『決まったーっ!! マタドガス、戦闘不能!! アルベロ=ガーランド選手、見事準決勝進出です!!』 フルボリュームのアナウンスが会場内に響き渡る。興奮した観客は嵐のような大歓声をスタジアムに送る。 リング上の選手2人はバトルに出していたポケモンを戻し、互いの健闘をたたえて握手を交わす。片方は勝利の興奮に酔いしれ、もう片方は悔しい涙をこらえながら。 ポケモントレーナーたちにとって最高にして最大の舞台、ポケモンリーグ。 その舞台で、まさかあんな事件が起こるとは、誰が予想できたことだろう。 +++白銀の風+++ 「被害者はアルベロ=ガーランド、21歳。リーグ準決勝前、控室で他選手と談笑していたところ、突然倒れ死亡」 警官が調書を淡々と読んだ。 「目立った外傷もなく、またその場に居合わせた方々が証言した亡くなる直前の様子からも、死因は何らかの毒物による中毒死と思われます」 「原因となった毒物の断定、及び摂取のルートは?」 黒いコートを着た男性が、短い黒髪をかきあげ、少しいらいらとした様子で警官に聞いた。 「い、いいえ、詳しいことはまだ何も……」 警官は頭をかきながら、困ったような表情をした。 黒くて短い髪に黒いトレンチコートを着た男は眉根を寄せた。名はジャスタ=ネロ。この事件の担当になった、まだ若手の新米警部だ。 ネロ警部はため息をついた。警部に昇進して最初の担当が、よりによってこんな事件とは。運がいいのか、悪いのか。 いずれにせよ、この事件は一刻も早く解決しなければならない。 よりによって、トレーナーたちの最大のイベントであるポケモンリーグで殺人事件が起こるとは。その上、被害者のアルベロ=ガーランド氏は今大会の優勝候補。今日行われる予定だった準決勝にも出場予定だった。 ネロ警部はあたりを見回した。 ポケモンリーグ、出場者控室。開けっ放しになっている南向きの大きな窓から、真昼の日差しが差し込んできている。大きなテーブルと数脚の丸椅子。白いコンクリートの壁に、白いタイルの床。その上に、大きな布のかけられた、若い男性の遺体が転がっていた。早く運びだしたいのだが、移動用の車の来る道があまりにも混乱していて、まだ運べない。一般の車が、警察用の車両が通るために車を寄せるためのスペースすらないということだ。 「それにしても……準決勝前に殺されるとはな」 「ええ、こんなことになるなんて……」 部屋の中にいた女性が、涙交じりの暗い声で言った。 「準決勝で戦えるって思ってたのに……」 「俺だって、去年の雪辱は晴らしてやるって思ってた。決勝で戦えるところだったんだ」 「私も昨日負けて、来年こそは絶対に負かしてやろう、って、そんな矢先に……」 部屋の中には警官達の他に、3人の男女が立っていた。 被害者が亡くなった時、室内にいたのがこの3人。いわば容疑者たちだ。 ようやく車が来た。ネロ警部は遺体を運びださせようとした。 その時だった。 白銀の風が吹いた、ように見えた。 現場にいた者たちは思わず、開けっ放しになっている窓の向こうを見た。 1匹のエアームドが空から降りてきた。その背中には、珍しい青色のエルレイドと、1人の青年が乗っていた。 「サンキュー、シルフ!」 青年とエルレイドはエアームドから降りた。エアームドは高く鳴き、空の彼方へ飛んで行った。 エアームドが飛んで行ったのを見送ると、青年はためらうことなく窓からネロ警部たちのいる控室の中へ入った。あまりにも突然かつ大胆な行動に、警官達も制止するのを忘れてぽかんとしていた。 「お邪魔しまーす」 おおよそその場の雰囲気には似つかわしくない、緊張感の欠けた声が響く。警官やトレーナーたちは困惑の表情を浮かべていた。青年はまるでそんな雰囲気など知ったことではないというように、ずかずかと布のかけられた被害者の遺体のほうへ向かった。 