俺はただ、ちょっとした気まぐれで路地裏に入っただけだった。
 だけど、気がついたら迷い込んでた。
 薄暗い路地の片隅に、ひっそりと建ってる1軒の喫茶店に。




+++Requiem+++




 自分で言うのもなんだけど、俺は結構名の知れたポケモントレーナーだ。
 この地方のジムも全部制覇したし、リーグに挑戦して結構いい順位になったこともある。
 俺は自分の実力に自信がある。俺を超える奴なんてそうそういないと思ってる。


 俺はある街の大通りを歩いていた。特に何がしたいというわけでもなく、やることもなかったから、ただ何となく。
 だけどその日、ふと目についたのが、通りの脇に逸れる細い路地。
 暗くて狭い路地裏っていうのは、何か不気味で危険な雰囲気がする。だから好き好んで入る奴なんてほとんどいない。
 だけど、俺は自分に自信があったし、危険な目にあっても対処できるくらいの実力はあると思ってた。
 だから、ちょっとした気まぐれでその路地に入ってみた。

 ……そう。単なる気まぐれだったんだ。


 コンクリートの壁に挟まれた細い道。建物に囲まれているから日の光もあんまり入らなくて、昼間なのに薄暗い。進むほどにたくさんに道が絡み合って、まるで遊園地にある立体迷路みたいだ。
 ちょっと探索するだけのつもりだった。だけどいつの間にか、俺は路地裏のどんどん奥へ入っていっていた。
 気がつくと、自分が今どこにいるのか分からなくなっていた。
 さすがにこのまま迷子になるのは恥ずかしいから、俺は大通りに戻ろうと思った。

 と、その時、俺の目に1軒の店が入った。
 辺りのコンクリート造りの建物とは明らかに違う雰囲気を醸し出している、レンガ造りの小さな建物。
 木で出来た扉には『Open』と書かれた札が下がっていて、黒い看板には紅色の文字でこう書かれていた。

『Cafe Requiem』

 なぜかわからないけど、俺は不思議と惹きつけられる感じがした。
 そして気がつくと、俺は自然と店の扉を開いていた。


 ドアベルが軽快な音をたてる。
 レンガと木の色を基調とした、落ち着いた色彩。派手な飾りのない金属製のアンティークの照明。古びたレコードが静かに奏でるピアノ・ソナタ。
 様々なグラスやカップが並べられた大きな棚の前には木製のカウンターがあって、その前に客らしい人物が1人座っている。
 カウンターの中に立っている、店主らしい男は俺を見て、微笑みながら言った。

「いらっしゃいませ」

 そいつは一見して妙な男だった。
 首元に黒っぽい灰色の布を巻いていて、焦げ茶色のフリースに、焦げ茶色のダブリエを巻いている。
 そして多分喫茶店だというのに、分厚い灰色の手袋をしている。
 しかもその男は、灰色の筒型の帽子を、なぜか傾けて被っている。顔の右半分はほとんど帽子の下だ。顔は鼻先と口と真っ赤な左目しか見えない。
 見るからに胡散臭い。多分、普通の格好なら割とかっこいい男だと思うけど。

 男は今いる客の隣の席を指差し、カウンターを指で軽くトントンと叩いた。座れ、と言っているらしい。何となく断りづらい雰囲気だったから、俺はとりあえず男の示した席に座った。
 席に着くとすぐに、男は後ろの棚からコーヒーカップを取り出し、サイフォンからコーヒーを注いだ。香ばしい薫りが店内に立ちこめる。
 男はミルクピッチャーと砂糖壺を添えて、それを俺に差し出した。

「あ、どうも……ってアンタ、何勝手に出してんだ?」
「お客様、もしかしてコーヒーより紅茶派でしたか?」
「い、いや、別に……」
「そうですか。よかったです。お気になさらないでください。サービスです。それから……もしよろしければ、わたしのことは『マスター』と呼んでください」

