携帯電話を手の中で弄んでたら、石につまずいた。そしたら電話は手から滑り落ちて、あろうことか川にダイビングした。
 あーあ、またやっちゃった。アタシは多少大げさにため息をついた。




+++影とヒトガタ+++




 「あいつにかかわると不幸になる」。それがアタシが小さいころから周りに言われ続けてきた言葉。

 幼稚園の時仲のよかった男の子は、アタシと遊んだ帰り道、近所で買われてたガーディに噛みつかれて入院した。  アタシと話をしなくなってからは、ケガ1つしなかったらしいけど。
 小学校の時に担任だった女の先生は、放課後にアタシと話したその日、旦那さんと喧嘩して離婚した。
 アタシが転校してからは、旦那さんとよりを戻してまた幸せに暮らしてたらしいけど。
中学に入って初めてアタシに声をかけてくれた女の子は、その帰り道に足を滑らせて崖から転落死。
 アタシもこればっかりはどうしようもないんだけど。
 父さんはどんな会社に勤めてもすぐクビになって、母さんはずっと病気で入院。
 アタシが家を出て一人暮らしを始めたら、どっちも途端によくなったみたいだけど。

 そんなアタシ自身も、もちろん不幸続き。買ったばっかりのものなんていつも失くすし、道を歩いてて車とか突進してきた大型ポケモンにはねられるのなんてしょっちゅうだし、何より、いつも孤独。
 しょうがない。アタシがみんなに不幸を運ぶんだもん。アタシと関わりたい奴なんて誰もいない。だからさっき華麗なダイビングを繰り広げたあの携帯電話だってただの飾りで、本当は誰からも電話なんてかかってきやしない。

 アタシは、運に見放された人間。
 他人も、自分も、アタシがいる限り幸せになんてなれない。


 びしょびしょの携帯電話をポケットに入れて、人目を避けるように街中を歩いてたら、いつの間にかアタシは路地裏に入り込んでた。
 コンクリートの建物であたりを囲まれてて、じとっとしてるし薄暗い。どこを向いても同じような風景ばっかり。
 あーあ、また知らない道に入っちゃった。道に迷うのもいつものことだから、アタシはため息をついて戻る道を探すことにした。

 その時、アタシの目に、周りとはちょっと違う建物が映った。
 レンガ造りの小さな店。辺りの景色から明らかに浮いてる。入口には黒い看板がかかってた。

 『Cafe Requiem』

 ふーん、喫茶店か。アタシはちょっとのぞいてみることにした。


「いらっしゃいませ」

 アタシが店に入ったのに気がついて、カウンターの中にいた男が、アタシに向かって微笑みかけながら言った。
 顔は決して悪いとは言わないんだけど、何と言うか、格好が変。
 筒みたいな帽子を傾けて被ってて、首元に黒っぽい灰色の布を巻いてて、焦げ茶色のフリース着てて、腰にダブリエ巻いてて、手には灰色の手袋まで付けてる。
 アタシは思わずその男に言った。

「何それ、コスプレ?」

 その男はアタシのコメントを聞いて、声をあげて笑った。

「まあ、そう思っていただいても結構ですよ」

 うーん、いまいち釈然としないリアクション。やっぱり変な奴。
 そいつはカウンターをトントンと指で叩いた。座れって言ってるみたい。ま、立ったままなのも何だし、ってことでアタシは遠慮なく座った。

 店の中は結構お洒落。ジャズのレコードがかけられてて、アンティーク調の照明と結構レトロな感じの内装がそれにすごくマッチしてる。この男の変な格好も、この店の中の雰囲気とならなぜかぴったり合ってるような感じ。
 アタシが店の中を見渡してる間に、男はサイフォンからコーヒーを注いでアタシに差し出した。サービスです、とか何とか言って。

「あら、女の子だからって無理しなくていいのよ?」
「生憎、少女趣味はないものでして」

 男はにっこりとしながら言った。むう、アタシこれでも一応17なんですけど。外見は年相応のつもりなんですけど。見た目はアタシと大して違わないくせに何言ってんだか。それとも何、こいつそんなに童顔なの? 若造りなの?
 アタシはちょっとむっとしながらコーヒーを飲んだ。びっくりするくらいおいしかった。