ネロ警部はようやく我を取り戻し、青年に向かって怒鳴った。 「な、何だ君は! 部外者は出て行きたまえ!」 「え? 部外者って俺のこと?」 青年は首をかしげながらネロ警部を見た。ネロ警部は、どう考えてもお前以外にはいないだろう、といった様子でうなずいた。青年は事もなげに言った。 「オレ、一応探偵なんだけど」 そう言って青年はへへっと笑った。ネロ警部は訝しげな顔をした。 青年と言っても、まだ少しあどけなさが残っている。17、8歳といったところだろうか。黒いシャツに白い服。深緑のウエストポーチ。濃い灰色の長い布を頭に巻いている。 しかし、その場全員の目が奪われたのはそんなところではない。 何より目が行くのは、青年の持つ髪の毛。 降り積もった新雪の色とも、食卓の上の銀食器とも違う。もっと鮮やかで、もっと鋭く、しかし柔らかに光を反射する。 窓から差し込む日差しを反射してはまばゆく輝く、まるでプラチナで作られたかのような、美しい白銀色。 それにしてもかなり妙ないでたち、譲歩してもせいぜい旅人か探検家と言ったところだろうか。何にせよ、緊迫したこの場には全くそぐわず、探偵にはとても見えない。リーグに出場している選手と言った方がまだ説得力がある。 怪しさ満点。どこからどう見ても信用できない。 そんな雰囲気を読み取ったのか、青年は自分を指差しながら言った。 「オレ、シドー。シドー=アルゲンヴェント。それから、こっちのエルレイドはオレの相棒のアレス。よろしくな」 「あ、ああ……。わたしは警部のジャスタ=ネロだ」 「そっか、ネロ警部ね」 青年……シドーは人懐こそうな笑顔を浮かべ、足元の遺体を指差した。 「じゃ、ネロ警部、運び出す前にちょっとだけこの遺体調べてもいい?」 「……え?」 「それじゃ、ちょっと失礼しまーす」 シドーはネロ警部の返事も聞かず、ウエストポーチから白い手袋を取り出して両手につけ、足元の遺体のそばにかがみこんだ。遺体を扱う手つきは丁寧で、しかもかなり手馴れている印象をネロ警部は受けた。 「……なるほどね」 シドーは軽くうなずき、立ち上がった。 「ありがとう。もう運び出してもいいよ」 「わ、わかった」 再び立ち上がるまで1分足らず。一体何を調べたのだろうか、とネロ警部は首をひねった。 シドーは部屋に置かれている丸椅子に座り、足を組んだ。シドーの傍らにいたエルレイドも、シドーと全く同じポーズをとった。 「さて、ネロ警部。事件のことを聞かせてもらいましょうかね」 「……勝手に話を進めるのはやめたまえ、シドー君」 やっぱり、この男は怪しい。ネロ警部は気が重くなった。 「事件があったのは今日の正午ごろ」 「あ、携帯鳴ってる」 「被害者のアルベロ=ガーランド氏は、午前中トレーニングをしたのち、11時ごろにこの控室に来た」 「もしもし? あー、どうもご店主さん! え? 何? 新作のケーキができた? 行く行く! 用事終わったらすく行くよ!」 「……」 シドーは陽気な笑い声を上げた。ネロ警部はため息をついた。この男は本当に探偵なのだろうか。 「その後この部屋で他のトレーナーたちと談笑していたが、12時過ぎに突然亡くなった。殺害方法は毒殺と推定されている」 「そりゃねー、ご店主んとこのケーキ美味いもん!」 「毒物が体内に入ったルートは不明。目立った外傷もない」 「オレが行くまでちゃんととっておいてくれよ?でないとオレ、もうご店主の店行かないからな?」 「この部屋にあったキャンディや飲み物は検査したが、毒物は検出されなかった。また被害者は朝からトレーニングに励んでいて、朝食もとっていなかったらしい」 「ん、じゃーまた電話するな! じゃーねー!」 「……」 ネロ警部はまたため息をついた。この男、絶対話を聞いていない。 