+++「この味がいいね」と君が言ったから+++
酢と塩とオリーブオイルと黒胡椒。割合は手が覚えてる。
しっかり混ぜてサラダにかける。テーブルに出すと、彼は嬉しそうに手を叩く。
フォークをつきたてようとすると、逃げだした。
やっぱりチュリネじゃ駄目かしら?
七月六日はサラダ記念日便乗100字
(初出:2011/7/6 マサラのポケモン図書館)
腹が減った。
猛烈に腹が減った。
目の前にいるろうそくお化けは、つぶらな瞳で俺を見上げてくる。
そうだ。今俺の腹の虫が暴動を起こしてるのも元はと言えばこいつのせいだ。
こいつは近くにいる生き物の生気を吸い取るとか何とか。今のところ近くに俺以外の生き物はいないから、間違いなくこいつが吸ってるのは俺の体力だろう。
無断で人のエネルギー吸い取りやがって。消してやろうかその頭の火。
いやまあ、生気を吸うって噂が眉唾ものだとしても、だ。
このかわいい顔したろうそくに誘われるまま、3時間も歩かされたら腹だって減るだろそりゃ。
近所に住んでるド田舎出身の友人が、実家から大量に送られてきたとかで野菜をおすそ分けしてくれたから、今日は真面目に自炊しようと思ったんだ。
大根、白菜、長葱、春菊、人参、椎茸、糸蒟蒻。駄目だこれもう鍋にするしかないわ。
冷蔵庫を開けると醤油しか入ってなかった。野菜鍋――などという存在を俺は認めない。健全な男子たるもの肉を食わずにどうする。肉食いたい。肉食わせろ。
財布の中身を確認すると300円しかなかった。いやこれだけあれば肉くらいは何とか買えるだろう。
というわけで、歩いて15分のスーパーへ肉を買いだしに行ったのが午後3時。
一番量が多くて安いのを買った。原産地とかブランドとかどうでもいい。肉が食えればそれでいい。
昨今の風潮に反してエコバッグなど持っていないので、半透明のビニールのバッグに肉のパックを放り込む。あとは家に帰ってこいつを冷蔵庫で保管しておいて、火がくれた頃から調理に取りかかればそれでよかった。
のだけれど。
スーパーを出るといきなり、火を灯したろうそくが俺の顔面にぶつかってきた。幸いやけどをしたり髪が焦げたりなんて被害はなかったけれど、いやそれにしても何しやがる。
ろうそくお化けはけらけら笑って、俺の周りを飛び回る。
俺は無視して家へ帰ろうと針路を右にとっ熱っちいなオイ!!
このろうそく野郎、いきなり俺の左手を燃やしやがったふざけんな。やけどはしてないけど熱いんだよマジで。ちょっとかわいい顔してるからって調子に乗るなよコラこのお化けろうそく!
にらみつけてまた家へ1歩を踏み出そうとすると、今度は後ろ髪を燃やされた。臭っ! 髪の毛の焦げたにおい臭っ!
俺がまたにらみつけると、そいつは頬をぷくっと膨らませてこっちをにらみ返してくる。何だコラくそっかわいいなオイこの野郎。
「何だよ、ついて来いってか?」
俺が聞くと、ろうそくはにっこり笑ってこくこくとうなずいてきた。
本当は無視して帰りたいところだが、また別のところを燃やされたら(しかもスーパーの前で)困るから、仕方なしについて行くことにした。
レジ袋の中に放り込まれた肉の安否が気になるが、まぁ冬も近い今日この日、気温もそんなに高くないから大丈夫だろう。……多分。
そんなこんなで3時間。
途中何度か道を間違えて燃やされそうになりながらも、俺はこのろうそくについて来た。
何だろう、違うところに行ったらすぐ火をつけられそうになる(俺の服にはもう何箇所か焦げ跡がついている)から黙ってついて来たけど、どう見てもこれ山の中に入っていってないか。
辺り木ばっかりだし、足元悪いし、ってかどう見てもこれ獣道だし、大丈夫なのかこれ。
空も暗くなってきてるし。あれっこれってもしかして遭難フラグじゃね? マジ? バカジャネーノ?
