、わたしとナキリに差し出しました。 「サービスですよ。どうぞ」 店主はそう言ってにっこりと笑いました。 代金はお支払いしますよ、と言いましたが、店主は笑って首を横に振るだけでした。 わたしは何度もお礼を言って、カフェオレに口をつけました。ミルクを入れてもなお鮮やかなコーヒーの香り。冷えた体に甘い味が沁みわたりました。 それからしばらく、店主と他愛もない話をしました。 旅に出る前のこと。旅先であったこと。そしてお店のこと。 大きな街の小さな通りの片隅で、小さな店を開く。それが店主のささやかな夢だったそうです。 コーヒーがお好きなんですか、と尋ねると、店主はそれもあるけれども、と笑いました。 「私はただ甘いものが好きなだけなんですよねぇ」 「はあ」 「こう、見るからに体に悪そうなくらいクリームが挟まったロールケーキとかね、ペロッと食べちゃいますよ。で、そこにコーヒーをきゅーっといったら、もう最高ですね。生クリームとシュークリームとアイスがあれば生きていけますよ。彼女には食べ過ぎって怒られますけど」 「はあ……」 わたしは甘いものは嫌いではないですがそんなに好きでもないので、店主の甘味にかける情熱はいまいち理解しきれませんでした。 というのは半分冗談で、と店主は続けました。 「こういう言い方をするのもアレですけど、好きなんですよね。人間観察と言うか、人の話を聞くことが」 「話を聞くこと、ですか」 「その人の見てきたものや、感じたこと……。人と話をすると、自分も物事の当事者になれたような気がするでしょう。そうしてたくさんの人と話をしていけば、この世界のいろいろなことを擬似的に体験できるわけじゃないですか」 「確かにまあ……そうですね」 「あとそうですね、自分、これで結構おせっかいなところがありましてね。悩みとか恨み事とか、そういうことがある人がいたら、少しでも助言ができればな、って思うんです。それで、色々な人から自然体で話を聞ける仕事、って考えたら、自分には喫茶店が一番合ってるな、って。そう思ったんですよ」 「喫茶店、ですか」 「そう。最初は喫茶店を開きたかったんですけど、豆の焙煎にこだわってたら、もう自分でやった方がいいやって。で、それが高じてこうやってお店を開くことになったんですよね」 このカウンターは試飲台兼、喫茶店の夢のかけらなんですよ。 そう言って、店主はまた笑いました。 カップの中のカフェオレがなくなる頃、店主はわたしの傍らのナキリに向かって声をかけました。 「お嬢さん、申し訳ございません。少しの間、席をはずしていただけませんか?」 ここから先は男同士の話なので、と言って、店主は人差し指を口の前へ持って行きました。 ナキリは店主とわたしの顔を何度か見て、小さくうなずき、店の隅の方へ行って、並んでいるコーヒー豆を眺め始めました。 何の話だろう、とわたしが思っていると、店主は空になったカップに新しいコーヒーを注ぎました。 「……すみません。私、結構おせっかいなものですから。お客様のことが、勝手ながら気にかかりまして」 そう言うと、店主はカウンターから出てきて、わたしのとなりの席に座りました。 「看護師だったんですよ。私の母」 店主は小さな声で話し始めました。 「しょっちゅう母のいる病院に行っていました。待合室やら、ナースセンターやら、小さい頃は毎日のように入り浸っていましたね」 人間観察的なことをするようになったのも、そこがきっかけなんです、と店主は言いました。 病院には色々な人が訪れる。病気の人、けがをした人、事故にあった人、付き添いの人。病院に来る理由は様々で、また抱えているものも人それぞれだった、と。 だから自然と身に着く。その人が持つ様々な背景を感じ取る力が、と店主は言いました。 「歩いている姿を見てもわかりましたよ。……ご苦労なさったことでしょう」 「いえいえ、わたしなど。昔から人の手を煩わせてばかりで、どうしようもない人間ですから」 ご店主は小さくため息をついて、更に小さな声で言いました。 「……あくまでも私の勘ですがね、わかるんですよ。お客様、あなたは小さいころ……」 「わたしは駄目な人間なんですよ。本当に。何の価値もない、どうしようもない人間なんです。周りにいるのは素晴らしい人たちばかりなのに、いつも迷惑ばかりかけているんです」 「……」 「わたしは本当につまらない人間なんです。