突然捜査の現場に乱入して来て、人に散々話をさせておいて、自分は携帯電話で他人と談笑。探偵と言ってイメージするキレ者オーラはない。一切ない。全くない。 シドーの傍らにいる青色のエルレイドと目があった。確か名はアレスと言ったか。 エルレイドはこんな主人で申し訳ない、といった様子で頭を下げてきた。この相棒もなかなか苦労しているらしい。 「全く……どうしてこんな事件が起こったのか。理由が分からないな。」 「違うな。殺人ってのは理由がないと怒らない。何らかの理由があったはずだ」 突然の落ち着いた声。その場にいる全員の目が、一瞬にしてシドーに集まった。 シドーは手に持った携帯電話をウエストポーチに収めた。 「ネロ警部、1つ聞いていい?」 「何だ?」 「この建物内って土足だよね。被害者は素足にスリッパはいてたけど、何で?」 「え?」 ネロ警部は、シドーの突然の質問にぽかんとした。 室内にいた、ブロンドの髪の女性が手を挙げた。 「あ……それ、私のせいです」 「君の?」 「はい。私、イリス=アズロと言います。20歳です。被害者のアルベロ=ガーランドとは昨日戦いました」 「へぇ。じゃあ、昨日準々決勝で負けた人か」 「……そりゃそうですけど、そう言われると結構傷つくわ……」 イリスはそう言ってため息をついた。ああ悪い悪い、とシドーはあまり反省していない様子で謝った。 「で、何で?」 「今日は彼に頼まれて、朝から調整につきあってバトルをしていました。その時にうっかり彼の靴を濡らしてしまって……」 「なるほど。それでスリッパなわけだ。ちなみにその時、どんなポケモン使ってたんだ?」 「今日のバトルは彼がルカリオ、ザングース、エンペルトで、私がビークイン、ロズレイド、ミロカロスだったわ。で、最後にエンペルトとミロカロスの戦いになっちゃったのよ」 「はあ、なるほどな」 シドーは納得したようにうなずいた。 「ところで君、香水つけてる?」 「え? ええ。自分で調合したんです。普段は化粧品の会社に勤めているので」 「自分で? へえ、そりゃすごいや。これ結構高級な奴だろ?」 「ふふ、ありがとうございます」 イリスはそう言って軽く笑った。シドーは他の2人のトレーナーに目を移した。 「この際だから、そこの2人にも話聞かせてもらいたいんだけど」 シドーは足を組み替えた。隣に座っているエルレイドも、全く同じタイミングで組み替えた。 ネロ警部はごくりと唾を飲んだ。シドーの表情が、最初に会った時とは全く変わっていた。すっかり緩みきっていた糸が、ピンと張りつめられたような感じだった。 シドーは最初に、黒髪の女性に目線を送った。 「君、名前は?」 「ロザ=ルビーノ。23歳よ。私は朝から、アルベロの隣のコートで最終調整をしていたわ。アルベロがこの部屋に来たのは私が来た10分ぐらい後だったから、私が来たのは10時50分ぐらいね」 「最終調整ってことはバトルしてたわけか。相手は?」 「ノーチェ=セスト。隣の男よ」 そう言って、ロザは自分の隣にいた男を指差した。 「私は準決勝でアルベロと戦う予定だったわ。私は去年予選で負けちゃったから、去年の準優勝者と戦えると思って楽しみにしてたの」 「そっか、被害者は去年の準優勝者なわけか。どんなタイプのトレーナーだった?」 「そうね、とにかく攻撃1本の力押しタイプ、ってとこかしら。防御なんかは後回しにして、強力な攻撃を先生で決めて勝つタイプ」 「なるほどね」 シドーはふんふんとうなずいて、ロザの隣の男、ノーチェに視線を移した。 「えっと、ノーチェ=セストさん。ロザさんとバトルしてた、ってことでいいのか?」 「ああ。ノーチェ=セスト、24歳だ。ロザとバトルして、同じ時間にこの部屋にきた。俺は去年の準決勝でアルベロに負けてね。