#タイトルをもらってどんな話にするか考える twitterのハッシュタグで頂いたタイトルから作った話たち
モノクロームのコノテーション

雪解け水

存在しなかった町

僕は緋に燃える

Weather Report






+++モノクロームのコノテーション+++



 接続先のない通信ケーブルに、時々どうしようもない罪悪感を覚えることがある。


 単3電池を4本搭載した分厚いグレーの本体に、緑色のラベルが貼られたカセットが刺さっている。
 灰色がかった黄緑色の画面の中央に映るのは、16×14ドットの2頭身の少年。
 160×144ドット、およそ4×4.5cmの、4色で構成されたモノクロの液晶の中が、幼いころから僕にとって一番心が安らぐ場所だった。

 まだほんの子供のころに買ってもらったこのソフトと、いとこの兄ちゃんにもらったこの大きくて古い本体は、今もまだ僕の中では現役だ。
 次作の内蔵電池が3年足らずで切れてレポートが書けなくなってしまっても、その次の世界が時を刻むことができなくなってしまっても、初プレイからかれこれ19年経ったこのソフトは恐ろしいことに未だ健在である。
 20年以上使われている液晶画面は、劣化して両端に白線が入ってしまっている。幸い今のところまだプレイにさほど支障はない。液晶は昔のテレビとかで主流だったブラウン管とかと違って、自分が光り輝いているわけじゃない。詳しい構造を省いてざっくり言うと、シャッターのように光を透過させたりさせなかったりすることで濃淡を表現しているわけだ。この本体の液晶画面は反射板が金色だから、光を完全透過している「白」の部分が何とも言えない黄緑色だ。視認性が悪いけど、この色も何となく愛着があって嫌いじゃない。ずっしりとくる大きさと重さも案外気に行っていて、最新機種の軽さがいかにも玩具っぽくて時々少しだけ不安になる。それと、音楽はいわゆるピコピコなのだけれど、この本体は性能の割にかなり音質が良い気がして、僕はいつもイヤホンをしてゲーム内の曲を楽しんでいる。
 まあ、常々使っているわけではない。僕だって新作のゲームはやりたいし、3Dグラフィック・立体サウンド・直感操作は大したものだと思う。ただ、時々無性に、機能性に関しては比べるべくもないこの本体とカートリッジに戻ってきたくなってしまうのだ。


 僕は昔からどうも内向的で、人とコミュニケーションを取るのが絶望的に苦手だった。
 おかげさまで幼稚園から大学卒業するまでほとんど友人らしい人物はおらず、会社でも何となく浮いているというか、避けられているというか、触れてはいけない存在のように思われている節がある。そのこと自体はまあこの20数年の人生ずっとそうだったから今更どうこういうわけではない。
 ただ何となく、僕にとってこの世界は生き辛いな、と思うのである。

 だけど、ほとんど空気みたいだったこの20数年間の中で、ほんの一瞬だけ、僕が輝いていた時期があった。
 それこそ今プレイしているこのゲームが発売された時であり、僕が通信ケーブル(及び変換コネクタ)を持っていたからだった。

 このソフトは、通信ケーブルを介して他人と交換・対戦することが醍醐味だった。CMも通信関係のことばかり言っていた気がする。あんまり覚えてないけど。
 ただ、それまでのソフトでそこまで積極的に通信ケーブルを用いたものがなかったこともあって、持っている人はかなり少なかった。
 そんな中、僕はいとこの兄ちゃんから本体と共に通信ケーブルを受け継いでおり、クラスの中で唯一の通信可能な人間だった。そんなわけで、通信進化や図鑑埋めの協力が僕に一斉に舞い込んできたのだった。交換してもらった子たちは何となく消せなくて、セーブデータを変えてもずっと持ち歩いていた。
 まあ、そんなのもほんの数週間後、クラスのリーダー格が通信ケーブルを入手した(しかも初代は使えない奴を)ため、あっという間に鎮静化して僕は元の空気に戻ったのだけれど。

 結局のところ、世の中は僕が必要なわけじゃなくて、他に適任がいなかったから仕方なく僕を選んだのだ。
 あれ以来僕にお呼びがかかることはなく、僕はひとりでゲームを進めて、ひとりで通信をして、ひとりで図鑑を埋めて、ひとりで満足して、それで終わるようになった。
 まあ、不満があるわけじゃない。本来RPGはひとりでやるもんだし、システム上何かしら問題があるわけでもない。自分のペースで好きなようにプレイ出来るし、そこのところは気楽でいい。
 ただ、同じ人間が操っているキャラクター同士が通信するのを見るたび、他の人たちがわいわい対戦や交換をしているのを見るたび、僕は何となく胸の奥がもやもやとして、何となく罪悪感を感じるのだった。


 ふつ、と突然画面がホワイトアウトし、イヤホンから流れていた音楽が途絶えた。
 電源ランプはしっかり灯っている。そもそも電池はほんの数時間前に入れ替えたばかりだ。一旦電源を切り、カートリッジを取り出して端子に息を吹きかける。本来やってはいけないが既に習慣である。念のため麺棒で拭って本体に刺しなおし、もう一度電源を入れるが、画面は依然灰と金を足した色のまま変わることはなかった。
 ああ、とうとう壊れたか。まあ20年も使ってたらそりゃ壊れるよな。僕はため息をついて電源を切り、本体を机の上に置いた。