誰もがわたしのことを嫌っているし、わたしは誰かを好きになる資格もありません」 わたしには何の価値もない。 わたしはどうしようもない駄目な人間。 幼いころから言われ、自分に言い聞かせてきた言葉を、呪文のように繰り返しました。 なぜか涙が止まりません。 店主は悲しそうな顔をして、またため息をつきました。 「……わかりました。でも、最後の一言は訂正してください」 「?」 「そんなことを言うと、彼女が悲しみますよ」 そう言って、店主は店の隅に目を向けました。 小さなヨマワルが、視線に気がついてこちらを向き、小さく首をかしげました。 その前には、コーヒーミルやフィルターなど、コーヒーを淹れるための器具が並んでいました。 「……店主さん」 「はい、何でしょう?」 「サイフォンとその他器具、ひとそろい頂けますか? もちろんコーヒー豆も」 +++ 4年。色々な場所を回りました。 わたしはずっとナキリと一緒でした。 野山を、谷を、海を、街を、あらゆる場所を彼女とともに巡りました。 そしてトレーナーとして腕を磨き、確実に力をつけていきました。 ナキリもヨマワルからサマヨールになり、そしてヨノワールへと進化しました。 そしてとうとう、トレーナーとしての頂点に立ちました。 ポケモンリーグに出場し、優勝したのです。 わたしはチャンピオンと呼ばれるようになりました。その座に固執はしていなかったのですが、ナキリと共に頂点に立てたことはとても嬉しいことでした。 まさかそれが、最後のリーグ挑戦になろうとは、夢にも思っていませんでしたが。 リーグが終わってしばらく時間が経ち、世間の興奮も冷め、わたしはまたナキリと共に旅をしていました。 その時ふと、知らない道を見つけました。歩いたことのある道のはずなのですが、林の奥に見覚えのない横道があります。 近くを通る人を見てみましたが、誰もその道には気がついていないようでした。 わたしは興味がわきました。 もしかしたら、まだ誰も行ったことのない場所かもしれない。見たことのないポケモンがいるかもしれない。 ふとナキリを見ると、少し困ったような顔を浮かべて、道の奥とわたしの顔を交互に見てきます。 わたしは首をひねって、道の先に行くことにしました。 背の高い茂みを抜け、崖を登り、わたしは目の前に広がる光景にため息をつきました。 そこにあったのは大きな湖。澄んだ水がなみなみとたたえられています。 わたしは屈んで湖を見ました。本当に透き通ったきれいな水。しかしなぜか、湖底ははっきりと見えません。 目を凝らして見ると、湖底にはわずかに動くものが見えます。ですが、正体はよくわかりませんでした。 立ちあがって辺りを見回し、わたしはまた別のものを見つけました。 崖にぽっかりと口を開けた洞窟。 わたしはすぐそこへ向かいました。好奇心がどんどんあふれてきました。 ナキリが慌てて止めようとしていることにも、わたしは気がつきませんでした。 その洞窟は、どうやら古代の遺跡のようでした。 入った部屋にはいくつか別の出入り口があり、他の部屋へ続いているようでした。 わたしは目についた出入り口へ行きました。それを繰り返していると、いつの間にやら入口の部屋へと戻っていました。 どうやら、正しい道に行かなければこの場所に戻されてしまうようです。 わたしはムキになり、また別の道を探しました。 今思えば、そこでやめておけばよかったのに。 何度も何度も色々な部屋を渡り歩き、そしてとうとう一番奥と思われる部屋へたどり着きました。 その中央に坐するものを見て、思わずわたしは身震いしました。 金と灰色で彩られた身体。黒いぼろぼろの布のような翼。 見たこともない、巨大な竜でした。 トレーナーとして生き、身についてしまった性なのでしょうか。 初めて見るポケモン。わたしは捕獲を試みました。 愚かなことに、そのポケモンの正体も知らぬまま、わたしは戦いを挑んだのです。 決着がつくのは、あっという間でした。 わたしはまさに、手も足も出せませんでした。 気がついたら、何もかも終わっていたのです。 眠りを妨げられたその竜の怒りは、あまりにも強大な力としてわたしの前に立ちふさがったのです。 頭の中が真っ白になりました。 絶望。 そのシンプルで強烈な感情は、底知れない恐怖となって襲いかかってきたのです。 わたしは無我夢中で走りだしました。 仄暗い遺跡の中は、どの部屋も同じような造りをしています。 