雪辱に燃えてたんだよ」 「それで育て屋でバイトして基礎からポケモン育てなおした、ってとこか?」 ノーチェは目を丸くした。 「な、何でおれが育て屋でバイトしてること知ってるんだ!?」 「アンタの腰のボールに、育て屋に預けたときに刻まれる通し番号が見えたから。ポケモンリーグで優勝争いするようなトレーナーでそれが刻まれてる奴って言えば、そこで働いてる奴くらいだからな」 そう言って、シドーは少し意地悪そうに笑った。 「ちなみに、アンタたちは今日のバトル、何を使ってたんだ?」 「俺がバンギラス、フーディン、ブーバーンだったな」 「それから私がトゲキッス、グレイシア、チェリムだったわね」 「ふーん、そっか。ちなみに、被害者が倒れる直前の様子は覚えてる?」 「そうね、少し体調悪そうにしてたわ。今朝見かけたときは元気そうだったんだけど」 「ふーん……」 シドーは腕を組み、しばらく目を閉じて何か考え込んでから、目を開いた。 「うん……じゃ、オレから聞きたいことは今のところもうないから。とりあえずネロ警部、この競技場の中、調べさせてもらっていいかな」 「あ、ああ」 「どうも。じゃ、行くか、アレス」 青いエルレイドはうなずいた。シドーは立ちあがり、控室から出た。ネロ警部はそのあとを追った。 「シドー君、犯人はわかったのか?」 「んー、大体の目星はもうついてるかな」 「え!? そ、それは!?」 「まだ駄目。言えない。証拠も確信もないのに疑うのは失礼だからな。まずは証拠を集めて、確信を得ないと」 な? とシドーはエルレイドと顔を見合わせた。青いエルレイドは全くその通りだ、といった様子でうなずいた。 シドーがやってきたのは、スタジアムとは別棟の、出場選手のための練習場だった。 本番のスタジアムほどではないが、広々としたコンクリートのコートが2面。中央にモンスターボールが描かれている。 「事件の前、被害者とイリス=アズロ、ロザ=ルビーノとノーチェ=セストがここで最終調整をしていたらしいな」 「らしいなぁ。あー、のど乾いた」 そう言いながら、シドーはそばにあった自動販売機に小銭を入れた。 「うーん、どれにしようかなぁ。やっぱモモンジュースかなぁ。ミッスクオレも捨てがたいなぁ。あ、ネロ警部、これなんかどう? 飲むと口の中が真っ黒になるブリージュース」 「……結構だ」 ネロ警部はため息交じりに返した。どこまでが真面目でどこからが不真面目なのかよくわからない。 シドーはけらけらと笑いながら、ネロ警部にミネラルウォーターを渡し、傍らのエルレイドにサイコソーダを渡した。自分はジュースのプルタブをあけ、一気に飲み干してから空き缶を軽く握りつぶした。 シドーはコートの上へ歩いて行き、屈みこんでコンクリートの上を調べた。 「……アレス」 シドーはエルレイドに呼びかけた。エルレイドはうなずき、肘の刀を伸ばして、コートの上のコンクリートを少しだけ削り取った。シドーはその破片を小さなビニル袋に入れた。 「これでよし、と。じゃ、ネロ警部、戻ろうか」 「え?」 突然の呼びかけに、ネロ警部はぽかんとした。シドーはにやっと笑った。 「多分これで、この事件は全部解決だ」 スタジアム内、選手控室。 丸椅子に、ロザ、イリス、ノーチェの3人が少し落ち着かない様子で座っている。その3人の前にはネロ警部とシドーのエルレイドが立っている。 「失礼失礼。確認終わったよ」 シドーは数枚の書類を手に、控室に戻ってきた。書類を机の上に投げ置くと、近くにある丸椅子に腰をおろした。 「オイ、お前、本当に俺たちの中に犯人がいるっているのか?」 ノーチェがややきつめの口調でシドーに言った。シドーはうなずいた。 「そう。間違いないな。さて、と。何から話すべきか?」 「シドー君、殺害に使われた毒物の種類は特定できたのか?」 