 画面の中央に、小さな2頭身の人影が現れた。


 僕は驚いて本体を手に取った。それは紛れもなく、今刺さっているカセットの主人公だ。しかし本体の電源はついていないし、僕は全く操作していない。
 そいつは僕が何のボタンも押していないのに、手前側に向かって足踏みをしていた。背景が白く本人の場所は動かないので一瞬困惑したが、画面下方向に向かって歩いているようだ。
 しばらくの間そいつは辺りをうろうろと動き回り、こちらを見て「!」の吹き出しを頭の上に浮かべた。

「こんにちは」

 耳元から突然、ノイズ混じりの少年の声が聞こえてきた。僕は驚いて本体を取り落した。ごつっ、という鈍い音が響き慌てて拾い上げたが、机の天板に小さなへこみが出来ただけで画面の中には相変わらず少年が映っていた。
 何だこいつ、という僕の心の声に答えることもなく、そいつはきょろきょろとあたりを見回し(たように見えたが、このソフトに首だけが左右に動くモーションは存在しないので全身が左右を向いていた)、またこっちを向いた。

「むかしから ずっと きに なっていたんだけど ‥‥ どうして きみの せかいは モノクロなの?」

 何言ってんだこいつ、と僕は思った。
 モノクロなのは、「黒・白・灰色2種」で構成された、その液晶の中にいるお前たちの方だろう、と。

「だって ぼくの ぼうしと うわぎは あか だし ズボンは あお フシギバナは みどり だし ピカチュウは きいろ」

 少年の両隣に、顔のついた花と、ピッピに似た生物のアイコンが現れる。そいつと変わらない、彩度0の4色。
 だけど僕にはそれが確かに、緑色と黄色に見えた。

 少しだけ間を置いて、ノイズ混じりの声がまた聞こえてきた。

「ねえ どうして きみの せかいは 『モノクロ』 なの?」

 ふっと、画面の中の少年達の姿が消えた。気がつくと、本体からカートリッジを引き抜いていた。
 カートリッジに貼られた、緑色のラベルが目に入る。僕はそれを裏返して、机の上に置いた。
 僕は何度か深呼吸して、馬鹿馬鹿しい、と自嘲した。夢に決まってる。そうでなけりゃ幻覚と幻聴だ。疲れてるのかな。全く。

 押し入れの引き出しの中をひっくり返し、紫色の半透明のボディをした、先程より幾分コンパクトなカラー液晶のハードを探しだした。これもまた古い機体だが、問題無く動くだろう。
 僕は一瞬ためらいつつ、カートリッジを本体に挿入した。画面内に少年が現れることもなく、電源を入れるとゲームは起動した。
 しかしスタート画面からひとつ進んだところに、「つづきから はじめる」の選択肢は存在していなかった。
 何度かキーを動かすと、画面の中には意味不明の文字列が溢れかえり、それきり全く動かなくなった。



 雲が3割ほどの晴天。風は生温かく、木の上では小鳥がさえずり飛んでいく。公園の砂場にもブランコにも人影はなく、ただただ穏やかな春の日差しが降り注いでいる。
 そんな中で、僕はベンチに座ってただぼうっとしていた。顔のパーツは完全に無表情から動かず、時折肺の底から深いため息が漏れてくる。

 空は澄み、若葉は鮮やかで、そんな麗らかな陽気だというのに、僕の目にはモノクロのような風景しか映らなかった。
 今日に限ったことじゃない。いつもだ。今まで生きてきて、ずっと。
 生きる意味とか目標とか、考えるのも面倒くさい。僕みたいなのはどうせいてもいなくても何の影響もないわけだし。

 この世はとかく生き辛い。少なくとも、僕にとっては。


 何度目かわからないため息をついた時、公園近くの道路に人影が現れた。

「――あれ? お前確か、小学校の時の……」

 世間は休日だというのにスーツを着たその男は、僕の方へ近寄ってきて、やっぱそうだ久しぶりー元気してたか? と謎のハイテンションを見せてきた。
 人の顔も声も名前も覚えるのが苦手な上、あったのもずいぶん昔のことらしいので、目の前の男が何なのかわからなかったが、彼が小学校何年生の時一緒だった、とか発表会で何々の役をやった、とかいろいろ個人情報を出してきたのでようやく思い当たる人物を脳内から検索できた。それにしてもよく20年以上前のクラスメイトの顔と名前なんか覚えてるなあ。それも僕なんかの。
 元気してる? とか最近どうよ? とか本当に聞きたいのかいまいち不明な質問に適当に相槌を打っていると、彼はふと思い出したように言ってきた。

「そう言えば、ポケモン流行った時、最初お前だけ通信ケーブル持ってたんだよな。俺、お前に協力してもらってユンゲラー進化させてさぁ……」

 ああ、そうだった。
 この人もあの数週間の間に、僕の前に現れたひとりだった。

 僕の灰色の大きな機体と、彼の赤いコンパクトな機体をケーブルで繋いで。
 黄緑色の画面の中に、僕以外のもうひとりが現れて。
 ケーブルをボールが行き来するのを見て、すごく嬉しそうにしてて。