 そう言って男……マスターはまたにっこりと微笑んだ。
 とりあえず、コーヒーを一口飲んだ。何となく悔しいけど、かなり美味かった。


「それにしても、久しぶりですね。あなたのような方がここにいらっしゃるのは」

 マスターが唐突に言った。

「俺のような……って? どういうことだ?」
「ですから、あなたのような方ですよ。まあ、わかりやすく言ってしまえば……普通の人間、ってところですか」
「……は?」

 突然何を言い出すんだこいつは。
 俺がそう考えているのがわかったのか、マスターは俺の隣の客を指差した。
 そこにいた客を見て、俺は思わず飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。

 そこにいたのは、人間ではなく……1匹のヨノワールだったからだ。

 そのヨノワールの前には氷の入ったグラスと酒瓶が置いてある。よく見るとラベルにサインがしてある。どうやらボトルキープをしているらしい。恐ろしいことに。
 俺が固まっていたからだろう。マスターが話しかけてきた。

「驚かれましたか? ここではごく普通のことなのですがね」

 ごく普通? これが?
 俺は頭の中が真っ白になった。さっき飲んだコーヒーが胃から逆流してきそうだった。
 例えば、とマスターは、俺の頭の中の様子を知ってか知らずか説明を始めた。

「こちらのかたはこの店の常連でしてね。仕事でとある少年たちを追っているそうですが、いつも逃げられてばかりだとか。飲んでは愚痴っていらっしゃいますよ。今度こそは成功しそうだっておっしゃっていましたよね。また逃げられたんですか?」

 マスターがそう言うと、ヨノワールは軽くカウンターを叩き、小さく声を上げた。ああ、申し訳ございません、とマスターは笑った。
 ……いや、突っ込みたいところは山ほどある。ポケモンが常連なのかよ、とか、飲んで仕事のこと愚痴るってどっかのサラリーマンかよ、とか、そもそも仕事って何だよ、とか、ってか何で喫茶店でウィスキー飲んでんだよ、とか。でもそれ以前に。
 このマスター、何者……?
 普通にヨノワールと会話してるみたいだったし、というか常連だとか言ってたし、こう見ると見た目も何かヨノワールのコスプレしてるみたいだし。
 今更だけど、本当に不気味な店、不気味な店主だ。
 どうしよう。早くこのコーヒーを飲んで席を立つべきだろうか。


 そう思っていた矢先、出入り口のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 マスターはやっぱりにこやかに言った。俺の方はというと、入ってきた客を見てますます血の気が引いた。
 やってきたのは、ムウマージとフワンテだった。ムウマージはヨノワールの隣、つまり俺と2つ離れた席に、フワンテはさらにその向こう側の席に着いた。
 2匹はマスターと会話でもしているようなそぶりをしていた。そしてマスターは棚からコーヒーカップとティーカップを1セットずつ取り出した。
 マスターが紅茶とコーヒーの準備をしていると、ムウマージが俺に気がついたのか、興味津々の様子でこちらを見てきた。俺は全身から嫌な汗が噴き出した。ゴーストに見つめられて楽しい気分になる奴はあんまりいないと思う。
 マスターはムウマージとフワンテにカップを差し出しながら、にっこりと微笑んで言った。

「お客様、店内では他のお客様を驚かせたりしないでくださいね」

 わかってますよぅ、とでも言っているのだろうか、ムウマージはスカートの裾をひらひらと動かし、マスターの肩を叩くようなしぐさをした。
 その様子を見ながらヨノワールはグラスを持ち上げた。顔に口がないのにどうやって飲むのか気になって見てみると、腹の口をガバッと開けて流し込んでいた。ちょっと怖かったから見なかったことにした。
 空になったグラスをカウンターに置き、ヨノワールは立ちあがった。

「お気をつけて。お仕事がんばってください」

 小さく手を振りながら、ヨノワールは店を出た。またドアベルの軽快な音が鳴った。
 だから仕事って何なんだろう……と俺は思ったが、それを口に出す気力はなかった。


 ヨノワールが帰って、店には俺とマスター、ムウマージ、フワンテが残った。
 本当に何なんだ、このゴーストだらけの店は。
 早く元の世界に帰りたい。俺はため息をついた。