「ああ、いいな。とりあえずそこから行こうか」 シドーは腕を組み、1回大きく深呼吸した。 「まず、犯人が被害者に毒を盛った方法。被害者の体には特に傷もなく、また何も口にしてなかった、と」 「ああ。その通りだ」 「そりゃそうだ。毒は……口から体内に入ったわけじゃないんだからな」 沈黙。全員ぽかんとした顔をしている。シドーは構わず続けた。 「普通なら、これにはなかなか気付かないだろうな……。犯人はこれを使って、被害者に毒を盛ったんだ」 シドーはそう言いながら、エルレイドに目線を送った。エルレイドはうなずき、1足のスリッパを取り出した。 「スリッパ……?」 「そう。被害者が履いていたこのスリッパ。これが犯人の使った凶器だよ」 「スリッパが凶器? 何言ってるんだ? 虫じゃあるまいし」 「別に叩き潰したわけじゃないからな。じゃあノーチェさん。このスリッパの底、ちょっと良く見てもらえるか? 手袋つけて」 シドーはウエストポーチからゴム手袋を1セット取り出し、ノーチェに投げ渡した。ノーチェがゴム手袋をつけたのを確認してから、シドーはスリッパを渡した。 一見、何の変哲もない、無地一色の普通のゴム製スリッパ。しかしよく見ると、足の裏と触れる面が、他の部分とわずかに色が違う。 「……ん? ちょっとだけ……変色してるのか?」 「そう。ノーチェさん、被害者は倒れる前から少し体調が悪そうだった、と?」 「あ、ああ」 「それではっきりした。被害者の命を奪ったのは、ポケモンの毒液だ」 「え? ポケモンの?」 控室にいた人たちは驚きの声を上げた。シドーは目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。 「そう。ポケモンの毒液……そうだな、バトルでは『ヘドロばくだん』とか『どくどく』なんかの技で使われるな。あれは皮膚から浸透して、徐々に対象の体を蝕んでいく特性を持ってる。ポケモンが『毒』状態になった時のことを考えてもらえればわかりやすいかな。被害者の様子と酷似してるよ」 「それじゃ、スリッパの底が少し変色してるのは……」 「毒に含まれる成分とスリッパの素材が化学反応を起こしたと考えるべきだろうな。このスタジアムにあった他の同型のスリッパには変色は見られなかったし」 シドーは椅子から立ち上がった。 「殺害に使われたのがポケモンの毒液として、それは一体どのポケモンなんだろうな? 厄介なことに、ポケモンの毒液は吸収されるとほぼ完全に体内で分解されて、遺体からの種類の特定は非常に難しい。だけど殺害方法が決まると、ある程度種類は絞られてくる。例えば有名なのは……ベトベトンだな」 「ベトベトン?」 「そう。ちょっとした実験でもしてみようか。ネロ警部、さっき渡した水、持ってる?」 「あ、ああ」 ネロ警部はまだふたを開けていないペットボトルをシドーに渡した。 シドーはスリッパを手に取り、ペットボトルのふたを開け、スリッパの中に注ぎ込んだ。軽くゆすった後、開け放しの窓のほうへ向かい、窓の外に広がる芝生の上にその水をこぼした。 しばらくすると、その水のかかった辺りの芝が、不気味な煙を出し始めた。全員が驚いて目を見張った。水のかかった場所の芝だけが、きれいに枯れ果てていた。 「強腐食性。体液に触れただけで植物まで枯らす。これがベトベトンの毒性の特徴だ。ベトベトンは体中から毒液が染み出してて……足跡に触れただけでも毒に冒される」 「あ、足跡に?」 「そう。だからベトベトンは扱いが難しい毒ポケモンの1つとして知られてる」 シドーはまたゆっくりとうなずいた。腕を組み、再び目を閉じて、控室の中を行ったり来たりしながら話し始めた。 「トリックはこうだ。犯人は予め、スリッパの底にベトベトンの体液を染み込ませておく。