「ごめん、あの時もらったキュウコン、昨日カートリッジがバグって消えちゃったんだ」
「えっ、お前今までずっと持ってたの!? すげーな」


 あの少年の世界に色があって、僕がいるのがモノクロなのは、僕があの一瞬の輝きを、緑色のカートリッジの中に閉じ込めたからだ。
 少なくともあの時僕は、ほんの短い時間だったけど、たくさんの人と繋がって、交換して、力を貸して。

 それがすごく、楽しかったんだ。

 ひとりが嫌いなわけじゃない。群れるのは疲れる。面倒な人間関係に巻き込まれるくらいなら、存在感のない空気のような人生も悪いわけじゃない。
 そういうことじゃない。孤独だとか寂しいとか、そういう次元の問題じゃあない。
 モノクロの世界だって悪いわけじゃない。生きづらくても、嫌いなわけじゃない。


 僕はただ、接続先のない通信ケーブルに、時々どうしようもない罪悪感を覚える。たったそれだけのことだ。



タイトル提供:@weakstormさん
コンセプト:モノクロの画面とモノクロの現実。繋がらない通信ケーブル
(初出:2015/4/2 マサラのポケモン図書館)






+++雪解け水+++



 『雪が解けると何になるでしょう』という問題があった。
 雪が解けると春になるんだよ、と彼は言った。
 無邪気な笑顔で放たれる言葉に、無性に腹が立ったことを覚えている。


 何でこんな時に突然、そんなこと思い出すんだろう、と、私はショーウィンドウに映る眉間にしわの寄った自分の顔を見てため息をついた。
 暦の上ではとっくに春だというのに、今日は寒い。コートとマフラーがないと風邪をひいてしまいそうだ。昨日まであんなに青かった空も、今日は灰色の雲に覆われている。もう梅の花も散って、これから春まっ盛りって季節なのに。

 水になる、と言って、普通だね、とつまらなそうな顔をされるのに腹が立った。
 春になる、と言った子が、豊かな発想だね、とほめられていたのにはもっと腹が立った。
 どうせ『雪が解けると春になると答えるような変わった発想を持つ子を育てましょう』みたいな講習を受けたのだろう。今のご時世、春になるなんて答え、ありふれすぎていて豊かも何もあったもんじゃないのに。
 そりゃあ私は普通でしょうよ。雪が解けて水になって何が悪いの。当たり前の質問をされたから当たり前のことを返しただけじゃない。


 それにしても、妙に冷える。
 そう思いながら辺りを見回すと、ビルとビルのすき間に白い影が見えた。
 白い山型の帽子を被った、丸い植物。確か、ユキカブリとかいうポケモンだった。そいつが狭い路地のすき間に座り込んで、小さな鳴き声を上げていた。

 鳴き声と言うか、泣き声というか。しょぼくれた顔をして、か細くて甲高い声でぴいぴいと鳴いている。
 そのユキカブリは記憶の中のものよりひと回り小さく、まだ子供のようだった。おなかの縞は茶色だから、オスなのだろう。
 野生だとしても、誰かの手持ちだとしても、おやとはぐれたのか。どっちにしろ、このままここに置いておくわけにもいかないだろう。

 私が近寄ってしゃがみ込むと、ユキカブリはびくりと小さく飛び上がったが、しばらくすると私の方を興味津々に見つめてきた。
 さて、どうしたものか。遠い昔に受けたポケモン取扱講習の内容を必死に思い出す。ああそうだ、確かユキカブリって、連れ歩きに注意が必要なポケモンのひとつじゃなかったっけ。確か特性が「ゆきふらし」で、周りに影響を与えるとか何とか。連れ歩くには特性「ノーてんき」のポケモンと一緒か、手持ちの他のポケモンと「スキルスワップ」しておかなきゃいけないんじゃなかったっけ。
 ってか、もしかして今日異常に寒いのってこの子のせい? ……なわけないか。子供1匹でこんな広い範囲に影響が出ることはないでしょうしね。単なる寒の戻りよね、今日は。近づいたらちょっと寒くなった気はするけど。
 とにかく、私はトレーナーじゃないし、ボールも持っていない。どっかお店で買ってこようかとも思ったけど、そういえばこの子が野生って確証はないんだったっけ。ううむ、どうしたものかしら。
 しょうがない。とりあえず近くのポケモンセンターに連れて行ってみるか。


「野生ですね。群れからはぐれたのかもしれません」

 ポケモンセンターのお姉さんは、私の説明を聞き、ほんの数秒何かの機械を操作した後、そう言ってきた。
 お姉さんが言うには、ユキカブリがこの時期、こんな街の中にいるのはおかしいのだという。ユキカブリは暑さにとても弱く、春になると万年雪の残る高山の山頂付近へ移動するのだという。冬になって雪が積もると山を下りてくるのだけれども、それにしてもこんな街中まで来るのは珍しいらしい。ユキカブリは好奇心旺盛で人懐こく、見かけた人について行ってしまうこともしばしばあるようで、このユキカブリもそんな感じで街まで来てしまったか、もしくは群れからはぐれてさまよっているうちにここにたどり着いたかでしょう、ということだった。
 いずれにしても、早く群れに戻してあげなければならないらしい。お姉さんが、協力してくれるトレーナーを募集してみます、と言ってきた。近くのセンターと協力して掲示を出しておけば、よっぽどのことがない限り数時間もすれば見つかるでしょう、と。
 あとはこちらに任せていただいて大丈夫ですよ、と言われたのだけれども、ユキカブリが私のパンツの裾をつかんで離さないものだから、一緒に待つことにした。すっかり懐かれましたね、とお姉さんに笑われた。