というかそんなことより腹減った。マジで腹減った。狂おしいほど腹減った。
くそっこんなことなら昼飯ちゃんと食っとくんだった。カップラーメン1杯なんて腹の足しにならん。よくわかった。
あぁもう、本当ならもうとっくに家に帰って鍋の仕込みを始めている時間なんだよな。材料たっぷりの鍋。材料費は今日買った肉の代金276円のみ。何て経済的。〆に雑炊。至福。
それが何でこんな山の中でお化けろうそくと1人と1匹さまよわにゃならんのだ。マジで。最近日が沈むと寒いぞ。マジで。何なのコイツ。マジで。ああくそ腹減った。マジで。
「おい、お前、何で俺を連れてきたんだ?」
俺の前を行くろうそくに問いかけると、そいつはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。かわいい。
いやしかし、何だか嫌な予感がする。外れていてほしい。出来ることなら。だってあまりにも馬鹿げてる。
「お前もしかして……俺と遊びたかっただけ、とかいうんじゃないだろうな?」
ろうそくが硬直した。
おい、まて、まさか……図星?
後ろ姿をじーっとにらみつけていると、ろうそくは何とも言えない表情で振り返った。
アテレコするなら『ま、ま、そんなこと言わずにさ旦那、今回だけ! 今回だけツケといてよ、ねっ! 今度金入ったら絶対払うからさっ、なっ?』ってところだろうか。場末の酒場に出入りする親父かお前は。
俺は道端の岩に座り込んだ。もう駄目だ疲れた腹減った。
いやまあ、こいつに悪気はなかったんだ。なかったと思いたい。そう思わないと俺の心が持たない。
ちょっとコミュニケーション不全な無垢なヒトモシが、遊び相手を探していて俺にぶつかっただけってこと。うん。しょうがない。……わけあるか畜生。馬鹿げすぎてて怒りで腹が減る。ああもう。
ろうそくはさすがに何だか申し訳ない顔でこっちを見てくる。いいから食いもの持ってこい畜生。
……そう言えば、今日のメインのはずだった肉は大丈夫か。
俺はレジ袋をひっくり返した。トレイの上はドリップで真っ赤になっている。あぁーもうこの野郎、このろうそくめ。かわいいな畜生。
腹の虫が不満を訴える。
肉か。肉かぁ。焼けば食えるよな。焼けば……ん?
「おい、ろうそく。お前ここまでひっぱりまわしてきたんだから肉焼かせろよ、肉」
ろうそくは『えぇーそりゃないっすよ親方ぁー』とでも言いたそうな顔をした。うるせぇ黙って焼かせろこのろうそく野郎。俺の腹を減らした責任をとれ。
野菜の友人が飲み会の時に語っていた野外知識を思い出す。持つべきものは農家出身の野性児の友人だ。多分今後俺の人生においてそいつの知識が活躍することはないだろうけど。
先のとがった適当な木の枝をとってきて皮をはいで、肉に刺す。ろうそくはしぶしぶといった様子で頭の火を差し出してくる。
何かこう、肉を回しながら焼くゲームがあったなぁとか思いつつ、肉を炙る。くそっ塩コショウ持ってくるべきだった。いやこんなことになるとは思ってなかったからあるわけないけど。
山では日が落ちたら動くなとか言ってたなあの野性児。まぁ一応従おう。奴の無駄知識の最初で最後の活用時だからな。
夜は寒いだろうけど一応こいつろうそくだし、抱きしめればあったかい……と信じたい。
「明日の朝には帰るぞ、俺」
ろうそくは不満そうな顔でこっちを見た。
俺はろうそくの顔の真ん中の出っ張った部分を指で押した。これは鼻なのか。口なのか。何なんだ。
「今度遊びたい時は、わざわざこんなとこ呼び出さなくても俺の家に来ればいいからな」