走っても、走っても、その先に光は見えません。 どんなに走っても、ひんやりとした重苦しい空気の感触が変わることはありません。 やってはいけないことを、やってしまった。 侵してはいけない領域に、足を踏み入れてしまった。 混乱し、動揺し、焦燥感に駆られて、走り続ける。 それでも、出口は見えません。 周囲は底なしの闇。ねっとりと絡みついて、ひきずりこまれそうになります。 ふいに、後ろから肩を掴まれました。 わたしが振り返るより先に、言葉が聞こえました。 『主が怒っている』 聞いたことのない声。耳で聞くというより、頭の中に響いてくるような。 しかし、この声の主は、まさか。 振り返ると、金で縁どられた赤い一つ目と、目が合いました。 「ナキ……リ……?」 小柄なヨノワールが1匹、暗闇の中にたたずんでいます。 ざわざわ、とわたしたちを包む闇がざわめいたような気がしました。 『我々の主が怒っている。眠りを妨げられて怒っている。わたしは主から命を受けた』 ナキリの大きな手が、わたしの腕をつかみました。 わたしは呆然と、赤い瞳を見つめていました。 『あなたを連れていかなければならない』 ずる、と足元が滑りました。 深い深い、闇の中。 黒に塗りつぶされていく。 周囲も、視界も、頭の中も。 黒。 黒。 黒。 何もかも、黒―― +++ ――頭の中を覆っていた闇が、晴れていく。 ここは一体どこなのでしょう。 わたしは知らない場所に立っていました。 目線を上へあげると、光がゆらゆらと揺らめいています。まるで透き通った湖の底から湖面を見上げているよう。しかし、こんなにも澄んでいるのに太陽は見えません。 見たこともない場所。それなのに、なぜか少しだけ懐かしい気がします。 『気がついたか』 まるで地の底から響いてくるかのような、深い声。 まだ少しぼんやりとしている頭に響いてきます。 目の前には、6つ足の灰色の龍が、黒い布のような羽をわずかに動かして座っていました。 敵意を感じなかったので、わたしはどうするでもなくその場に立っていました。 灰色の龍――ギラティナは、しばらく黙ってわたしの方を見ていましたが、頭を小さく左右に振って言いました。 『まだ寝ぼけているようだな』 「いえ、大丈夫です。起きています」 『起きていたらもっと大げさな反応をするものだと思っていたが』 お前は冷静なのだな、とギラティナは言いました。 驚くべきだったのでしょうか、うろたえるべきだったのでしょうか。自分のいるこの場所が、この状況が未だによくわかっていないわたしは、どう反応すればいいのかわからないだけだったのですが。 遺跡の中を惑って。 ギラティナを見つけて、勝負して、負けて。 そして逃げ出して。 その先で、そうだ、彼女に手を引かれて…… 「……ナキリは?」 辺りを見回すと、わたしとギラティナから遠く離れた場所に、小さなヨノワールが1匹、背を向けていました。 ちらり、とこちらを見ましたが、また目線を外してしまいました。 先に話を聞いてくれないか、とギラティナが言ってきました。 『ゴーストポケモンには、大きく分けて2つの種類があるのを知っているか?』 ギラティナが聞いてきました。 わたしは首をひねりました。進化系をまとめても、ゴーストタイプのポケモンにはもっとたくさんの種類がいたはずです。 そういうものではないんだ、とギラティナは言ってきました。 この世の中にいるゴーストポケモンは、2つに大別されるそうです。 1つは、他のポケモンたちとほとんど変わらない生活をしているもの。 そしてもう1つは、『あの世』と『この世』を行き来して、魂を運ぶもの。 この2つははっきりと分けられているわけではなく、誰もがどちらにもなりうるのですが、『ある特定の』ポケモンは後者になりやすいそうです(その『ある特定の』が何なのかは教えてもらえませんでした) そのポケモンたちは、死にかけている生き物や、彷徨っている魂を見つけては、霊界に送り届ける『仕事』をしているそうです。 ポケモンの世界にも仕事という概念があるのか、と思いましたが、ポケモンの持つ高い社会性を考えれば、そこまで不思議なものではないのかもしれません。 『お前も気づいているかもしれないが、その……』 「……ナキリも、その中の1匹だったんですね」 ああ、そういうことだったんですか。 あの日、病院にいたわたしの前に、ナキリが現れたのは。 『『階段から落ち』て頭を打ったお前は、あの時に死ぬはずだった。