ごほん。ごほ、ごほ。 「兄ちゃん、風邪?」 「あー、大丈夫大丈夫……」 +++Endless−Winter+++ 冬といえど、ホウエンは暖かい。 陸地の最果てと言われる街、ミナモシティ。ボクはその街の東にある砂浜を歩いていた。 傍らには、マサラタウンを旅立ったときからずっと一緒にいるボクのピカチュウ。名前はチュウ。兄ちゃんに勝手につけられた。自分のがピカだからボクのはチュウだとか何とか。 いろいろなところを旅してきたけど、博士から預かったこの子はずっとボクのそばにいる。 柔らかな日差しがボクとチュウの身体を温める。 砂浜を踏みしめるたびにザクザクという小気味よい音が聞こえ、静かな海から響く波の音もまた心地良い。 くい、くい、とチュウがボクのズボンのすそを引っ張った。見ると、何やら驚いているような表情で前のほうを指差している。 チュウの指すほうを見ると、砂浜の彼方に人影があった。 何だ、ただの波乗りをしている人か。驚くようなものじゃないじゃないか。 ……ん? 待てよ、波乗り? そう、その人影は、ボクとチュウの立っているこの砂浜の上で『波乗り』をしていた。 あまりの光景にボクが唖然としていると、そのホエルコに乗った人影はボクに気がついたみたいで、ボクのほうに近づいてきた。 「こんにちは。イエロー先輩でしたよね?」 「あ、うん……えーっと……ユウキ君?」 砂浜で『波乗り』をしていたのは、ボクたちの後輩にあたるユウキ君だった。 ユウキ君はホエルコに乗ったまま、ボクの目の前で止まった。チュウが怯えてボクの肩にかけ上がってきた。 「先輩、お久しぶりです。今日はレッド先輩はいらっしゃらないんですか?」 「あ、ああ、うん。兄ちゃんは家にいるんだ」 「ご兄弟でホウエンにいらっしゃったんじゃないんですか? 残念。せっかくだから僕の新しい秘密基地にお2人を招待しようかと思ったんですが……」 ユウキ君はそう言って、ごほごほとせき込んだ。 レッドはボクの双子の兄ちゃん。ボクのピカチュウにチュウって名前を付けた張本人だ。 一応双子なんだけど、小さなころから兄ちゃんは自分が兄であることを強調してきた。旅立ちも兄ちゃんは僕より1年以上早かった。だから僕は兄ちゃんのことを普通に『兄ちゃん』って呼んでしまう。他の人から見ると変わってるらしいけど。 と、まあ、そんなことはどうでもよかった。 ユウキ君はボクと話している間も、ずっと『波乗り』をしているままだった。さすがに気味悪い。 「ねえ、ユウキ君……何やってるの?」 「え? 何がですか?」 「いや、何ってその、『波乗り』……」 「え? ……別に変わったことなんてないですけど……」 ユウキ君は不思議そうにボクを見た。 ぞっとした。どこからどう見ても今の状況は異常なのに、当のユウキ君はもとより、近くを通りかかる人たちも気にとめていないようだ。 ごほ、ごほ、とユウキ君は湿っぽいせきをした。 顔を見ると、少し頬が紅潮しているように感じた。 「ユウキ君、風邪?」 「みたいですね。でもどうってことないですよ?」 「でもさっきからよくせき込んでるよね。風邪薬、買ってきてあげるよ」 「え、そんな、悪いですよ先輩に……」 いいから、と言って、ボクはミナモシティへ向かった。 ユウキ君の体調はもとより、ボクは今の異常な状況から逃げたかった。 確かあの街にはデパートがあったはず。水も売ってるし、多分ドラッグストアも入っている。 自慢じゃないけど、ボクは小さいころからほとんど風邪もひかない健康優良児だ。だからそういうところのお世話になったことはあんまりない。 どんなものがあるのかよくわからないけど、どの薬を買えばいいのかな。 本当に……本当にただの風邪薬でいいのかな? そんなことを考えながら、デパートの自動ドアをくぐった。 だけどボクの目の前に広がっていたのは、予想とは全く違う光景だった。 ボクは思わず入り口で立ち止まって、呆然と辺りを見回した。カウンターの中の女性が笑顔を浮かべてお辞儀してくる。 ずらりと並ぶソファ。まっ白なカウンター。部屋の隅にはちょっと古い型のパソコンが置いてある。 ボクが立っていたのは、デパートのエントランスホールではなく、ポケモンセンターの入り口だった。 わけがわからないまま、ボクは部屋の隅のパソコンへ向かった。 ホウエン地方のポケモンセンターに設置してあるパソコンは、確か部屋の隅じゃなくってカウンターのすぐ隣にあった。部屋の隅にはタウンマップが貼ってあったはず。 