ここは世界で一番高い場所。 何かが上から降ってくるなんてこと、ありえないのに。 それなのにこの日は、空の上から墜ちてきた。 空が、墜ちてきた。 +++Journey in the Sky+++ 落ちてきたのは、人間の少女だった。 真っ青なワンピース。白いボレロ。背中には小さなナップザック。 旅をしている途中で、飛行ポケモンの背から落ちたのかもしれない、と思ったが、それも少し違うようだ。旅をしていたにしては、装備が軽すぎる。 これまで私が見てきた人間の装いとは、全く違う。 これまでにも数多の人間が、この場所にやってきた。私はその全てを追い払った。 私は空に生きるもの。人間は地に生きるもの。私と人間たちは元々住む世界が違う。 ……が、私はその日、空から落ちてきたその少女を追い払うことは出来なかった。 この地に堕ちてきたその少女に、私は少なからず興味を持った。 ここは世界で一番高い場所。雲よりも高い、空の中。 上から何かが落ちてくることは、これまで一度たりともなかった。 その少女は眠っていた。私の手の上で、ずっと眠っていた。 少女がようやく目を覚ましたのは、満月が天高く昇った頃だった。 黒曜石のような真っ黒な瞳を開き、小さいけれどよく通る、透き通った声で言った。 「……あなたは……誰?」 『私は……レックウザだ』 「レックウザ、って言うの?」 少女の言葉に、私は驚いた。人間の少女には、私の言葉は通じないはずだ。少女は私の姿をじっと見た。 「綺麗……。緑色の……竜神様ね……」 つぶやくようなその声に、私は更に動揺した。 「綺麗」。 そんな形容をされたのは初めてだった。 ここにやってくる人間たちは、ほとんどが私の「力」が、そして「珍しさ」が目的だったからだ。 少女は私にもたれかかり、なおも消えそうな声でつぶやくように言った。 「私ね、気がついたらここにいたの。何でここに来たのか、覚えてないんだ」 『驚いたよ。空が墜ちてきたのかと思った』 私が言うと、少女は恥ずかしそうに微笑んだ。 「そうだ。私の名前、チエロっていうの」 『チエロ、か。……いい名前だな』 「ありがとう」 少女……チエロはまたはにかむように微笑んだ。 しかし、すぐに悲しそうな顔をして、小さくつぶやいた。 「私ね……空に溶けて消えたかったの……」 『?』 チエロは今にも泣きそうな顔をしていた。声が微かに震えていた。 「私ね、音楽が大好きなんだ……。歌ったり、楽器を弾いたりするのが一番の幸せだったの……。だけどね、突然、何も聞こえなくなっちゃったの……」 『え?』 「お医者さんに見てもらって、ようやくわかったの。私……頭にあくせいしゅようっていうのがあって、それがちょうかくしんけいっていうのを圧迫してるんだって……。もう手術じゃ取れないくらい大きくなってて……。私、本当はいつ死んでもおかしくないんだって……」 『そんな……』 「私、死ぬなら、空になりたかった……。空に溶けて、風と一緒に歌っていたかったの……」 西の空に沈みかけている満月の光が、チエロの涙で濡れた顔を、やわらかく照らしていた。 私はどうすることも出来ず、何と声をかければいいかもわからず、ただ黙っていた。 だけど、とチエロがまたしゃべり始めた。 「不思議ね、何も聞こえないはずなのに、あなたの声だけはちゃんと聞こえるの」 『私の?』 「うん。それで思い出したの。小さかった頃って、みんな、いろんな声が聞こえていた気がするの。空の声とか、風の声とか……。あなたの声、それに近い気がしたの」 『空の……声……』 「きっと、神様が、空の声を忘れかけていた私にくれた贈り物なのね……。あなたと会えて本当によかった……」 『……』 チエロはそう言って、目頭をぬぐった。ぬぐってもぬぐっても、涙が溢れてきた。 私はチエロの顔を見て、胸が詰まりそうになった。 もらい泣きしそうになるのをこらえ、私はチエロに言った。 『私も君に会えてよかった……。だから、私からも贈り物をさせてくれ』 私はチエロを私の背に乗せた。 「え?」 『ここよりもっともっと空に近い……いや、空の中に、君を連れて行こう』 私は月の沈んだ方向と、逆の空に向かって飛び立った。 月の沈んだ空は、黒から紺、紫、そして薄紫色のグラデーションを描いている。 空にはまだ微かに星が輝き、肌寒い空気は、物悲しさを更に引き立たせている。 『……見てごらん、チエロ』 私は遠い水平線を指し示した。 私の背中で、チエロが感嘆の息をつくのが聞こえた。 東の空には、朝日が昇りかけていた。 波打つ水面は、朝焼けの光を乱反射して、チラチラと赤や黄白色の光を放っている。 朝焼けの赤色が、薄紫の空をかき消していく。 「……綺麗……」 チエロの涙声が聞こえた。 でも、先ほどまでの涙と、今の涙は違う。少なくとも私はそう感じた。 「空って……こんなに綺麗だったんだね……。ずっと見てたのに……全然気付かなかった……」 チエロが、ずっと背負っていたナップザックを下ろし、中の物を取り出した。 入っていたのは、真っ青な竪琴だった。 チエロはその竪琴をかき鳴らし、澄んだ声で歌を歌い始めた。 何度も音を外したけれど。涙で声にならないところもあったけれど。 竪琴に乗せて響くチエロの歌声は、全大気を振動させるような、透き通ったガラスのような美しさがあった。 私はもう何億年も生きた。これからも何億年も生きるだろう。 だが私は、これほど美しい歌声をこれまで聴いたことはなかったし、そしてきっとこれからも、もう二度と聴くことはないだろう。 朝日が全て昇りきった頃。 チエロの歌声は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。 『……チエロ……?』 私の呼びかけにも、チエロは答えない。 背中に乗せた身体が、徐々に冷たくなっていった。 (……旅立った……のか……) 私の目から、堪えていた涙が溢れた。 悔しさを抑えきれず、私は大気中に響き渡るような叫び声を上げた。 ……あれから、どれほどの時間が流れただろう。 この場所に、上から何かが墜ちてくることは、あれからもう、ない。 チエロ。 君と過ごしたあの一晩のことが、私はまだ忘れられない。 君のあの歌声が、私の耳の奥で今もなお響いている。 私は今でも、君を待っている。 君がもう帰ってこないことくらいは私もわかっている。それでも、待っている。 君が再び墜ちてくるのを、私はずっと待っている。 この、『空の柱』の頂で。 私の耳に、あの澄み切ったソプラノの、美しい歌声が聴こえた気がした。 『……レックウザ。早く、あなたに会いたい……』 『空の柱』の内部。 その中でも、最も頂に近い場所。 ソプラノの歌声が響き渡る。 『来れるだけ上に来たの。でも、何でかわからないんだけど、私はこれ以上上には行けないの』 青空のような真っ青な身体。綿雲のような純白の翼。本来は擬態のための体色だが、この暗い塔の内部では全く意味をなさない。 なぜ、こんなところに紛れ込んでいるのか。その理由は、誰も知らない。 『私、あなたに会うために戻ってきたの……。あなたと一緒に、空が見たいの……。早く会いたいよ……レックウザ……』 チルタリスは歌う。 『空の柱』の頂に、最も近いその場所で。 天空と共に生きる緑色の竜神に、その歌声を届けるために。 +++++++++The end |