 先ほどまで流れていたレコードが止まった。マスターは滑るように滑らかな動きで、カウンターの端にあるレコードプレーヤーに向かった。
 マスターはさっき流していたピアノソナタとは違うレコードをかけた。オーケストラの楽曲。荘厳というか、厳粛で、暗い。


 うつむけていた顔をあげると、フワンテが俺の顔を間近で覗き込んでいた。俺は思わず絶叫しそうになった。勘弁してくれ。心臓に悪い。
 フワンテは俺の顔をじっと見てから、糸みたいな腕を俺の手にからませてきた。
 その時、マスターが、今までより少し強い口調で言った。

「お客様。店内では他のお客様を連れていったりしないでくださいね」

 フワンテはマスターのほうを見て、俺の手から腕を離した。
 マスターはそれを確認してから、静かに言った。

「特にその方は、わたしがお呼びした……特別なお客様なんですから」


 俺は固まった。
 『特別なお客様』?
 『わたしがお呼びした』って……どういうことだ?

 冷や汗が俺の額から流れ落ちた。俺は困惑してマスターを見た。
 マスターは、相変わらずの笑顔のまま、静かな声で言った。

「お客様。あなたはポケモントレーナーですね? しかも、相当実力を持っていらっしゃる」
「あ、ああ……」
「あなたは各地のジムを制覇し、リーグでもなかなかの成績を残した経験がある……違いますか?」
「な、何で知ってるんだ!?」
「目を見ればわかります。わたしも以前……ポケモントレーナーでしたから」


 レコードから暗い旋律が流れる。
 マスターの声が、静かなメロディーに溶けていく。
 カップの中に残ったコーヒーは、もうすっかり冷めていた。


「自分で言うことではありませんが、わたしも相当な実力を持っていました。ジムを制覇して、……チャンピオンになったこともあります。わたしは自分の才能に自信を持っていました。そしていつからか、わたしは何をしてもいいと錯覚するようになっていました」

「そんなある日のことです。わたしは今まで、見たことのない場所を見つけました」

「それは大きな湖でした。そしてその近くには洞窟がありました。その洞窟は、古代の遺跡のようでした。わたしは好奇心のままその中を探検しました」

「しかし、進んでも進んでも同じような部屋ばかり。気がつくといつも入口に戻っていました。それでもわたしは何度も奥へ進みました。そしてついに、遺跡の一番奥深くへたどり着きました」

「そこには、今まで見たことのないポケモンがいました。わたしはそのポケモンを捕まえようと思いました」

「しかし、駄目でした。そのポケモンはあまりにも強く、わたしには捕まえることができませんでした」

「そして、わたしは逃げました。捕えられないことを悟ったからです」


 そこまで言って、マスターは言葉を切った。
 そして、しばらく俺の顔を見た。マスターの真っ赤な左目に、俺の顔が映った。


「こんな経験、あなたもご存じじゃありませんか?」


 俺は心臓をわしづかみにされたような気分になった。
 それは俺がつい先日した体験と、全く同じものだったからだ。

 マスターはまた、静かに言った。


「あなたはわたしによく似ている。行動が素直で、考え方が単純で、そして……どうしようもなく愚かだ」


 マスターの目が不気味に光った。
 全身に悪寒が走った。動悸がする。恐怖が波のように押し寄せてくる。


 レコードの奏でている音楽が、俺の感情の起伏をなぞるように盛り上がってくる。
 俺は気がついた。さっきから流れているこの曲は、以前聞いたことがある。
 これは……鎮魂歌<レクイエム>だ。