俺がそう言うと、現在コンロ代わりのろうそくお化けは嬉しそうに笑った。
はてさて、『上手に焼けましたー』と行くか否か。
ぼっと火の調子が強くなったコンロの様子を見て、もしかしてこいつ、俺の夕食から生気奪い取ってるんじゃないだろうな、と俺はふと思った。
CoCoさん宅「イッシュのポケモン 書けるのか!」に乱入
ヒトモシの火で肉を焼きたかった、ただそれだけ
(初出:2011/?/? ひとでスペース)
+++店舗案内+++
◆取材結果
店主(通称マスター:本名不明)は毎日11時ごろ起床します。
ずいぶん遅いですが、本人によるとこれでも生前(?)よりも2時間程度は早起きになったそうです。
起きたら昼食(本人の感覚だと多分朝食)をとりシャワーを浴びて、店へ向かいます。ちなみに生活スペースは店に隣接しているので歩いて3秒で着きます。
店舗の清掃を軽くして、器具の確認をしたら、入口の札を「Close」から「Open」に変えます。
開店時間は大体12時ごろです。
落ち着いたアンティーク調の店内は、お世辞にも広いとは言えません。
席はカウンター席が4つだけです。テーブルは頼めば出してくれますがやっぱり狭いです。
数年前から店の隅にソファが置かれるようになりましたが、座席と言うわけではなさそうです。置いてある理由は、謎です。この喫茶店の七不思議です。
カウンターの後ろには大きな棚があります。
中にはカップやポットやグラスなど、様々な食器類が並んでいます。明らかに席数に合わない量です。
透明なキャニスターに入った様々な種類のコーヒー豆や、ブリキの缶に入れられた茶葉も並んでいます。
「焙煎失敗」やら「実験中」など、明らかに怪しいものが紛れている気がしますが、気にしてはいけません。
頼めば試飲もさせてくれます。ただし自己責任です。
棚の横にはLPプレーヤーが置いてあります。
曲はクラシック中心ですが、マスターは特にこだわりがないそうなので、持ってくれば何でも流してくれます。
先日訪れた時はお客さんのリクエストなのか、パンクロックが流れていました。入った瞬間噴きました。
マスターに聞いたところ、お客さんは1日に2、3人来ればいい方だそうです。誰も来ないことも珍しくないとか。
(基本的には)落ち着いた雰囲気なので、ゆっくりとコーヒーなどを楽しむことができます。
この店にはメニューがありません。
席に着いたら、マスターに飲みたいものを何でも注文してください。
飲み物なら何でも構いません。かなりの無茶ぶりでも、なぜか何事もなかったかのように出てきます。この喫茶店の七不思議ふたつめです。
この前抹茶を頼んだら、平然と薄茶が出てきやがりました。お前お菓子もなくオンリー抹茶とかどういうセンスだよマジで。
……失礼。とりあえず好き勝手注文して大丈夫です。はい。
マスターが多分一番こだわっているのはコーヒーです。
豆の品種や産地、ブレンド、焙煎もライトローストからイタリアンローストまで様々そろっています。
抽出方法はサイフォンがメインですが、頼めばペーパードリップからネルドリップ、パーコレーター、コーヒープレス、水出し、氷出し、エスプレッソマシンと何でもやってくれます。
例によって好き勝手言って大丈夫です。分からないときは聞けば丁寧に教えてくれます。
ちなみにお任せにすると、ブレンドをサイフォンで出してくれます。
基本的に焙煎は知り合いの豆屋さんに頼んでいるそうです。最近自分でもやり始めたとかいう噂。