だがお前が今まで生きているのは、ナキリがお前を生かしたからだ』 「なぜですか?」 『……それは後で、直接聞くといい』 とにかく、と、ギラティナは黒い翼を動かして言いました。 『お前があの日以来ゴーストを見られるようになったのは、お前がわずかでも霊界に足を踏み入れたからだ』 「……ここが、霊界なのですね」 『その通りだ』 「では、わたしは死んだのですか」 『……いや、そうとは言えないようだ』 こんなケースはとても珍しいことなんだが、と言って、ギラティナは顔を近づけてきました。身体の大きなポケモンに近づかれるのは、さすがに少し恐怖感がありました。 『霊界に足を踏み入れたことで、お前は生死の境が希薄になっていた。更に、これだ』 ギラティナは、わたしの首元の布を尾の先で指し示しました。 父母の葬式の時から肌身離さず身につけていた、黒っぽい灰色の布。 「霊界の布……ですか」 『左様。さすがに知っているな。それには膨大な霊力が秘められている。長年持っていたことにより、その霊力がお前に移ってしまったようだ』 理解しづらいことだとは思うが、要するに、とギラティナはまたわたしから離れながら言いました。 『お前は生きているが、死んでいる。ゴーストポケモンと同じように、死んだ身でありながら、生きている。人の姿をしたゴーストポケモン、というのが最も近いかもしれないな』 生きながら、死んでいる。わけがわかりません。 命を持った幽霊。 人であり、ゴースト。 どういうことですか、と詰め寄ろうとして、そこでようやく違和感に気が付きました。 足の先が、ありません。 足首辺りから先が、霧のように、虚空にかき消えているのです。 それこそ、ヨマワルやヨノワールのように。 それで実感がわきました。 わたしはもう、『この世のもの』ではないのだ、と。 呆然としているわたしを気にしてくださったのか、ギラティナが声をかけてきました。 『ショックかもしれないが……』 「……いいえ、これではっきりとしました。」 不思議と、それほどショックではありませんでした。 わたしは妙に冷静に、素直に現状を受け止めていました。 「……わたしはもう、今までどおりの世界に戻ることはできないのですね」 生きていようとも、死んでいようとも、わたしはもう、普通の人間ではないのですから。 いいえ、もしかすると、もっと前からわたしは普通の人間ではなかったのかもしれません。 ナキリと出会ってからというもの、わたしは異様に体が丈夫になって、傷もすぐに治るようになっていました。あれも今考えると、何か人間離れした力が関わっていたのかもしれません。 きっと、これでよかったのでしょう。 わたしのような人間は、いなくなった方がよかったはずですから。 それでだ、とギラティナが声をかけてきました。 『お前にはひとつ、『仕事』をしてもらいたい。私の命に従って、魂をこの世界に連れてきてほしい』 「ナキリと同じような仕事……ですか」 『人間とポケモンは、元々同じと言ってもいいほど近いものだ。やってやれないことはあるまい』 一瞬、躊躇しました。どう考えても、ひとの命に関わることなのですから。 しかし、いずれにせよわたしには、他に選択肢などないのです。 「……わたしにできることでしたら、何でも仰せの通りに。ギラティナ様」 もう戻れないのならば。 わたしを必要としてくださるならば、何でもしましょう。 ギラティナ様は満足そうにうなずきました。 では頼んだぞ、と言って、ギラティナ様はどこかへ行ってしまいました。 何もない空間に、わたしとナキリだけが残りました。 「……」 『……』 お互い一言もしゃべりません。ナキリもわたしに背を向けたままです。 ナキリ、と呼ぶと、小柄なヨノワールの肩がぴくりと震えました。 「貴女は知っていたんですか? ……わたしがあの時、死ぬはずだったことを」 『……。……はい、知っていました』 「それなら、なぜ……」 それは、と言いかけ、ナキリは口を噤みました。 無言の時が流れました。わたしは頭を左右に振り、息を吐きました。 「……もう、いいです。わかりました」 わたしはため息交じりに言い、その場を後にしました。慣れないことばかりが続いたせいなのでしょうか、わたしは無性に苛立っていました。 ナキリはちらりとだけこちらを見て、それきり動きませんでした。 心の中がもやもやとしたまま、わたしは歩きました。 