そして、何らかの方法で被害者にそのスリッパを履かせる。後は放っておいても被害者は勝手に倒れる」 「な……なるほど」 「この手順の中で一番厄介なのは、どうやって犯人にスリッパを履かせるかだ。だから犯人は……先のバトルで意図的に被害者の靴を濡らし、被害者が靴を履き替えざるを得ない状況を作ったんだ」 シドーは歩みを止め、目を開いた。 その目は真っ直ぐ、1人の人物を捕らえていた。 「イリス=アズロさん……犯人は、アンタだ」 全員の瞳が、イリスに集まった。 イリスの額から、冷や汗が一筋流れ落ちた。 「私が、犯人……? じょ、冗談じゃないわ! 大体、何で私が犯人だって決められるの? 誰かがスリッパに毒を塗ってて、彼がうっかりそれを履いちゃったのかもしれないじゃない?」 「その可能性は否定できない。確かにありうるな」 「じゃ、じゃあ何? 私だけが怪しいわけじゃないでしょ?」 「だけど、現時点で一番怪しいのはアンタなんだ、イリスさん」 シドーはエルレイドに呼びかけた。 「アレス、あれ出してくれ」 エルレイドはうなずき、小さなビニル袋に入れられたコンクリートの破片を取り出した。 「これは練習場のコートのコンクリートだ。よく見てくれ。染みがついてるだろ?」 「た……確かに……ついてるな」 「これも毒液の染みだよ。イリスさん、アンタが戦っていたコートについてたんだ」 「そ、それが?」 「おかしいと思わないか? アンタがあの状況で毒タイプの技が出せるわけがないのに」 「え……」 シドーは机の上から一枚の書類をとった。 「まず最初に、あの染みは今日のバトル前にはなかった。昨日の夜、清掃員のおっちゃんがピカピカに磨き上げたそうだからな。で、話を戻そう。あの時被害者が使っていたポケモンは、ルカリオ、ザングース、それにエンペルト。ルカリオとエンペルトは毒タイプの攻撃を受け付けない鋼タイプのポケモンで、ザングースは毒状態にならない『めんえき』の特性を持ってる。毒系の技が使えるわけがない」 「し、しかし、被害者のほうが使った可能性は否定できないんじゃないか?」 「可能性は極めて低い、と言わざるを得ないな。話によると、被害者は速攻タイプのトレーナー。『どくどく』などの持久戦向けの技を覚えさせる可能性は低い。それならこの染みは? どうしてついたんだろう? ここに何かがあったんだ。毒液の付着した、何かが」 「……ま、まさか……」 シドーはうなずいた。 「そう、おそらくそれは……毒液の塗られたスリッパ。この事件の凶器だ。もしそうだとしたら、凶器はこのスタジアムにあったものじゃないってことになる。としたら、そのスリッパを被害者の元へ持っていったのは? ……アンタだよ、イリスさん」 全員の目が、再びイリスに集まった。 イリスはしばらくの沈黙ののち、シドーに向かって言った。 「……少しいいかしら、探偵さん」 「ん?」 「さっきあなた、ベトベトンは扱いの難しい毒ポケモン、って言ってたじゃない? 実際、さっきの実験でも立証された通り、ベトベトンの毒液は危険すぎるわ。そんなのを扱うのなら、扱ってる本人だって危ないじゃない? 毒タイプの専門家ならともかく、普通のトレーナーじゃ危険すぎて使えないはずよ」 シドーはしばらく目を閉じた。 そしてしばらくの沈黙の後、ゆっくりと目を開いて言った。 「……全く、その通りだ。毒タイプの専門家じゃないとベトベトンの扱いは難しすぎるし、第一こんなトリック、一般の人間は思い浮かばない」 「でしょう? それなら……」 「だからこそ、オレはアンタが犯人だといったんだ、イリスさん」 イリスの顔がひきつった。ネロ警部が困惑の表情を浮かべてシドーを見た。 「し、シドー君?君は一体何を……」 「まず、アンタが今日バトルで使ったポケモンだ。