 ロビーに案内され、ユキカブリと一緒にソファに座った。
 セルフサービスのインスタントコーヒーを啜りながら大画面のテレビを眺めていると、ユキカブリが袖を引っ張ってきた。顔を向けると、胴体に着いた丸い塊をちぎり、私に差し出してきた。受け取ると、冷凍庫から出したばかりのように冷たく、ほんのり霜が降りていた。
 どうしろと、と思っていると、ユキカブリはその塊を私の口元に押し付けてきた。食べろということか。正直、さっき体から取ったのを見てたからあんまり食べたくない。でもユキカブリが執拗に勧めてくるものだから、内心嫌々ながら口に入れた。
 しゃきっとした歯ごたえがあり、口の中で溶けてゼリーっぽい食感になる。ほんのり甘くて、パイナップルのような、どこか遠くに香料とか人工甘味料とかそんな風味を感じる。駄菓子屋で打ってた10円のアイスを思い出した。まあ、嫌いじゃない。


 そうやってしばらくぼんやりしていると、お姉さんがやってきて、トレーナーさんがいらっしゃいましたよ、と言ってきた。
 立ち上がってお姉さんの後ろの人影を見る。顔を合わせた瞬間、私と人影は同時に「あ」と声を上げた。

 突然あの時のことを思い出したのは、これを予感していたのだろうか。
 そこにいたのは、中学まで同級生だった男。あの時、「雪が解けたら春になる」と言った、あの彼だった。


「いやーびっくりしたよ。まさかこんなところで再会するなんてなー」

 中学卒業して以来だからもう7年、いや8年だっけ? と彼はリザードンの背で笑う。私はユキカブリを膝に抱えて、彼のチルタリスの上に座っている。2匹はゆったりとした速度で、並んで飛んでいる。
 そうね、とわたしは答えた。先程昔のことを思い出してイライラしていたことがひっかかり、何となく気まずくてすぐに口を閉ざした。彼は黙った私を見て何か勘違いしたのか、鞄の中から上着を取り出して、こっちに投げてよこした。これからもっと寒くなるから着ておきなよ、と笑顔で言った。トレーナー向けの防寒具は、無駄に軽くて無駄に暖かかった。
 彼はしばらく、笑顔で取りとめもない話をしてきた。今トレーナーでどんなことをしているだとか、ユキカブリが街にいるなんて珍しいしラッキーだなとか何とか。私はそれに対してそうね、とかふうん、とか気もない返事ばかり返していた。

 しばらく飛んでいると、雪の残る山が見えてきた。気温はどんどん下がって、上着を着込んでも寒い。小さいくしゃみをすると、膝の上のユキカブリが心配そうに私に抱きついてきた。ごめんお願いやめてますます寒い。
 彼は双眼鏡を取り出し、白い雪原を眺めはじめた。ちゃんと群れに返さないと、このユキカブリがまた街に戻ってきてしまうかもしれないから、ということだった。
 白い視界の中で白い群れを探している彼が、そう言えば、と口を開いた。

「昔さ、小学校入ったばっかりの頃だっけ。『雪が解けたら何になるでしょう』って問題があったよな。俺が『春になる』って言ったら、先生に妙に絶賛されて」

 よりによって、どうしてそれを思い出すのだろう。私は小さくため息をついたけれども、双眼鏡で雪山を見続けている彼はその様子に気づくはずもなかった。
 そう。彼は先生にとても気に入られて、褒められて、発想が豊かだ、想像力のある子だ、と大絶賛された。みんなこういう、子供らしい柔軟な発想を持ちなさい、と。
 それとは逆に、水になると主張した私は、発想が貧困で、頭が硬くて、子供らしくない、頑固で、残念な、かわいそうな子、というレッテルを貼られた。あの一件以来、私はいつもそう言う目で見られているような気がして、自分がとても悪いことをしているような、大罪人のような気分をいつも抱えるようになった。

 でもさあ、と彼は続けた。

「よくわかんなかったよな。発想が豊かだとかすげー言われたけどさあ、今思うとあの先生の判断基準のがよっぽど貧困だったよな。マニュアル通りというか」

 何よそれ、と私はつぶやいた。さすがに彼も聞こえたらしく、双眼鏡から目を話してこちらを向いた。

「褒められてたあなたは、私があれからどんな気持ちだったかなんてわからなかったでしょうね。未だに思い出してはイライラして、もやもやして、そんな自分が嫌になって、全部飲みこんで気持ち悪くなって、自己嫌悪。見えない呪いをかけられたみたい。あなたは残念な人間、あなたはつまらない人間、って。貼られたレッテルはもう剥がせない。それなのに、今更……もう、遅すぎる……」

 両目からぼろぼろと涙がこぼれた。彼はしばらく視線を宙に泳がせて、申し訳なさそうに言ってきた。

「ごめん。俺、察するのとかすげー苦手で……ちょっと自分勝手言いすぎた」

 私は首を横に振った。彼は真っ当なことしか言っていない。私が勝手に苛ついて、勝手に傷ついているだけだ。
 でもさ、と彼が口を開いた。

「つまらない人、っていうのは違うと思うな。……昔から真面目でさ、人一倍頭もよかったし、けんかも悪口もしなかったし。いっつも人の気持ちを考えて、周りの空気読んで、何か問題が起こりそうになったらすぐに整理して筋道立てていい方向に行くようにしてくれたじゃん。俺、そういうの無理だもん。空気読めないし、思いつきでしか行動しないしさ」
「それ、は……」