こんなに激しく心の中がざわつくのは初めてのことです。怒っているのか、それとも別の何かなのか。わかりませんが、とにかくざわついていました。 それでもともかく、わたしにはやることがあります。 わたしを必要としてくださるのならば、それに応えなければ。 ぞわり、と背中に悪寒が走りました。 辺りが、暗い。 周りがすべて、闇に覆われています。 闇の中に、光るものが見えます。 赤、金、青、無数に光る、目、目、目。 怒っているのか、はたまた笑っているのか。ざわざわと騒ぐ声。 人間のくせに、俺たちの世界へ入ってきやがって。 ポケモンでもないくせに、俺たちの仕事を奪いやがって。 昔のことなんて知るか。ここは俺たちの居場所だ。 人間なんか、いらない。 いらない。 いらない。 鋭い影の爪が飛んできたことをきっかけに、闇の中から無数のゴーストポケモンたちが湧き上がってきました。 ああ、やはりそうでしたか。 わたしの居場所など、どこにもありはしなかったのですね。 数多のポケモンたち相手に、非力な人間のわたしはどうすることも出来ません。 あっという間に切り裂かれ、吹き飛ばされ、血の海に叩きこまれました。 瞬く間に削られていく命。ああ、人間と言う生き物は、本当に何て弱いんでしょう。 何の抵抗も出来ないまま、ここで消されてしまうのですか。 しかしそれも、仕方がないことなのかもしれません。所詮死に損いの命なのですから。 わたしは唯一開くことのできた左目を閉じ、とどめの一撃を待ちました。 ギギィ、と刃と刃がぶつかり合うような音がしました。 驚いて目を開けると、わたしの目の前に、影で作られた大鎌を持った、小柄なヨノワールが立っていました。 あれはいつのことだったでしょう。確か、彼女がまだ小さなヨマワルだった頃。たまたま読んでいた本の挿絵の『死神』が持っていた鎌に惚れこみ、『かげうち』の影の形を変えるようになったのは。 間違えようがありません。世界広しといえども、あんな大きな鎌をふるって戦うヨノワールなんて、彼女しかいやしないのですから。 「な……きり……?」 息も絶え絶えにわたしが呼ぶと、ナキリはそっとこちらを向きました。 周囲からの声が大きくなります。 貴様、ギラティナ様の部下のくせに、邪魔をするのか。 所詮貴様は、人間に飼われたポケモンか。 この裏切り者めが。 裏切り者。 『うるさい!!』 ナキリは一喝し、鎌を他のポケモンたちに向けました。 『あなたたちが何と言おうとも、わたしの主人はこの人です! あなたたちと戦おうとも、ギラティナ様に逆らおうとも……わたしは、この人を護ります!!』 裏切り者、裏切り者め。 お前も一緒に殺してやる。 『かかってきなさい。どれだけ束になろうとも、あなたたち程度、わたしの足元にも及びません!』 そう言って、ナキリは鎌を構え直しました。途端に、ポケモンたちが一斉に飛びかかってきます。 ナキリは素早く鎌をふるいました。柄で突き、峰で薙ぎ払い、鋭い刃で切り捨てる。 ええ、わかっています。彼女の強さは、いつも彼女の一番そばにいた、わたしが一番わかっています。 ナキリは、強い。 その辺のポケモンなど、どれだけ集まっても、彼女の前では意味をなさないほど。 あっという間に、彼女の周りには、倒れたポケモンたちが山になっていきました。 周囲の声が、困惑に変わります。ナキリは鋭い目であたりをにらみつけました。 ふっ、と、気配を感じました。 ナキリの死角になったところから、ポケモンたちが襲いかかってきました。 彼女ではなく、わたしに。 『!! ……あぶないっ、マスター!!』 何が起こったのか把握するのに、時間がかかりました。 一瞬の光景が、まるでスローモーションのように目の前を流れました。 わたしに向かって撃たれた攻撃は、わたしに当たることはありませんでした。 ナキリが、身を投げ出してわたしを庇ったから。 ナキリは、胸元を貫かれて。 血の海に、沈みました。 「……な……」 わたしは動かない体を引きずって、ナキリの体に触れました。 ナキリの体にも、わたしの手のひらにも、べっとりと赤いものが付きました。それがわたしのものなのか、ナキリのものなのか、それすらもわかりません。 「ナキリ、ナキリ」 わたしは必死で呼びかけました。ナキリは痙攣するように動いて、唸るような声を上げただけでした。 ぶつり、と、わたしの中で何かが切れました。 