ロズレイド、ビークイン、それにミロカロス。このメンバーを見てすぐに気がついた。アンタは毒タイプの使い手、それも持久戦を好むタイプのトレーナーだ、とね。ロズレイドは言うまでもなく毒タイプを持ってるし、ビークインはレベルアップで『どくどく』を覚える数少ないポケモン。そしてミロカロスは、『じこさいせい』や『アクアリング』、それに『どくどく』を覚えさせて、長期戦向けにするトレーナーが多い」 「そ、そんなの、ただのこじつけじゃない!」 「オレもそう思う。だけどイリスさん、アンタは自分で言ったんだ。アンタは毒タイプのエキスパートだ、とね」 「わ、私が?」 「オレはこの部屋に入ってすぐに気がついた。アンタがつけてるその……香水にね」 イリスははっとした顔をした。ネロ警部はまた困惑の表情を浮かべた。 シドーはネロ警部のほうを向いた。 「マタドガスってポケモンがいる。こいつは常に毒ガスを出してる上に爆発しやすくて、ベトベトンと双璧をはるぐらい扱いづらい毒ポケモンの一種だ。風船みたいな皮膚の中に詰まってる毒ガスはそのままだと有毒で臭いだけだけど、非常に特殊な方法で希釈すると……それが最高級の香水になるんだ」 「こ、香水に?」 「そう。今イリスさんがつけてる、この香水だよ。この希釈法は大変特殊で、一般人にはとてもじゃないけどできない。そう……化粧品会社にでも勤めてる、毒ポケモンの専門家でもない限りはな」 「毒ポケモンの……あっ!!」 毒ポケモンの専門家。それはまさしく、今回の事件の犯人のこと。 「イリスさん、だから俺は聞いたんだ。香水をつけてるのか、って。そうしたら君は答えた。自ら調合した、と。この香水はたとえ化粧品会社に勤めていようとも簡単に作れるもんじゃない。毒ポケモンの専門家以外は作れない代物なんだよ」 ネロ警部はイリスの顔を見た。額から大粒の汗が流れおちている。 ノーチェがイリスの顔を覗き込んだ。 「イリス……お前本当に……?」 「……ええ、そうよ」 イリスは長い沈黙の後、肩を震わせながら言った。 「私が殺したの! 私がやったのよ!! あの自意識過剰な男を、アイツの大っきらいな毒ポケモンでね!!」 イリスは勢いよく立ちあがった。 血走った目。その顔は、猟奇的な興奮を含んでいた。 「昨日の試合、本当に悔しかったわ。必死で育ててきたのに、あっさりと倒されてね。でも負けは負け。ちゃんと認めたわよ。そうしたらあの男、試合の後にわざわざ私のところに来て何て言ったと思う? 『持久戦なんて相手をじわじわいたぶる、姑息で卑怯な戦い方だ。長期戦なんかバトルじゃない。速攻で決めるのが本当の強者なんだ』って。何よ、何にも知らないくせに! それが私の戦法なの! あんなにボロクソに否定されるいわれなんてどこにもないのよ!! だから思い知らせてやった! あの思いあがった男に、毒ポケモンがどれほどの力を持ってるか!! あいつが馬鹿にした戦法で思い知らせてやったのよ!!」 イリスは興奮して息を切らせながら、叫ぶように言い、シドーをにらみつけた。 「アンタさえ……アンタさえ来なければ! 私の計画は完璧だったのに!!」 赤い閃光が走った。モンスターボールの開いた光だ。 次の瞬間、大きな音がして、青いエルレイドが壁にたたきつけられた。エルレイドは短い叫び声を上げた。 「アレス!!」 シドーは即座に駆け寄ってエルレイドを抱き起こし、イリスのほうに目線を向けた。 イリスの足元には、紫色のヘドロのようなポケモン、ベトベトン――恐らく犯行に使われた――がいた。シドーは苦い顔をした。 「オイオイ、勘弁してくれよ。オレはトレーナーじゃない、探偵なんだ」 「うるさいっ!! ベトベトン、『どくづき』!!」 イリスはだんっ、と足を踏み鳴らした。 