 けんかや陰口をしなかったのは、自分にそんな資格はないと思っていたからだ。周りを窺っていたのは、相手を不快にさせたくなかったからだ。ただただ、自分が怖がっていただけだ。
 俺が言うのもアレだけど、と彼は困ったように笑った。

「もっと、自信持っていいと思うよ」

 彼がハンカチに包んだ使い捨てカイロをこっちに投げてきた。手のひらに広がるじんわりとした暖かさが、何か硬いものを解かしてくれるような気がした。


 真っ白な雪原の中に、彼がユキカブリの群れを見つけた。
 リザードンとチルタリスが山に降り立つ。私が雪上へ足を降ろすより先に、ユキカブリが飛び出して群れへ走っていった。群れの中の1匹に飛び付き、周りもそれを嬉しそうに出迎えている。出迎えたのが家族か友達かはわからないが、これが元いた群れに間違いなさそうだ。
 よかったよかった、と胸をなでおろしていると、ユキカブリたちが自分たちの体に着いた丸い塊をちぎり、私たちに山盛り差し出してきた。
 私がまたか、と思っていると、ユキカブリは春になると木の実が出来るんだよ、植物だから、と彼が言ってきた。へえ、と私は頷いて、彼にやや多めに丸い木の実を渡した。彼はひとつを口に入れてしばらくもぐもぐとした後、うーんと首をひねって言った。

「ドラゴンフルーツってこんな味だった気がする」
「私は駄菓子屋で売ってる10円アイスだと思った」
「あーなるほど、あの爆弾型の奴だろ? うんうん、わかるわかる。あと給食で出た冷凍ゴスのみもこんなだっかも」
「何か人工物っぽい感じがしない? 雑と言うか」
「あっわかった! ちょっと凍り始めたくらいの雪にみぞれの氷蜜かけた味だわこれ。雪の味とにおいする」
「ごめんそれやったことないから私わからないわ」

 あ、そうか、と彼が何か思いついたような声を出した。

「俺、やっぱ間違ってたわ。『雪が解けたら春になる』んじゃなくって、『春になったら雪が解ける、こともある』だわ」
「は?」
「だってさ、今って、ユキカブリにも実がついてるし、春じゃん。でも雪あるじゃん。そういうこと」

 ……ああ、なるほど。
 私は彼と顔を見合わせて、っていうか何かもう、その話どうでもよくなって来たわ、と笑った。


 街に戻ってきた頃には、とっぷりと日が暮れていた。
 家まで送るよ、という彼の申し出を断り、私は夜の街を歩いた。

 明かりの落ちたショーウィンドウに、私の顔が映り込む。
 前に見た時より、ほんの少しだけましな顔をしているような気がした。

 迷子のユキカブリがいたところには、ほんの少しだけ氷の解けた水の跡が残っていた。


 雪が降ってきた。
 真っ暗な空から落ちてきた氷の塊は、黒いアスファルトをほんの数分で白く染め上げた。
 薄く積もった湿った雪の上を歩く。スニーカーの底に雪が貼りつき、ねちゃりねちゃりと捨てられたガムを踏みつけたような粘着質な音がした。

 街全体が白く染まり、冬の名残はすぐに止んだ。
 次の朝には、また何事もなかったかのように春先の世界に戻っていた。



タイトル提供:@LandFormeさん
コンセプト:雪が解けたら水派と春派。言葉の呪い。名残雪
(初出:2015/4/2 マサラのポケモン図書館)






+++存在しなかった町+++



 お父さんとお母さんに連れられて、とある大きな街に遊びに行った。
 いろんなところへ行って、たくさん買い物をして、おいしいものを食べて、とっても楽しかった。

 しばらくして、その町をテレビで見た。
 私が知っているはずの街と、全然違う町だった。


 あの街に行った時のことは、とてもよく覚えてる。どこで何をしたとか、何を食べたとか。でも、私が覚えている雑貨屋さんも、アイスを食べたお店も、その町にはなかった。
 おかしいね、とイーブイと顔を合わせた。イーブイも不思議そうに首をひねった。

 一緒にテレビを見ていたお父さんとお母さんに、この番組おかしくない? って聞いてみた。そうしたら、お父さんとお母さんは何もおかしくないよ、と言ってきた。
 私はそんなことないって言って、あの日何をしたのか、今見たテレビとどう違ったか、細かくお父さんとお母さんに説明した。

 そうしたら、お父さんとお母さんは困った顔をして、私を病院に連れていった。


 病院の先生は、とても優しくてきれいなお姉さんだった。

「街のこと、教えてくれるかな。覚えてること、全部教えてほしいの。あなたはその街に行って、まず何をしたの? どんな街だった?」

 私はお父さんとお母さんに連れられて、その街に行った。
 すごく大きなビルがいっぱい建っていた。広い道に自動車がたくさん走っていて、人もすごくたくさんいた。
 お店がいっぱいあって、いろんなものを売っていた。