「……ナキリ……」 血の海の中から、わたしは起き上がりました。 ざわざわ、と周りからざわめく声が聞こえます。しかし、どうでもいいことでした。 「ナキリ……ナキリを……」 それ以上に、わたしの心の中がざわめいていました。 辺りの闇より暗いものが、心の中を覆っていきます。 悲しみ、苦しみ、そしてそれらをはるかに超える怒り。 「ナキリを……返せえええぇぇぇぇぇっ!!」 辺りのざわめきが、消えていました。 目の前には、数多のゴーストポケモンたちが転がっています。 苦しい息の向こうで、数匹のポケモンたちが言葉を交わすのが聞こえました。 何だあいつ。何だあいつ。何だあいつ。 あんなの相手に、戦えるわけがない。 人間じゃなかったのか。あいつは一体何なんだ。 何なんだ。 周囲の闇が、晴れていくのが分かりました。 わたしはよろよろと、横たわるナキリのもとへ向かいました。 「……な……きり……」 呼びかけると、ナキリはうっすらと目を開けました。 わたしは立っていられなくなって、その場で膝を折りました。 ナキリはそっと、わたしの頬に、ヨノワールとしては小さな、しかしわたしと比べるとずっと大きな手を当てました。 『ま……すたー……』 わたしも、ナキリの頬に手を触れました。 ああ、貴女はわたしのことを、そんなふうに呼んでいたのですね。 薄れていく意識の中で、これまでの記憶が一気に蘇りました。 ああ、出会った日のことはもちろん、こんなにも多くの思い出があったのかと、自分のことながら驚くばかりです。 貴女はヨマワルのころから小さくて、ヨノワールになってもわたしの背を抜くかどうかといったくらいにしかなりませんでした。貴女は落ち込んでいましたが、そんなことは気にならないほど貴女は強く美しかった。 道端で休んでいる時、貴女の周りにはよく、周辺のまだ小さなゴーストポケモン達が集まっていましたね。よくフワンテやヨマワル達の頭を優しくなでてやっていました。 貴女の言葉を理解することはできませんでしたが、貴女の優しい心は非常に伝わってきました。 リーグで優勝したことも、今ではもう遠い昔のように思えてしまいます。 何気ない日常が、とてつもなく愛おしく思えてきます。 トレーナーと自称するようになって、貴女がそばにいることが当たり前だと思うようになっていました。 全く、ひどい思い込みです。 貴女は一度も、わたしのものになったことなどなかったのに。 こんなパートナーで申し訳ありません。 最後の最後まで貴女に護られてしまいました。 我儘で、自分勝手で、貴女の気持ちを考えていなかった。 わたしは貴女にとって、最高のパートナーにはなれませんでした。 ですが、それでも。 貴女はわたしにとって、最高のパートナーでした。 ありがとう。 さようなら。 ナキリ。 …………。 +++ 気がつくと、わたしはまた、知らない場所にいました。 見回すと、白、白、白。どこもかしこも、白。幼いころに行った病院を思い出しました。 いいえ、よく見ると、知らない場所ではないようです。目線を上げると、きらきらと光がきらめいていて、まるで水の中から水面を見ているようでした。 『気がついたか』 声をかけられ振り向くと、黒い翼が目に入りました。 「ギラティナ……様……」 『よかった。命は拾ったようだな。本当によかった』 ギラティナ様はわたしのそばに来ると、黒い布のような翼でわたしの体を撫でました。 わたしの体は、黒っぽい灰色の布で、まるでミイラのようにぐるぐる巻きにされていました。ギラティナ様が巻いてくださったのですか、と尋ねると、いや、部下にやらせた、と言って顎をしゃくりました。 目線の先には、1匹のヨノワールがいました。目が合うと、軽く頭を下げてきました。当然ながら、ナキリではありません。ナキリと同じくやや小柄ですが、見たことのないヨノワールです。 『本当に、申し訳ない。私のゴーストたちに対する管理が不十分だったようだ』 「いいえ……」 不満は出るでしょう。わたしは明らかなイレギュラーなのですから。 それでも、ギラティナ様はひどく狼狽された様子で言うのです。 『その報いだな……強く、美しく、有能な部下を失ってしまった』 ギラティナ様はそう言って、ため息をつきました。 わたしはしゅるりと顔に巻かれた布を解きました。顔の右半分にずきりと痛みが走りました。相当な回復力を持つはずのこの体でも、今回の傷は早々には治らないようです。 