「ん、ちょっとムカつくけど意外といい腕じゃない、アンタ……じゃ失礼か。何て呼べばいい?」
「そうですね、『マスター』と呼んでいただけると嬉しいです」

 男……マスターは、そう言ってまた微笑んだ。喫茶店だから、マスター。まんまね。


 マスターはカウンターに頬杖をついて、アタシがコーヒーを飲むのを見ながら言った。

「少し退屈していたんです。今日は誰もいらっしゃらないから」
「こんな路地裏に店構えてちゃ、来るもんも来ないんじゃない? ここのコーヒーなら表通りの一等地でも十分やっていけるでしょ?」

 アタシがそう尋ねると、マスターは無理なんですよ、と言って首を横に振った。
 どうして? って聞くと、マスターは少し間をおいて、ちょっと意地悪そうな顔で答えた。

「わたしは幽霊ですから」

 マスターの言った言葉の意味を理解するのに、少しばかり時間がかかった。だけど、よく考えてみればそんなに難しいことじゃなかったから、アタシはああ、なるほど、とすぐに納得した。
 そしたら、マスターはちょっと意外そうな、残念そうな顔になった。

「随分あっさりされているんですね。大抵の方は驚かれるか怯えるのですが」
「残念。アタシ普通じゃないから、そんなに簡単に驚いたりしないの」

 そうですか、ってマスターもすぐ納得した。そっちこそあっさりしてるっつーの、ちょっとはツッコミなさいよ、って心の中でつぶやいた。
 にしても、幽霊って今まで見たことなかったけど、もっと透けてたり壁とか物ををすり抜けたりするのかと思ってた。でもマスターはさっきからカップもソーサも持ってるし、今飲んでるコーヒーだって本物。幽霊って実は実体があったりするわけ?

「まあ、そうですね。ゴーストポケモンにも実体がありますし」

 マスターは、アタシが考えてることを読み取ったみたいに言った。そういうことを考える人はアタシ以外にも結構いるみたい。
 まあ、当然といえば当然か。世間のイメージする幽霊ってそんなもんだもんね。

「ん、まあそうだけど、じゃあ何? マスターって死んで幽霊になってから自分の肉体に乗り移ってるとか?」

 アタシがそう聞くと、マスターはほんの少しだけ真面目な顔つきになって、静かに言った。

「違います。わたしは……死んではいないんです」

 わけがわからなくて、アタシはマスターの顔を見つめたまま動けなかった。
 だってそうでしょ? 幽霊って死んだ人の魂っていうじゃない。死んでないのに幽霊ってどういうこと? それって矛盾してない?
 マスターはそんな反応を待っていた、って感じの顔をした。さっきスルーしたの、よっぽど根に持ってたみたい。

「……ギラティナ、というポケモンをご存知ですか?」

 アタシは首を横に振った。そんなポケモン、見たことも聞いたこともない。そもそもアタシ、ポケモントレーナーじゃないし。
 マスターはそうでしょうね、って言って、アタシに簡単な説明をしてくれた。


 ギラティナって言うのは、この世の裏側に住んでるって言われてるポケモン。言ってみれば死後の世界、霊界の総元締めみたいな存在らしい。閻魔大王みたいな奴なわけ?って聞いたら、まあそう思っていただいても構いませんよ、って返された。
 で、その何かすごそうで怖そうな感じのするポケモンは、とある泉のそばにある洞窟の奥で普段はひっそりと眠ってるんだって。

 で、マスターは昔、ヨノワール使いのトレーナーだったんだって。結構実力もあって、その筋では割と有名だったとかそうでないとか。もちろんアタシは知らないけど。
 それで、ある日ひょっこりと立ち寄ったのが、そのギラティナのいる洞窟。マスターはそこに行ってみたんだって。
 そこでギラティナに会ったんだって。

 それでゲットしようとしたけど、捕まえられなかった。だから、マスターは逃げだした。
 必死で逃げたんだけど、どうしても出口が見つからなかった。

 そうしたら、マスターのヨノワールがマスターに、『指令を受けて、あなたを霊界に連れていかなければならない』って言ったんだって。
 アタシは初めて聞いたんだけど、ヨノワールって、ギラティナから指令を受けて、人を霊界に連れていく役目を負ってるんだって。
 眠ってたギラティナを怒らせた時点で、マスターの運命はもう決まってたんだって。