 私は最初に、高い塔に行った。エレベーターで展望台に上がって、大きな街を上から見下ろした。見渡す限りビルだらけで、遠くに海も見えた。
 お昼の時間になって、レストランでハンバーグを食べた。苦手なニンジンがついていて、こっそり残した。
 次に、大きなデパートに行った。おしゃれな服がたくさんあって、きれいな格好の人たちがたくさんいて、羨ましかった。
 そのあと大きな通りを歩いて、途中にあるお店でジェラートを買ってもらった。レモンとイチゴの2種類をコーンに盛ってもらった。
 雑貨のお店に入った。レースがついた赤いリボンと、同じリボンがついた髪飾りも買った。
 そして車に乗って帰る途中で、疲れて寝てしまった。

 そんなことを話すと、先生はうなずいて優しく笑いながらメモを取った。
 もっと思い出せることはない? と聞かれて、一生懸命思い出したけど、あまり大きなことは思い出せなかった。

 それからしばらく先生はお父さんお母さんと何か話をして、明日またお話してくれる? と聞いてきた。
 先生が優しくて、話をしっかり聞いてくれて、楽しかったから、また話すことにした。


 イーブイと一緒に布団に入って、その夜はぐっすり眠った。
 たくさんのポケモンたちと遊ぶ夢をみた。かわいいのやかっこいいのや、すごくたくさんのポケモンと。
 私はおしゃれでかっこいい服を着て、たくさんのポケモンを連れて、トレーナーとして旅をしていた。

 目を覚まして、こちらを見てくるイーブイを見て、あ、わかった、と私はつぶやいた。


 病院に行って、何か思い出したことはある? と先生が言ってきた。
 私は大きくうなずいて、先生に言った。


「あのね、あの街、ポケモンが全然いなかったの!」


 そう、あの街は数え切れないくらい人がいた。けれども、ポケモンは1匹もいなかった。いつも一緒にいたはずのイーブイもいなかった。
 ポケモン関係の道具もなかったし、テレビの画面にも、看板にも、どこにもポケモンがいなかった。
 こんなに周りにはいっぱいあるのに、不思議だよね、と私は言った。

 先生は何度もうなずいて、メモをたくさん取った後、ここで少し待っててね、と言って部屋を出た。

 じっと座っていると、だんだん眠くなってきて、私はうつらうつらとしていた。
 頑張って眠気をこらえていると、隣の部屋から先生とお父さんとお母さんの声が聞こえてきた。


「街での記憶は……ただ、その他に対する認識が……」
「それじゃあ、やっぱり最近話題の……」
「ええ、間違いないと……最近若い子に急に増えている……」

「先生、その……『ポケモン』っていうのは何なんですか?」

「わかりません。ただみんな……同じように不思議なものを……私たちには見えないものを……テレビなどの内容も……」
「……街に行った頃から……突然『ポケモン』とか『イーブイ』とかわけのわからないことを言いだして……」
「とりあえず……しばらく様子を……」


 大きなあくびをして、眠気と戦うのをやめた。
 鼻先を顔に近づけてくるイーブイを撫でて、私は先生が来るまでおやすみすることにした。



+++



 戻ってくると、あの子は椅子に座ったまま居眠りをしていた。
 理解してあげられない自分が、歯がゆくて、申し訳ない。

 最近、特に若い子を中心に、不思議な現象が広がっている。

 周囲が異常に気付くきっかけで特に多いのが、以前訪れたことのある場所に対し、『この場所は行った場所と違う』と言いだすこと。それはテレビや雑誌に載っている情報であったり、昔来た場所に再び訪れた時だったり。
 話を聞いてみると、その場所での思い出は間違っていない。細部まで聞いてみても、実際の状態と矛盾することはない。

 ただ、その子たちが、テレビや雑誌で見た場所の話、または再び訪れたその場所の話を聞くと、それが事実と大きく異なっている。
 その場所の地理や、交通、広告や販売物、全てが実在するものと大きく異なっている。

 そして一様に、『ポケモン』という存在が、周りに溢れているのだという。

 原因は、いまだにはっきりとしていない。
 脳の認識の異常か、何らかの病気か。トンデモ科学なバラエティ番組が言っていたように、何かしらの陰謀で催眠や洗脳がされているのだろうか。

 いや、それとも。


 それとも本当に、存在しない町が、存在しない『何か』が、そこにいるのだろうか。
 もしかして、私たちの大半が、それを認識できていないだけで。

 何かを撫でていたように膝の上に手を浮かせている女の子を見て、私は小さくため息をついた。



タイトル提供:@586さん
コンセプト:違うかと思ったら違わない。認識の違い。レイヤーワールド
(初出:2015/4/2 マサラのポケモン図書館)