だけどこのポケモンセンターには見覚えがある。ホウエンよりもっともっと近くにあったはずだ。 「ジョウト……地方?」 混乱しながらボクがつぶやくと、自動ドアが開いて人が入ってきた。 ヨルノズクをボールに戻しながら入ってきたその人影を見て、ボクはまた驚いた。 「あれ……? ゴールド君?」 「あ? イエロー先輩じゃないっスか。お久しぶりっス」 現れたのは、ジョウト地方で活躍している後輩のゴールド君。 ゴールド君はごほごほ、と軽くせき込みながらボクの方へ寄って来た。ユウキ君とよく似た、湿ったせきだった。 「あれ、まさかゴールド君も風邪?」 「あー、大丈夫っス。大したことないっスから。先輩、パソコン使わせてもらっていいっスか?」 ボクはパソコンの前から退いた。ゴールド君はパソコンの電源を入れて、ポケモンあずかりシステムに接続した。 ゴールド君はポケモンの入っていないボックスを選ぶと、手持ちからポケモンを1匹預けた。赤いギャラドスのようだった。 珍しいの持ってるな、と思っていると、ゴールド君のポケットから空のボールが転がり落ちた。 よくあるモンスターボールや、職人のガンテツさんに作ってもらえるボールでもない。だけど見覚えがある。 「ゴールド君、これ……パークボール?」 「あー、うん、そっスよ」 「何でこんなもん持ってるの?」 「だってオレ、今『虫取り大会』から空飛んで抜けてきたんスもん」 「え!?」 ボクは仰天した。虫取り大会は時間制限のあるポケモン捕獲の大会。途中で抜けてくるなんて前代未聞だ。 ゴールド君はまたせき込みながら、パソコンの電源を切って、ボクに向かって言ってきた。 「先輩、俺ちょっと自然公園に行ってきます」 ごほん、ごほんとひどいせきの音がポケモンセンターに響く。 ボクは不安になって、ゴールド君の後を追った。 ゴールド君は自然公園のゲートに行くと、そこにいる係の人に話しかけた。どうやら大会を終了するか聞かれていたらしい。 ボクたちは明らかに公園の外側から来たのに、係の人は全く気にもしていない様子だった。 係の人との話が終わると、ゴールド君はボールからマリルを出した。 一瞬、きらっとまばゆい光が走った。 そこにいたのは、緑色のマリル。色違いだった。 ゴールド君はリュックから『不思議な飴』をとりだすと、すぐにマリルに与えた。緑色のマリルは一瞬で金色のマリルりになった。 だけど、ボクは知っている。 ちょっと前、ゴールド君のマリルを見たことがあった。だけどそのマリルは、普通の青い色のマリルだったはずだった。 ゴールド君はゲートの中にあるパソコンに向かった。少し足元がおぼつかない様子だった。 ごほ、ごほんとせきをし、ずるると音を立てて鼻水をすする。額から汗が流れおちた。 ポケモンあずかりシステムに接続すると、さっき預けたはずの赤いギャラドスがいなくなっていた。 「あれ? ……ギャラドスは?」 「あー、げほげほ、心配ないっスよ。いっぱい『増殖』させてますから」 ゴールド君はそう言いながらボックスを切り替えた。 次の瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、30匹まで預けられるボックスを埋め尽くしている、赤いギャラドスの姿だった。 肩に乗っているチュウが小さく叫び声をあげた。ボクも鳥肌が立つのを抑えられなかった。 ボックスの中のギャラドス達が、一斉にこちらを向いた。 全く同じ姿かたち。一糸乱れぬ動き。 ――まるで元々1つの存在だったかのように。 足がすくんで、うまく動かない。 それでもボクは必死で走った。とにかく一刻も早く逃げたかった。 自然公園のゲートを抜けて、コガネからリニアに乗ればカントーに戻れる。家に帰れる。 だけどゲートの扉を開けたボクの目の前に広がっていたのは、道路でもなければ自然公園の草むらでもなかった。 ボクの目の前にあったのは、長い廊下に敷かれた絨毯。ボクも見たことのない建物の中。 見覚えはない。でも、この独特の雰囲気には覚えがあった。だけどそこは、ボクが絶対にいるはずのない場所。そこにいる資格すらないはずの場所。 「あれ……? イエロー先輩……?」 聞き覚えのある声がした。慌てて振り返ると、そこにいたのはシンオウ地方にいるはずのコウキ君だった。 コウキ君はふらふらとボクの方へ歩み寄ってきた。 顔は真っ赤で、汗だく。目もとろんとしている。ぜいぜいと苦しそうに息をしている。時々ごほごほ、げほ、と激しくせき込んでは、音を立てて鼻水をすすっている。