「わたしはそのまま、霊界へ連れていかれました。……生きながら、ね」

マスターはそう言って、自嘲するようにふっと笑った。

「わたしは生きながら幽霊になったんです。死んではいません。とはいえ、今の状態は生きているとは言い難いですがね。矛盾しているようですが、生きたまま死んでいるんです」
「……何それ、わけわかんない」
「ゴーストポケモンがまさしくそうでしょう。彼らは死した魂たちですが、ひとつの個体の生命体として生きている。わたしも同じです」
「人間なのに、ゴーストポケモンになっちゃったの?」
「まあ、ゴーストポケモンのような存在、と言ったほうが正確かもしれませんが、そう思っていただいても結構ですよ。昔は人もポケモンも同じだったという話もありますしね」

 マスターはそう言ってちょっと笑った。
 アタシはマスターをじっと見た。

「……アタシも、そうなりたいな」

 つい、本音が出た。今度は、マスターがアタシの顔を見た。
 マスターは話が上手い。相手から言葉を引き出す天才だ。普段他人と会話をしないせいか、ほとんど心の中を口に出さないアタシが饒舌になる。
 心の中のもやもやを……たまりにたまった鬱積とか、恨み事とか、そんなものを次々と吐き出したくなる。
 神に懺悔する気持ちに似てた。それと同時に、悪魔に語りかけるような気分にもなった。

「アタシね、厄病神なの。どんな人でも、アタシと関わるとロクなことがない。アタシ、みんなを不幸にするの。自分も含めてね。気がつくと、アタシのまわり、誰もいなくなっちゃった。アタシを見ると、みんなあわてて逃げだすの。でも、しょうがないよね。不幸になりたい人なんていないもん。いっそ、幽霊になったほうが楽だよ。アタシなんかいないほうがみんな幸せになれるもん」
「……なるほど、そういうことですか」

 マスターが静かに言った。もう笑ってなかった。
 すごく真面目で、真剣な顔。真っ赤な瞳がアタシをじっと見てた。
 マスターは少し間を空けて、静かに言った。

「霊界に行くのは至極簡単です。……ですが、あなたはこの世界に踏み込まないほうがいい」
「どうして? ねえ、どうしてよ!」

アタシは思わず強い口調で言った。今にも泣きそうになってた。

「アタシ、人間として生きてても意味ないの! 居場所がないの! 新しい生き方があるんならそれに賭けてみたいの! アタシの気持ちわかってよ!!」
「あなたは無理です。死にます」

 マスターは静かに、でもきっぱりと言い切った。
 アタシは顔を上げた。マスターの赤い瞳が、何となく光ってる気がした。

「あなたはこの店に入ってきた時、わたしに向かって言いましたよね。『コスプレ?』と」
「う……うん」
「そう、これは似たようなものです。このわたしの格好から、あなたは何を連想しますか?」

 アタシはもう一度、まじまじとマスターの格好を見た。
 斜めにかぶった灰色の円筒状の帽子には、横に1本黄色い線が入ってて、てっぺんには黄色い突起がある。赤い瞳は帽子に隠れて片目しか見えてない。襟はあごが隠れるくらい立ててて、着ている服は焦げ茶色。肘のあたりに黄色い線が2本入ってて、カフスは黒。手には灰色の、厚手の手袋。
 初めて見たときから何となく予想はしてたけど、じっくり見て確信した。

「もしかして……ヨノワール?」
「そうです」

マスターはうなずいた。そして、静かに話を始めた。


「生きたまま霊界に連れていかれた人間は、わたしだけではありません。過去に何人もいました。しかし、いくら霊界を探しても、こんな人間はわたししかません」

「生きながら幽霊になったわたしは、ギラティナ様から指令を受けました。ヨノワールと同じような仕事です」

「先程、昔は人間もポケモンも同じだったという話を少ししましたね。そう、昔は同じだった。だから、人間であるわたしにもやってやれないことはない。……ところで」

 マスターはアタシを見た。表情が少しこわばってる気がした。

「わたしは何があっても、誰かの前でこの帽子と手袋をとることは決してありません。なぜかわかりますか?」

 アタシは無言で、首を横に振った。そんなのわかるわけない。
 そうですよね、とマスターは言った。そして手袋をはずして、帽子をとった。
 帽子に隠れていたマスターの素肌を見て、アタシは思わず大きな叫び声を上げた。