+++僕は緋に燃える+++



 トレーナーとして旅をしようと故郷を飛び出して、3つ、驚いたことがある。

 ひとつは、ポケモントレーナーの、特に若年層への待遇が格段にいいこと。
 ふたつめに、先の戦争での新型爆弾が投下された日付も時間も知らない人が多いこと。

 そして最後に、野球が遠い存在であること。



 深夜だというのに、今夜のコンビニは妙に繁盛している。
 僕は客が抱えてきたおにぎりやらサンドイッチやらのバーコードを読み取り、728円です、と告げる。見るからに10代半ばの少女は、赤い長財布から1000円札と硬貨4枚と緑色のポイントカードを取り出した。
 280円のお返しです、とレシートとお釣りを渡す。受け取る左手の手首には最新型のポケナビ。白と桃色のボディにきらきらとしたラインストーンをちりばめてある。
 はて、どこかで見たことあるような。そう思いながらありがとうございましたーまたお越しくださいませーと言うと、この時間に出歩くのはいかがかと思われる年頃の少女は僕に軽く頭を下げてコンビニを後にした。
 少女に続いて、コンビニにたむろしていた人たちがぞろぞろと外へ向かう。何だ、妙に人が多いと思ったらあの子を追いかけてたのか。集団ストーカー事件か? とかぼんやり考えていると、コンビニを出たところで少女の周りには人だかりができ、みんな油性ペンやら何やらを少女に差し出している。
 あ、思い出した。あの子、この前あったバトルの大会で優勝した子だ。ああなるほど、どうりであのポケナビ見覚えがあると思った。こんな時間に女の子ひとりで外に出るなんて危ないと思ったけど、あの子の腰につけてるボールにはちゃんとした護衛がいるわけだ。
 なるほどなるほど、と心の中で納得しながらレジを打っていると、財布の中を漁っていた客が店の外の女の子と僕の顔を交互に見て言ってきた。

「あの、お兄さん、もしかしてこの前の大会であの人と3回戦で当たった人ですか?」

 僕は小さく咳払いして、まあ一応、と小声で言った。


 バイトを上がって、陽が昇り始めている人通りの少ない道をだらだらと歩く。
 ポケットからスマホを取り出すと、メールが1通届いていた。差出人は母親。ため息をつきながら開くと、いつもと同じような文面が目に入った。
 いつまで遊んでいるのか。早く帰ってきてまともな職につきなさい。ポケモンを扱いたいならトレーナーなんかじゃなくてもいいだろう――
 僕はもう1度ため息をついて、メールをゴミ箱へ投げ入れた。

 ここカントーやジョウトと違って、僕の故郷ではトレーナーに対する風当たりが強い。
 戦後、カントーやジョウトが先陣を切って職業トレーナーの育成と発展に大いに力を入れ、世界的にも有名なトレーナーを何人も輩出してきた。その一方で僕の故郷ではトレーナー制度の普及が遅れ、その結果今でもトレーナーとして旅に出る人数は他地方と比べて圧倒的に少ないし、実力あるトレーナーもほとんど登場していない。かれこれ15年続いている、他の地域では大人気の、ピカチュウを連れた少年トレーナーが主人公のドラマも、僕の故郷では周遅れどころかゴールデンタイムですらなく、早朝6時とか夕方4時半とか、完全に見せる気の無い時間帯にしか放送していない。特に年配の世代では、職業トレーナーなんて無職の遊び人と同じ、情けない、くだらない、駄目な奴がなるものだ、と思いこんでいる人が未だに多い。
 そうは言っても世間の流れには逆らえないもので、特に刺激に飢えている若者なんかの間では、徐々にトレーナーを目指す者も増えている。僕もその中のひとりで、18で高校を卒業してすぐ、親の猛反対を押し切ってトレーナーとして故郷を飛び出した。

 あれからもう7年。気がつけば僕は25で、圧倒的に若者の多いこの地方のトレーナーの中では年上に分類されるようになってしまった。
 職業トレーナーの収入と言うのは基本的にバトルしかなく、大会に出て入賞したり、トレーナー双方合意の下で賭けバトルをしたり、そうやって賞金を稼いでいかなければならない。幸いなことにこの地方のトレーナー支援は手厚く、旅をしていれば食事も宿泊もポケモンの治療費も基本的には無料だ。
 しかしそれでも、淘汰は激しい。強いものは賞金を手に入れ、世間に注目され、スポンサーもついて、何不自由なくバトルに専念できる。勝てない者は収入がなく、収入がなければバトルのための道具や薬も買えず、また負ける、という悪循環。バトル1本でやっていけない者は兼業トレーナーとなるか、他の収入を求めてバイトでもするか、いっそすっぱり諦めるしかない。
 言うまでもなく、僕もバトルだけではやっていけないひとりだ。戦績は決して悪いわけではない。全ての勝負の勝率を出せば7割は超える。ただ、僕の特性は「ムラっけ」らしく、どうも安定した結果を出せない。結果収入も安定せず、生活のためにコンビニでバイトしている。

 親の考えや物言いは古臭いし、いらっとする。でも正直なところ、このままでいいのかなあ、と考えているのも事実だ。
 だって、もう25である。この地方でトレーナーを辞める人数が、続ける人数を上回るのが22歳だ。僕が旅に出た時にはもうこっちの地方の同年代の子は辞めるか辞めないかを考えていた。高校の同期だった人たちの大半はとっくに大学を卒業して、大学院も卒業して、一般企業でバリバリ働いている。
 そんな中で、勝率7割程度の低収入バトルを繰り返し、だらだらと生活を続けている。テレビを見れば僕よりずっと年下のトレーナーたちが、派手なバトルを繰り広げては喝采を浴びている。
 いっそ、親の言う通りすっぱりやめて故郷に帰ればいいのかもしれない。でも、もう後戻りすら難しい年齢に差し掛かっている。今更戻れないという妙な意地と、自分はまだやれるんだという盲目的な思い込み。
 二進も三進もいかず、今日も長期滞在中のポケモンセンターで直近の小さな大会を探す日々だ。