紅茶をはじめとして色々なお茶もあります。マスター曰く、紅茶派の常連さんも結構いるとか。
ハーブティーのブレンドとかも頼めばしてくれます。
とりあえず、マスターの飲み物に対する情熱は量り知れません。
ただ単に暇なだけかもしれませんが。
その他の飲料ももちろん、アルコール類も出してくれます。
ウイスキーやら日本酒をボトルキープしている猛者もいるそうです。
深夜に行ったらシェーカー振ってました。本見ながらでしたが。
また、初見の人には1杯サービスしてくれます。
大抵黙ってコーヒーを差し出されますが、紅茶派の人は遠慮なく言いましょう。替えてくれます。
ただしこの店には、甘味や軽食などが一切ありません。
なぜ出してくれないのかは、謎です。この喫茶店の七不思議みっつめです。あと4つはご自分でお探しください。
たまたま運よくお店に遊びに来ているゴーストポケモンなんかがいたら、お使いに行ってくれることもあるそうです。
慣れた常連さんの中には、ケーキなどを持ち込む人もいるようです。自由すぎます。
まあ、角砂糖ならいくらでも出してくれます。
17時か18時ごろお店に行くと、マスターが夕食(本人の感覚だと多分昼食)を食べているのに遭遇することがあります。
この前行くとカウンターの中でサンドイッチを食べてました。具はキュウリとトマトとハムでした。それを店で出せばいいのに、とも思いましたが、まぁどうせ聞き入れないので言ったところで無駄でしょう。
ちなみに0時か1時ごろ行くと、夜食(本人の感覚だと多分夕食)を食べていることもあります。この男結構自由です。
お店は夜中の4時頃までやっています。
お客さんがいる限りは店を閉めないので、存分に長居して嫌がらせしてやりましょう。5時過ぎぐらいまで粘れば、カウンターの中で居眠りしているマスターが見られることもあります。
お店を閉めたら、扉の「Open」を「Close」にして、掃除をします。狭い店なのですぐ終わります。
生活スペースに戻って、お風呂に入り、その日の売り上げを清算します。客が少ないのですぐ終わります。
終わったら寝ます。大体5時ごろです。
幽霊のくせに寝るのかとか幽霊のくせにご飯食べるのかとかそもそも幽霊のくせに何で喫茶店やってるのかとか、ツッコミどころは満載ですが気にしてはいけません。
さて、若干店主のプライバシーにも踏み込んだところで、お店の案内です。
場所は路地裏です。どこの町のかと聞かれても、路地裏です。
路地裏に迷い込んで運が良ければ出会えます。路地裏ならどこにでも現れますが、出現率はそう高くありません。運次第です。
出会うまでが大変ですが、一度入れば見つけやすくなります。頑張って探してください。
探してもいないのにお店に迷い込んだ人は少々ご注意を。
お店には野生のゴーストポケモンが多数出入りしていますが、店内にいる限り襲ってくるようなことはないので大丈夫です。
入ったら死ぬとか思ってびくびくしている人もいますが、マスターは普通の人に対しては何もしないのでご安心を。
マスター曰く「こちらが『お呼びした』お客様でも生存率は5割くらい」だそうなので、後ろめたいことがない方は安心してコーヒーをお楽しみください。
顔なじみになってしまえば死ぬことはありません。多分。
ただし、マスターから忠告のようなものを受けた場合、大人しく従った方が身のためです。
異世界のような店内で、時間を忘れてゆっくりと飲み物をお楽しみください。
+++