 隠れていた肌は、無数の傷痕で覆われてた。右目はもう開けなくなってたし、傷跡のないところはどこにもないくらいだった。手袋の下もそうだった。帽子に隠れてなかった顔の左半分が奇跡みたいだった。
 マスターは開いている左目でアタシを見た。

「服の下はもっとすごいですよ。見ますか」

 アタシは必死で首を横に振った。マスターはそうですか、と言って帽子と手袋を戻した。
 傷跡をすっかり隠して、マスターは話を続けた。

「ポケモンと人間が一緒だったというのはもう昔の話です。今いるポケモンたちには何に関係もない。彼らの中に、人間であるわたしが紛れ込むことが気に食わなかったのでしょう」

「ギラティナ様から指令を受けて、霊界からこちらの世界に戻ってきた、直後のことです」

 マスターはここで一旦、大きく息を吐いた。瞳が暗い、悲しそうな色をしてた。


「わたしは突然、襲われました。無数のゴーストポケモンたちに」


 マスターは少しうつむいて、右手で左の二の腕をつかんだ。アタシの見間違いでなければ、額から少し冷や汗が出てた。
 しばらく黙ってから、マスターはまたアタシのほうを向いた。

「先ほどの傷はすべて、その時受けた者です。昔どんなに優れたトレーナーだったとしても、わたしは単なる人間。彼らに対抗できる術はありませんでした」

「わたしは幽霊ですが、死んでいない。大きな傷を受ければ死にます。ゴーストポケモンも大けがを負えば死ぬように。わたしは彼らに殺されるところでした」

「ですが、その時……誰かが彼らの攻撃からわたしをかばってくれました」

 それって、まさか……とアタシが聞くと、マスターはええ、と言って、悲しそうな笑顔を浮かべた。


「わたしがトレーナーだった時、最高のパートナーだった……ヨノワールです」


「彼女は強かった。とてつもなく強かった。ですが、相手の数の多さには敵いませんでした。その上、わたしのことをかばいながらなので、まともに戦えるわけがありません。彼女はわたしの代わりに致命的な傷を受け……そして……わたしの代わりに、死にました」

「……そこから先は、覚えていないんです。わたしはとにかく悲しくて、苦しくて……そして何より怒っていた」

「気がついた時には、わたしは数多のゴーストポケモンたちを叩き伏せていました。怒りにまかせて殴り倒してしまったようです。人間である、この、わたしが」

「それからのことです。ゴーストポケモンたちが私に一目置くようになったのは。わたしの存在を認めるようになったのは」

「わたしは彼らをなるべく刺激しないために、全身の傷跡を隠すために、そして何より、命に代えて私を護ってくれたパートナーのことを決して忘れないために、ゴーストポケモンを……ヨノワールを連想させるこの格好をしているのです」


 痛いほどの沈黙が流れた。マスターは目を閉じて、じっと考えに耽ってた。時々、目を押さえていた。目もとにきらきらと光るものが見えた。
 アタシは何て声をかければいいのか分からなくて、とにかく黙ってうつむいてた。
 しばらくして、マスターは静かに告げた。

「……ですから、わたしがこうやってここにいるのも、彼のおかげなんです。だから、あなたがわたしと同じことをやっても駄目なんですよ」

 そう言って、マスターはもう一度アタシを見た。マスターの視線はとても冷酷で、でもなぜかとても温かかった。アタシは目を合わせることができなかった。

「……アタシ、これからどうすればいいの?」
「それはわたしにはわかりません。……ただ、ひとつだけ、警告しておきます」

 マスターは静かに言った。

「あなたを一目見てわかりました。あなたは心の中にどす黒い感情を抱いています。それをずっと抱いていると、いずれ取り返しのつかないことになりますよ」
「『どす黒い感情』? 取り返しのつかない、って……何?」

 マスターは何も答えずに、店の壁にたった1つだけある窓の外を見た。

「外が騒がしくなってきましたね。もうお帰りになったほうがよろしいかもしれません。この路地裏は霊界との境目が非常に薄くなっています。ここにいては危険です」
「マスターは守ってくれないの?」
「残念ですが、わたしがお客様をお守りできるのはこの店内までです。その後のことは保証できません。私にできるのは、あなたに一言忠告を差し上げることだけです」