「ギラティナ様」 『お前まで巻き込んでしまって。もちろん、これ以上お前を拘束するつもりはない。本当にすまなかった』 「いいえ、ギラティナ様。どうかお仕えさせてください」 ギラティナ様は驚いたように目を見開かれました。 何を言っているんだ、と言われましたが、わたしの中ではもうとっくに決めていたことなのです。 どのような形であれ、ギラティナ様はこんなわたしを必要としてくださったのですから。 ギラティナ様は困ったような顔をされ、黒い翼を頭を抱えるように動かしました。 『いや、それはとても嬉しい。しかし……お前に顔向けできない』 「わたしのことなどお気になさらないでください、ギラティナ様」 『私の気がすまないんだ。お前だって、これからやりたいことがあっただろう』 やりたかったこと。 わたしが、やりたかったこと。 「でしたら、ギラティナ様。わたしは……」 真っ先にわたしの頭に浮かんだのは、冬の夜に差し出された1杯の温かいカフェオレ。香ばしいコーヒーの香り。 そして、子供のように屈託のない笑顔で夢を語る、店主の顔。 「……喫茶店を、やりたいです」 喫茶店? と首をひねるギラティナ様に、わたしは言いました。 世の中には、黒い『何か』を抱えた人間が、少なからずいます。 強烈な負の感情を、自分の中に抑えられなくなった者。 何かを妄信するあまり、何も見えなくなった者。 人を裏切り続け、自分自身さえも信じられなくなった者。 そしてわたしのように、踏み入れてはならない場所に足を踏み入れてしまった者。 そんな人たちに、違えた道をやり直せる最後のチャンスを。 二度とわたしのような者を出さないための、最後の砦として。 1杯のコーヒーを通して、道を示すことができれば。 『わかった、いいだろう』 ギラティナ様は、すぐに許可を出してくださいました。 『「あの世」と「この世」の境目の一角を、お前に貸してやろう。必要なものがあるなら、出来る限り用意しよう。お前の好きに使うがいい』 +++ 仕立てたばかりの服を着て、わたしは鏡を覗き込みました。 鏡に映る自分の顔を見て、思わず苦笑いが浮かびます。酷いものです。おそらく、今後もこの傷跡が消えることはないのでしょう。 帽子をかぶり、顔の右半分を隠すように傾けました。これでいくらかはましに見えるはずです。 看板をかけ、扉を開くのはまた後回しにしましょう。 わたしは首に黒っぽい灰色の布を巻き、傍らの花束を持って建物を出ました。 その場所に着いたときには、すでに空の色は赤みを帯びてきつつありました。 先客がいました。わたしは彼に軽く頭を下げ、墓石の前に花束を置きました。 『人間は分からん』 ヨノワールの彼は、手を合わせるわたしに向かって、小さな声でそういいました。 『その石の下に死体はない。ましてや人間のように、幽霊として精神がこの世に留まることもない。すでに死んでいるわたしたちゴーストが死んだところで、何も残らない』 「そうですね」 『結局はお前の自己満足にすぎないということだ』 「でも、あなたはここへ来てくださいました」 太陽は空から地の下へ潜っていきます。 空は鮮やかな茜色。姿は見えますが、顔は暗くて見えません。 あそこにいるのは誰だろう。 だから「誰そ彼」。それが「黄昏」。 黄昏時の黒い影は言いました。 『生きていて何よりだ』 「貴方のおかげです。もとより……幽霊なので生きているのか死んでいるのかよくわかりませんがね」 『そんなもの、お前より長くこの世界にいるわたしにもまだわからない』 「長いのですか。あの方にお仕えして」 『少なくともお前よりはな』 太陽がすべて隠れると、辺りはあっという間に闇に包まれていきます。 『わたしも、お前に負けないくらい複雑な事情はあるよ』 「興味深いですね。お聞かせ願えませんか?」 『……ここで話すには相応しくないな。お前の店で話そう。看板をかけることくらいは手伝ってやる』 先に行っているぞ、と彼は歩き出しました。 わたしが墓石の前から動かないでいると、呟くような小さな声が聞こえてきました。 『……妹が、世話になったな』 少し小柄なヨノワールは、わたしに背を向けたまま言いました。 わたしはそっと目を閉じました。 風が吹きました。墓前の花束が揺れる音が聞こえます。 「……さあ、行きましょう、ナキリ」 左頬を涙がひと筋、流れて落ちました。 影とヒトガタ ←←← Back | Next →→→ |