「この前書いてらっしゃったあの記事ですが、何と言いますか……後半に連れて文章が雑になっていませんか?」
「ばれたか」
『後半どころか最初からグダグダだろ』
「うるさい黙れ」
「途中で何箇所か素が出ていますよね」
「フヒヒばれたか」
『何箇所どころか全部素だろコレ』
「うるさい黙れ」
「そちらもそちらで大変ですね」
「あ、マスター、コロンビアフルシティローストベースブレンドブラジルNo.2シティマンデリンハイガテマラシティサイフォンネルフィルター粉多め抽出時間やや短めにローファットスチームミルクガムシロ1スプーンココアパウダーヘーゼルナッツプラリネ」
「承知いたしました」
「あとオールド20年マンデリンシティローストネルドリップ薄手デミタスカップ温度60度」
「お出しするのは」
「飲んだ後で」
「承知いたしました」
『オイコラそこ2人だけで話を進めるな。あと注文長いわ』
「うるさい黙れ」
『助けてはくれないのかマスター。俺一応ギラティナなのに』
「そう言われましてもお客様フィギュアですし」
『うぐぐ』
深夜テンション
(初出:?/?/? 自サイト)
+++ 桜染+++
「桜の木の下には、死体が埋まってるんですってね」
俺のすぐ近くにいる男女の、女の方が言った。
男は笑って、いつのネタだよ、と言った。
「でも、本当に埋まってたらどうする?」
「うーん、俺のダグトリオが掘り返しちまったりしてな」
俺の目と鼻の先で、ダグトリオが地盤を掘り返している。
何か気になることでもあるのか、俺の前を何度も何度も行き来している。
ダグトリオ、か。
そういえば彼女も、ダグトリオじゃないけどモグラのポケモンを持っていたっけ。
それを知ったのは、彼女と別れる直前のことだったけど。
「何をしているの?」
傍らにハハコモリを従えた彼女にそう尋ねられたのは、雪もちらつきはじめた晩秋のことだった。
桜を見ているんだ、と俺は答えた。
川沿いの遊歩道にずらりと並ぶのはソメイヨシノ。そのシーズンになれば、等間隔にぼんぼりが並べられ、酒盛りをする人たちであふれかえる。
しかし俺と彼女の前にあるのは、枯れかけた赤褐色の葉をいくつか枝に残した、侘しい1本の木。
「春にお花見に誘っても来なかったのに、何でわざわざこんな時期に?」
紅葉した桜も乙なものだぞ、と俺は言った。
彼女は、紅葉どころかもう枯れ葉になっているじゃない、と言った。
ただ単に、俺は人ごみに行くのが嫌いなだけだった。
花見って言ったって、ほとんどの人は花なんか見ずに、酒を飲んで馬鹿騒ぎしている。
それなら俺は、花がなくても、静かに風流を感じられる冬の桜の方が好きだった。
「寒いから、どこかのお店に入りましょうよ」
彼女が言った。
今日は新しい端切れを買ってきたの。彼女は手にしていた紙袋を振った。
「桜の木の下には、死体が埋まっているんですってね」
彼女は俺に向かって言った。使い尽くされたネタだな、と俺は言った。
桜の花は、血の色と言うには濃すぎるじゃないか。もみじの木の下に埋まっているって言われた方が、よっぽど納得する。
俺がそういうと、彼女は笑った。
しかしその反応は予想していたのか、彼女はさらに続けた。
「仮に桜の木の下に死体が埋まっているとして、それは一体いつ頃埋められたんだと思う?」
そう尋ねる彼女に、俺は自分の見解を告げた。
俺は秋だと思う。
桜は紅葉する。その色はやや褐色に近い赤色で、もみじよりもよっぽど血の色に似ていると思う。
なるほど、と彼女は頷いた。
「でも、私は違うと思うな」
じゃあ、君はいつだと思う?