「あ、あの、俺……か、帰ります」

 俺は絞り出すように言葉を発した。マスターはまたにっこりと微笑んだ。

「そうですか。お気をつけて」

 予想に反して、マスターはあっさりと引き下がった。
 俺はすぐに立ち上がり、早足で出入り口に向かった。

「そうそう。お客様、お帰りになられる前に、一言だけ忠告を差し上げます」

 マスターの声がした。
 鎮魂歌は徐々にフェードアウトしていき、消えた。

「お帰りになる際は、大通りに出るまで……決して後ろを振り返ってはいけませんよ」

 そう言って、マスターはまた微笑んだ。



 店を出た。来た時と同じ、薄暗い路地裏。
 無機質なコンクリートの壁。俺はその間を必死で走っていった。

 走っても、走っても、大通りに出ることができない。
 ただコンクリートの壁が両側に続くだけ。その他には何もない。何も見えない。

 ここは、どこだ?
 本当に、あんな店があったのか? あれは単なる夢……悪夢だったんじゃないか?
 得体の知れない不安がこみ上げてくる。

 わからない。
 何も分からない。

 誰か、助けてくれ。

 そして俺はうっかり、来た道を振り返ってしまった。


「……振り返ってはいけませんと言ったのに、振り返ってしまいましたね」


 辺りが突然、真っ暗な闇に包まれる。
 その闇の中に、1人の男が立っていた。
 焦げ茶色の服にダブリエ。厚手の手袋。そして斜めにかぶった円筒状の帽子。

「ま……マスター……」

 マスターは笑っていなかった。
 怒っているような、憐れんでいるような、悲しんでいるような、そんな表情だった。
 真っ赤な瞳が、不気味な光を放っていた。

「これはわたしが差し上げた最後のチャンスだったのに……あなたは自らそれを捨ててしまいましたね」
「さ、最後のチャンス?」
「……実は先ほどの話には、続きがあるんですよ。聞いていただけますか」

 マスターはそう言って、また静かに語り始めた。


「わたしは何とか洞窟から出ようとしました。しかし、どこへいっても出口は見つかりませんでした。わたしは焦りました。とにかく、一刻も早く元の世界に帰りたかった」

「ところで、わたしの一番の相棒はヨノワールでした。ヨマワルのころからずっと一緒だった、最高のパートナーでした」

「彼女はわたしの肩をつかみました。そしてわたしに向かって言いました」

「『我々の主が怒っている。眠りを妨げられて怒っている。わたしは主から命を受けた。あなたを連れていかなければならない』……と」

「彼女はわたしを暗闇へ引きずり込みました。どこまでも深い暗闇でした」


 マスターの口元が、少しだけ緩んだ。
 だけど、眼だけは笑っていなかった。


「わたしが彼女に連れていかれたのは……そう、霊界だったのです」


 俺はそこで初めて気がついた。
 ずっとカウンターに隠れて見えなかった、マスターの足もとが、


 霧のようにかき消え、地面から浮いていることに。


「今のわたしは、生きているわけでも死んでいるわけでもない、そんな存在」

「実体のある幽霊……とでもいいましょうかね。ゴーストポケモンのイメージが近いかもしれませんね」

「……そしてわたしは、使命を与えられました」

「主の眠りを……ギラティナ様の眠りを妨げたものを、」


「わたしと同じように、霊界へ連れていくように、と」


 その言葉に答えるように、マスターの背後で何かが光った。
 そこにあったのは、無数の瞳。
 ありとあらゆるゴーストポケモンたちが、ケタケタと愉しそうに笑いながら、俺を取り囲んでいた。

 マスターは微笑んだ。
 冷めた赤い瞳が怪しく光っていた。


「さようなら。素直で、単純で、愚かなポケモントレーナーさん」


 ……う……う……


 うわあああぁぁぁぁぁっ!!



 大通りを脇に逸れると、迷路のように入り組んだ路地がある。
 薄暗い道を進んでいると、目の前に小さな店が現れる。
 店の入り口には、真っ黒な板に紅の文字の看板。
 『Cafe Requiem』。

 店を開けると、軽やかなベルの音。
 店主はカウンターの中から、優しい微笑みを投げかける。


 イラッシャイ。ソシテ、サヨウナラ。
 スナオデ、タンジュンデ、オロカナポケモントレーナーサン……。





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あとがき
ある日突然頭に浮かんできたキャラクターを、勢いだけをエネルギーに文章にしたらよくわからなくなった好例。
内容は特に何かを言いたかったわけじゃありません。マスターが書きたかっただけです。マスターが。
そして店の客にどっかで見たことがある奴がいたのはきっと気のせい。



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