今まであった2人よりもずっとひどい状態だった。 「ちょっと、大丈夫!?」 「大丈夫ですって。平気ですって。ごほ、ごほ。お節介焼きですね先輩」 そう言いながらも、コウキ君はまた激しくせき込んだ。 ぞうっとした。嫌な予感がする。 せきが幾分か落ち着いてから、コウキ君はボクに向かって言った。 「ところで先輩、どうして先輩がこのシンオウのポケモンリーグにいるんですか?」 やっぱり、とボクは心の中でつぶやいた。 この建物の中には、ポケモンリーグの持つ独特の緊張感が漂っていた。しかもそこに現れたのがコウキ君。何となく予想はしていた。 コウキ君はずるっと鼻水をすすり、ボクの手を取った。手が熱い。熱も相当あるようだ。 「先輩、どうやって入ったのか知りませんけど、げほごほ、とりあえずボクと一緒に行きましょう。一応は外に出られますよ」 「う、うん……そうだね」 ボクはコウキ君に導かれるまま、ポケモンリーグの四天王の部屋へ入った。 最初の四天王の部屋に行くと、コウキ君は戦うわけでもなく、真っ直ぐ後ろの扉に向かった。ボクはコウキ君に引きずられるようについていった。 コウキ君はフローゼルを出すと、その背中に乗って、ボクの手を取ったまま言った。 「じゃ、行きましょう先輩」 「え? え?」 ボクが呆気にとられている間に、コウキ君は四天王の部屋の扉に向かって『波乗り』した。 肩にしがみついているチュウが叫び声を上げた。ボクも一瞬、気が遠くなった。 だって、扉に向かって『波乗り』だなんて、絶対正気の沙汰じゃない。 だけど、ボクもコウキ君も、扉にぶつかったりはしなかった。 ふと気がつくと、ボクたちは真っ暗な空間に立っていた。 辺りを見回しても何も見えない。ボクの手を握っているコウキ君と、ボクの肩にしがみついてがたがたと震えているチュウがいるだけだ。 ここは……どこだろう? 「なぞのばしょ、と呼ばれています」 ボクの考えていることがわかったように、コウキ君が言った。 そしてコウキ君は腕につけているポケッチのアプリを万歩計に変えると、ボクの腕を引っ張って歩きはじめた。 足元もおぼつかないような状態なのに、引っ張る力だけは驚くほど強い。振りほどこうにも、今のコウキ君の状態を見ると、思わず突き倒してしまいそうで気が引ける。 しばらく歩いたところで、コウキ君は足を止めた。 すると、コウキ君はおもむろに地下探索用の道具を用意すると、ポケモンレポートを取り出して、それに書き込み始めた。ボクは慌てて言った。 「ちょ、ちょっと! 何やってるんだよコウキ君!」 「いいんですよ先輩。ここで潜ると……げほ、ごほごほ……すごく強いポケモンに会えるそうです……」 そういうとコウキ君はレポートをしまい、ボクの手を強く握った。 こっちの手も汗ばんできそうなほど、熱い。 「それじゃあ、行きましょう」 「え、ちょっと、待――」 足元の闇に穴があいた。 コウキ君に引っ張られ、ボクとチュウは暗闇の中に落ちていった。 絶叫が、声にならなかった。 「――あ……」 コウキ君が、熱に浮かされたように小さくつぶやいた。 ごほん、ごほんと不吉なせきの音。目が明らかに虚ろだった。 「……ごめんなさい……。……場所、間違えたみたいです……」 コウキ君がボクの手を離した。 ボクから離れたコウキ君は、どんどん深い暗闇の中へ吸い込まれていく。 次の瞬間、コウキ君の指先が、足が、次々と暗闇に呑まれていった。 コウキ君の身体が、消えていく。 闇に、消えていく。 「うわああぁああぁぁぁあぁあっ!!」 絶叫と共に、ボクは目を覚ました。 傍らにいたチュウが驚いて声を上げた。ボクはあたりを見回した。 小さな本棚。もうすっかり古くなった型のパソコン。壁にかかるカントーのタウンマップ。寄りかかって寝ていた、白いシーツのかかったベッド。 そこはボクの家。ボクと兄ちゃんの部屋だった。 ……よかった。全部夢だったんだ。 ボクは安心して思わずため息をついた。 チュウが心配そうにボクの顔を覗き込んだ。大丈夫だよ、とボクはチュウの頭をなでた。 それにしても、嫌な夢だった。みんなが『あんなこと』になるなんて。 がさ、とベッドの上のシーツが音を立てた。 ……ああ、そうだ、とボクは起き上った。 寝てる場合じゃなかった。 ボクはベッドの上に横たわる人を見た。 ぜひゅ、ぜひゅ、と苦しそうな呼吸が聞こえる。ほとんど間隔をあけずに激しいせきが起こり、時々血も混じる。 40度を超える高熱。