俺がそう尋ねると、彼女は紙袋の中から、ほんのりとベージュがかった、淡いピンクの布を取り出した。
彼女は裁縫が趣味で、よくお気に入りの草木染めの店で端切れを買っては、小物や飾りを作っている。
まだ幼い頃、パートナーのひとりであるハハコモリがクルミルだった頃、その母親であったハハコモリが草木を編んでクルミルに服を拵えているのを見て以来、彼女は裁縫の虜なのだという。
彼女が手にしている柔らかい色合いの布地は、まさしく春に河原を彩る花びらと同じものに違いなかった。
「この桜染の布は、桜の木の枝から煮出されるの」
てっきり花びらを集めて煮出すのかと思っていたから、俺は少し驚いた。
彼女は続けた。
「桜ならいつでもいいってわけじゃないの。普段の桜を使っても、灰色に近い色になってしまう。こういうピンク色に染めるには、花が咲く直前の桜を使わなくちゃいけないのよ」
花が咲く直前。
その時期の、花そのものではなく、木の枝や樹皮が白い布を淡いピンクに染める。
「桜はね、花を咲かせる直前、木全体がピンク色に染まっているの。下に死体が埋まっていても、木全体を染めるんじゃ、薄くなってしまってもしょうがないでしょう?」
そう言って、彼女は手の上の端切れを撫でた。
彼女は桜の花が好きだった。
人であふれかえるその木の下へ、彼女は毎年必ず行った。
俺は誘われても行かなかった。人ごみが嫌いだったのもあるし、彼女の相手をするのに疲れ始めていたのもあった。
彼女は全ての植物に対する愛を、3日で散ってしまうその花へ残らず向けた。
それはきっと、人間に対しても同じだったのだろう。
彼女の愛は一途だった。そして、彼女の愛は重かった。
別れを告げたことはきっと、間違っていなかったはずだ。
そうでなければ、俺はその先永遠に、彼女の重さに耐えながら生きなければならなかっただろう。
木の全体に回って、薄くなった赤い色。
彼女が愛おしそうに撫でていたその色は、一体何が染めていたのだろう。
「ねえ、さっきからあなたのダグトリオ、同じところをずっと掘ってない?」
「うん? 何かあったのかな?」
ああ、そのままこっちに来てくれよ。
俺もそろそろ、誰かに見つけてもらいたいんだ。
夜、現実逃避に散歩へ出かけた
桜が満開だったから定番のネタで即興で書いてみた
(初出:2012/4/15 マサラのポケモン図書館)
+++私と『彼女』の22時+++
大きな森。
目の前には古ぼけた小さな祠。
その上に、『彼女』は座っていた。
『なるほど……それで過去に戻りたい、と』
「はい」
祠の上の『彼女』は、左右の足を組みかえた。
昼間でも薄暗い森。ましてや今は夜。月明かりもまともに差し込まず、数時間この場所にいて暗闇に慣れた目でも、一寸先はほぼ闇だ。
そんな中でも、『彼女』の姿ははっきりと見えた。若草のように鮮やかな薄緑の身体から、淡い光を放っている。
『彼女』(この『彼女』に性別があるのかは不明だが、便宜上そう呼ばせていただく)を見つけるために、どれだけの苦労をしてきただろう。
書籍を片っ端から漁った。当然インターネットも使い古した。どんな些細な情報も逃さなかった。会えると噂になった方法は片っ端から試した。
そして今、ようやく『彼女』と出会えた。
「どうしても、あの時の……若い頃の自分を、止めたいんです」
『……』
「私の人生はあの瞬間からめちゃくちゃになってしまった……私が、あの時……」
『……人を殺してしまったから』
私は黙ってうなずいた。
今から15年ほど前のことだ。
きっかけは……ほんの些細なことだったような気がする。
ちょっとしたことで友人と口論になり、ついカッとなって刃物を持ち出した。
そこに見知らぬ中年の男が現れた。けんかを止めに入ったのか、いきなり私たちの間に割り込んできた。
頭に血がのぼって判断の遅れた私は、うっかりその男を刺してしまった。
顔も名前も知らない、どこの誰かもわからない人間を、私は殺してしまったのだ。
その瞬間から、ごくごく一般的だった私の生活はまるっきり変わってしまった。
住処を変え、名を変え、顔を変え、ありとあらゆるものから逃げ回る日々。
後悔しない日はなかった。あの時の自分を止めてやりたい、止められれば、と何度思ったことだろう。
そんな生活の中、『彼女』の噂を聞いた。
「時」を自由に渡ることができるポケモンがいるらしい。
出会うことができれば、未来でも過去でも好きな「時」に行けるらしい。