 マスターは、アタシの目をじっと見た。赤い瞳に吸い込まれそうになった。

「言葉は鎖であり、鍵であり、信号です。この店を出て大通りに戻るまで、その『どす黒い感情』を……あなたの中に渦巻く憎悪や嫌悪を、決して外に出してはなりません。約束してください。必ず、守ってください」



 雨が降りそうな空だった。
 灰色のコンクリートの壁に、灰色の空。色あせたアスファルト。
 アタシの心をそのまま写しとったみたいで、気持ちが沈んだ。

 マスターは、何であんなこと言ったんだろう。
 アタシは誰も憎んでなんかいない。誰を恨んでも、誰を嫌ってもいない。
 だって、全ての原因はアタシにあるんだもん。アタシが全部悪いんだもん。

 ああ、そうか、とアタシは気がついた。


「アタシが憎んでたのは、恨んでたのは、嫌ってたのは……アタシ自身だったんだわ」


「……警告はしたのに……あなたもそれを破ってしまいましたね」

 アタシの背後から声がした。
 マスターがアタシの後ろに立ってた。とても悲しそうな顔だった。
 小さくため息をついて、マスターはアタシに背を向けた。


「できることなら、あなたを救って差し上げたかった。あなたならわたしの警告を破ることなく、聞き入れてくれると思っていました。この路地裏を出ることができれば、あなたは変わることができたかもしれないのに」
「え?」
「ですが遅かれ早かれ、いずれはこうなっていました。あなたは彼らに魅入られすぎていた。わたしのところに来た時には、手遅れの状態でした」
「ど、どういうこと?」
「わたしにはもう、手の施しようがありません。……さようなら」

 そう言うと、マスターの姿は霧のように消えた。


 その時突然、全身に気味の悪い感覚が走った。
 とっさに逃げようと思った。だけど、足が動かない。

 アタシの影が、アタシの足をつかんでた。

 はっとあたりを見渡すと、無数の目がアタシを見詰めてた。
 金色と青と水色の3色に塗り分けられた瞳。真っ赤なのもいくつかあった。

 アタシを取り囲んでいたのは、黒いてるてる坊主みたいなのと、口に金色のチャックをしてる人形みたいなの。
 不気味な笑い声が響き渡る。
 影が、アタシの体を飲み込んでいく。

 アタシは、叫び声をあげることすらできなかった。



 小さなカップに、濃いコーヒーを注ぐ。サイフォンの火を落としてから時間が経って、もうすっかり冷たくなっている。
 普段客の座っているカウンターの席に腰掛け、カップの中の液体をくるくると回す。

「カゲボウズに、ジュペッタ。彼らは恨みや妬みの感情を求めてさまよっています」

 真っ黒な液体をじっと見ながら、独り言をつぶやく。
 まるでそこに、誰かいるかのように。まるでそこに、先程の少女がいるかのように。

「彼らは元々捨てられた人形。魂が依代を求めて乗り移り、彼らが生まれました。そして彼らは、自らの実体である、人形を捨てた人間を探しています。……ではなぜ彼らは、恨みや妬みの感情を求めるのでしょう?」

 カップに口をつける。黒い液体が少し口の端からこぼれ、焦げ茶色の服に小さな染みを作る。

「彼らは常に探しています。自らが安心して、落ち着ける場所を。より良い依代を」


「……強い負の感情で心が虚ろになり、まるで人形のようになった人間を」



 細い路地の上で、1人の少女が倒れていた。

 雨が降り始めた。少女の体を、髪の毛を、雨粒がゆっくりと濡らしていった。
 少女はゆっくりと起き上った。両腕を力なく垂らし、首もだらんと下を向いている。
 1匹のジュペッタが少女の前に現れた。ジュペッタはさも楽しそうにケタケタと笑った。
 少女は顔を上げた。
 人形のような虚ろな顔。両目は金色と青と水色に光っている。

 雨の降る中、少女は力ないふらふらとした足取りで、どこへともなく歩いていった。



 ことん、と軽い音を立てて、カウンターにカップを置く。
 マスターは椅子の背もたれに寄りかかり、ため息をついた。


「やっぱり退屈ですね……今日は」





採掘者 ←←← Back  |  Next →→→ 黄昏の黒―Dusknoir―




あとがき

ほんの少しだけ過去に触れる。
確信に入るのは、きっと次から。



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