刹那、焼けるような痛みを覚え、シドーは顔をゆがめた。右肩の布は赤く染まり、先程芝生で起こっていたのと似たような、奇妙な煙が出ていた。シドーは床に崩れ落ちた。 傍らで見ていたノーチェが叫んだ。 「イリス! やめろ!」 「フン! もう遅いわ! 毒が直接体の中に入っちゃえば次の瞬間にはお陀仏よ!」 「なっ……何だって!?」 「動くんじゃないわ! アンタたちもすぐに1人残らず同じ目にあわせてやるんだから!」 「っ……!」 皆、一瞬で血の気が引いた。 白銀の風が吹いた、ように見えた。 その影は驚くほどの速さと跳躍力で、イリスの背後に飛び込んだ。 次の瞬間、どんっ、と強く背中を押され、イリスは両腕を後ろに回させられていた。 誰もが唖然としている中、シドーはぜいぜいと肩で息をしながら、頭に巻いていた布を外し、イリスの両腕を背中側で縛り上げた。 「言ったろ、オレはトレーナーじゃない、探偵なんだ。バトルはごめんだぜ」 「なっ……なぜ生きてる! なぜ平然としているの!?」 「全く、生まれてこの方、今日ほど自分が甘党なことに感謝した日はなかったね」 シドーのウエストポーチから、つぶれた空き缶が転がり落ちた。 「ベトベトンの体液は植物も枯らす。だからこの植物はそれに対抗できるように進化したんだ。そしていつしか、ポケモンの毒に対して完璧な解毒作用をその実に持つようになった……それがこいつだ」 ロゼが空き缶を拾い上げ、パッケージを見、あっと声を上げた。 「モモンの実……!」 イリスの顔が真っ青になった。シドーはニヤリと笑った。 「ポケモンを使用した傷害、及び脅迫、殺人未遂の現行犯だ。これ以上罪を増やすのは賢いとは言えねぇぞ、イリス=アズロ」 スタジアムに一番近い病院の入口前。ネロ警部は書類を片手に、シドーに話しかけた。 「遺体の鑑定結果が出たそうだ。毒の性質上鑑定は困難を極めたが、ベトベトンの毒であることは確実だ、と」 「ふーん、そっか」 シドーはあまり興味なさそうに答えた。右腕は三角巾で吊ってある。 きっとこの男は、終わった事件のことはもう気にしない性質なのだろう。ネロ警部はそう思った。 ネロ警部は、シドーの左手を握った。 「ありがとう、シドー君。おかげで事件も解決だよ。肩、大丈夫か?」 「大したことないって。よくあることだし。そういや、この大会はどうなるんだ?」 「ああ、この事件のことが片付いたら、準決勝から再開するそうだ」 「そりゃよかった。オレはあんまり興味ないけど、楽しみにしてる奴多いもんなぁ」 シドーは空を見上げた。西の空が茜色に染まり始めている。 「じゃ、オレ、帰るよ。」 「ああ。シドー君、また何かあったら……協力してくれるか?」 「そうだなぁ。ま、考えておくよ。来い、シルフ!」 シドーはそういうと、左手の人差し指を加え、吹き鳴らした。ピー、と言う甲高い音が空に響いた。 夕焼けの空から、エアームドが降りてきた。シドーはエルレイドとともに、その背に飛び乗った。 「それじゃあな!」 風を切る音。 網膜に一瞬焼き付いた影は、銀色の鳥。人型のポケモン。 そして、風になびく、プラチナのような美しい白銀色の髪の毛。 ネロ警部はふっと笑った。 「……シドー=アルゲンヴェント、か。変わった男だ」 シドー=アルゲンヴェント。 風のように唐突に現れ、事件を解決に導き、また風のように去っていく、そんな男。 白銀色の、風のような男。 「あー……腹減った。そうだ、ケーキ食おう。ケーキ。よしシルフ! いつものケーキ屋行くぞ!」 エアームドは青年の言葉に反応して、高く鳴く。 傍らの青いエルレイドは、やれやれといった様子で首を振る。 青年の白銀色の髪の毛が、夕日の光を浴びてきらきらと輝く。 風が吹く。 白銀の風が、今日も吹く。 +++++++++The end |