そしてそのポケモンは、大きな森の守護者でもあるらしい――
噂を聞いてすぐ、私は『彼女』を探し始めた。
『彼女』に会えば、過去を変えられる。若かった自分を、止めることができる。
平々凡々な人生に、戻ることができる。
「私は過去の自分を止めたい。真っ当な人生を歩みたいんです」
『…………』
「お願いします、私を過去に戻してください!」
私がそういうと、『彼女』は再び足を組みかえ、腕を組んだ。
そして大きなため息をつくと、言った。
『ば―――――――――――――――――…………っかじゃないの?』
それまで静かで落ち着いた雰囲気を醸し出していた彼女の『言葉』に、私は呆気にとられた。
『彼女』はふっと蔑むように鼻で笑うと、私の背よりも高い祠の上から、水色の瞳で見下ろしてきた。
『アンタ、本気で過去が変えられると思ってるわけ?』
「え……」
あのねぇ、と『彼女』は腕を組みかえて言った。
『アンタみたいにたかだか数十年しか生きてない、何の力もない単なる一般的な人間には分かんないでしょうけどねぇ、「時の流れ」ってのはこの世界が生まれたその瞬間に、最初から最後までぜーんぶ決まってんのよ。今どこかで小石が蹴られたことも、昔どこかで戦争が起こったことも、今こうやってアタシとアンタがしゃべってることも、ぜーんぶ「時の流れ」で決められてたことなの。この世界にあるもの全てはそこから抜け出すことはできないし、変えることなんてできやしないのよ。アタシもアンタもね。アンタが過去に人を殺したことも、そいつがアンタに殺されたことも、どう足掻いたって消えやしないのよ「時の流れ」から無くなったりしないの。アタシは確かに時を渡れるけど、それだって全部「時の流れ」の中では決められてることなのよ。過去を変える? 歴史を変える? そんなの出来るわけないじゃないばっかじゃないの? アタシごときにそんな力あるわけないじゃない。どうしても歴史を変えたいなら、世界を最初っからぜーんぶ作りかえることね』
『彼女』はそう言って、私を見下ろしてまた鼻で笑った。
まるで出力マックスの放水車で水を浴びせられるような、怒涛のごとき『彼女』の言葉に、私は言葉を返すことが出来なかった。
『彼女』は氷のような冷たい目線でこちらを見下ろしてくる。
風が吹いた。木々がざわめきのような音を鳴らす。
「……わかりました。帰ります」
『彼女』は森の守護者。
ざわめくような森の声は、きっと『彼女』の「帰れ」という言葉の代弁。
そう判断した私は、『彼女』の座る祠に背を向け、歩き出そうとした。
『――ちょっと待ちなさいよ。誰が「帰っていい」なんて言ったの?』
『彼女』が声をかけてきた。私は足を止めた。
ふわり、と『彼女』は空を飛び、私の前で静止した。
『まだやることが残ってるでしょ。アタシはアンタを過去に送らなきゃ』
「え、しかし……私の過去は消えないとさっき……」
『当たり前じゃない。だから、よ』
『彼女』はそういうと、にっこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、背筋が一瞬にして凍りついた。
『アタシはアンタを過去へ送らなきゃならない。だって、「時の流れ」でそう決まっているもの』
逃げたい。逃げなければ。
でも、足が動かない。
つたが絡まって、足が動かない。
『そうね。一応教えておいてあげるわ。アンタがやらなきゃならないこと』
『彼女』の目が妖しく光る。
小さくて短い両腕に、エネルギーがたまっていく。
『けんかをね、止めてきてほしいのよ』
「……!?」
『どうすればいいか、わかるでしょ? だって……』
『彼女』が手を私の額の前にかざした。
視界がだんだん、白く染まっていく。
ああ、そんな、馬鹿な。
そんなこと、あるわけない。
顔も知らない中年男性。
風の噂で、身元が全く分からなかったと聞いた。
過去の罪から逃げるために、全てを変えてきた私。
逃げてきた過去が、とうとう私に牙をむいた。
『今』と『昔』の景色が混ざる。
暗い森は薄汚い路地に。
『彼女』の笑顔は、煌く刃に。
『それじゃあ、「世界」のために、死んできてちょうだい』
私が最期に見た『彼女』の笑顔は、とびきり優しく、美しく、冷たかった。
激しいイライラ+現実逃避=コレ
自分の中の『彼女』が良い子ちゃんばっかりだったから
ちょっとアレなの書きたくなった、ただそれだけ
(初出:2012/5/16 マサラのポケモン図書館)