拭いても拭いても、全身から汗が止まらない。気休め程度に濡らしたタオルを額に当てるけど、それもすぐにぬるくなってしまう。 「……兄ちゃん……」 ボクは小さく呼びかけた。 苦しそうな呼吸の後、小さく、そして抑揚のない声が返ってきた。 「……アヌ゛ズぉぱイ゛エ゛ビズィ ピエ゛ー9ぬイ゛ネ゜エヌズててて つ♂ゼ8イ゛ィ゛デ4ラやふゴゥア゛ 33エラー……」 意味不明の、機械音声のような声。 カントー中を飛び回っていたあの姿は、『伝説のトレーナー』とまで言われたあの兄ちゃんの姿は、そこにはなかった。 傍らにある大量のマスターボールには、見たこともないポケモンたち。 伝説のポケモンであるはずのミュウ。リザードンの姿なのにマダツボミの声のポケモン。どう見てもモザイクにしか見えないポケモン。兄ちゃんが取っても大事にしていたピカチュウのピカはいつの間にか波乗りを覚えていた。 カバンの中を見ると、これまた見たことのない道具がたくさん。 どの地方でも見たことのないバッジ。意味のわからないラベルの張ってある薬品。見たことのないわざマシン。 博士に渡されたはずのポケモン図鑑は、どこかで失くしてしまったらしかった。 もっと気をつけておけばよかった。 もっとしっかり注意しておけばよかったのに。 そうすれば、こんなにひどくなる前に気がついたかもしれなかったのに。 ごほん。ごほ、ごほ。 「兄ちゃん、風邪?」 「あー、大丈夫大丈夫……」 「気をつけなよー。変な病気流行ってるらしいから。いとこのグリーン兄ちゃんも……」 「わかってるって、ビビらせんな馬鹿。ごほっ、ごほごほっ。わかって……る……って……」 そう言うなり、兄ちゃんは突然、血を吐いて倒れた。 ちょうど兄ちゃんが冒険に出た頃から、変な風邪が流行りはじめていた。 患者はいつも、ボクたちと同じくらいの年代の子供たち。 最初は普通の風邪みたいな症状。 だけどしばらくすると、突然妙な行動を取り始める。 行動のパターンはいろいろ。変なポケモンや道具を持ち始めたり、壁や柵をすり抜けたり、妙なことを口走ったりするようになる。 そうなったら、もう手遅れに近い。 症状が進むと、突然動きを止めて倒れてしまう。 高熱を出して、ずっと寝込んでしまうこともよくある。 奇跡的にまた立ち直ることもあるけど、その可能性はものすごく低い。 いとこのブルー兄ちゃんも、昔その風邪を引いた。 しばらく高熱を出して寝込んで、目を覚ましたブルー兄ちゃんは……これまでの冒険のことを、何ひとつ覚えていなかった。 だからブルー兄ちゃんは、また同じ冒険に出かける羽目になった。 だけど、もっとひどいことになる時もある。 他のいとこのグリーン兄ちゃんがそうだった。 グリーン兄ちゃんも目を覚ました時、これまでのことを全部忘れていた。 だけど、それだけじゃ終わらなかった。 グリーン兄ちゃんは、目を覚ましてもおかしな行動をとり続けた。 もう永遠に治らない、と医者に言われた。 グリーン兄ちゃんは未だにベッドの上で、意味不明な言葉をつぶやき続けている。 最悪、そのまま目を覚まさないことも……少なくないらしい。 ごほっ、ごほっ、とせきの音が響く。 兄ちゃんの汗を拭いていると、ボクの目から涙があふれ出した。 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。 どうして――? 「……強いトレーナーに、なりたかったんだ……」 突然、兄ちゃんがしゃべり始めた。ボクはハッと顔をあげた。 兄ちゃんは虚ろな目でボクを見て言った。 「……単なる好奇心……珍しいポケモン……強いポケモン……いろんなことがあったと思う……だけど……根っこはみんな同じ……みんな……同じ……」 そう言うと、兄ちゃんはまたせき込んだ。口からはまた意味不明のつぶやきが漏れていた。 ボクは兄ちゃんの手を取った。燃えているみたいに熱いのに、指先は氷みたいに冷たい。 兄ちゃんは、ボクの目標だった。 そしてそれは、今でもずっと変わらない。 ボクたちのことなんか、忘れてしまっても構わない。 たとえ目が覚めてから、おかしくなっていても構わない。 だから、お願いだから。 死なないで。兄ちゃん。 ひゅうひゅうと、窓の外から木枯らしの音がする。 春が来て暖かくなれば、きっと風邪も治るしひかなくなる。 それまでの辛抱。きっと、それまでの辛抱。 この『冬』は、とてつもなく寒くて…… 残酷なほど、長い。 ++++++++++Fin. |