 数週間後に開催される小さな大会の申し込み手続きをし、日が暮れはじめたタマムシの町をあてもなくぶらぶらと歩いていた。
 今日はバイトも休み。明日は夜10時から朝の7時。バトルの申し込みもないし、かといって他にやることもない。
 さてこれからどうしようか、と顔を上げた時、僕の目に見覚えのある、懐かしいものが見えた。

 真っ赤に燃える炎の色を身にまとった集団。
 コンクリート色の都会に輝く、緋色のユニフォーム。

 野球だ。僕の故郷の、赤の球団だ。


 思わずその集団を追いかけていくと、深緑と橙の外壁の球場へたどり着いた。タマムシを保護地域とする、スウェロー……オオスバメを象徴とする球団の本拠地だ。
 白地に紺と赤のラインが入ったユニフォームに、同じくらいの人数の緋色のユニフォームが混ざり込んでいる。
 チケット売り場へ向かうと、外野自由席がまだ残っていた。購入して、レフト側外野席へ向かう。

 スタジアムの中は、半分が緋色に染まっていた。適当な席を確保し、グラウンドに目を向ける。
 グラウンドではビジターチームの練習が行われていた。緋色のユニフォームと帽子を身にまとった選手たちが準備を進めている。僕の故郷の球団。マジカープ……コイキングを象徴とする、スカーレットの球団。


 『野球』というものがマイナーな競技になって、もうずいぶん経つ。
 一昔前までは、スポーツと言えば野球、という風潮があった。僕がまだほんの子供だった頃まではそうだったと記憶している。
 しかしここ数年、趣味の多様化、特にポケモンバトルやポケモンを交えた競技の普及によって、野球の人気は一気に落ちた。決定打となったのが、20年ほど前にイッシュ地方から入ってきた、ポケモンと共に行うベースボール、通称ポ球だ。流入当初はポケモンの「P」と「YAKYU」をくっつけて「ピャキュー」などと呼ぼうとする運動が起こった気がするが、結局そちらは定着せず、「ポケモン野球」を略して「ポ球」と呼ばれている。
 ポ球では事前に登録されているポケモンの中から6匹まで、メンバーの中に入れることができる。選手以外にもあちこちでポケモンが活躍し、観客席への持ち込みも一部を除き基本的に自由だ。ポケモンが行う競技はさすがにダイナミックで、剛速球を投げるカイリキー、場外ホームランになってもおかしくない当たりをキャッチするピジョット、イニング間にチアリーダーとダンスをするピッピとプリンの群れなど、見ていて楽しいことは間違いない。
 一方、野球はそれと相対する存在となっている。グラウンドへのポケモンの持ち込みは基本的に一切禁止、客席でもボール外での携帯禁止、マスコットですらポケモンに模した姿をしていても、中に人……いや、夢と希望が詰まった着ぐるみでなければならない。
 ある意味徹底的にポケモンの存在を排除した世界に、特にトレーナー世代では反発を覚える人がいるのも無理はない。テレビでの中継はほとんどなくなり、球場へ足を運ぶ人も激減。最近では野球を見るのは頑固者とポケモン嫌いとひねくれ者くらい、なんて悪意のこもった冗談を言われるくらいだ。

 しかしながら、僕の故郷では少々事情が異なった。
 元々職業トレーナーの普及率が低く、ショービジネスとしてのポケモンに反発を覚える人が一定層いるのもあるが、それ以上に、あの地域では昔から『野球』というものが、スポーツの枠を超えた生活の一部として根付いているのだ。
 町を歩けばチームカラーの緋色が目に入る。あらゆるものにチームの名を冠し、テレビでは朝から晩まで野球の話、そこらを歩く小学生や女子高生ですら休み時間に野球の話で盛り上がる、そんな場所だ。
 何と言うか、好きとか嫌いとか興味あるとかないとかそういう次元をとうに超えた、DNAに刻み込まれた魂の一部みたいなものである。割と冗談ではなく。

 野球を見るのなんて何年振りだろう、と思いながらその様子を見回していると、外野のセンター付近、グラウンドの一番端で、投手陣が集まってアップをしているのが見えた。その集団からひとり、早々に準備を切り上げて、ベンチへ下がっていく選手がいた。その背番号を認識し、僕は驚きと嬉しさと高揚感がごちゃまぜになった不思議な感覚を覚え、思わず笑顔になった。
 彼は僕が学生時代、まだ故郷にいた頃、一番応援していた選手だった。

 僕がもうすぐ高校に入学するというころ、彼は大学を卒業すると共にドラフト1位で入団した。彼と僕の出身地が割と近くて最初の興味を持った。
 次に僕が興味を持ったのは、彼が最近では珍しい進学校に通っていたことだった。職業トレーナーの普及に伴って、大学以上の高等教育を受ける人口は減り続けている。学力が重要視されなくなってきた世の中、彼の通う高校はポケモンバトルや育成に関する教育をほとんど行わないことで有名だった。大学での専攻も、ポケモンに全く関わりのないことだった。
 高校、大学と名を上げた選手というわけではなく、スカウトの人があちこちを歩きまわって見つけた逸材ということだった。本人もドラフト1位指名は予想外だったようで、群がる記者の質問にわたわたしながら答えていたのを今でも覚えている。
 ルーキーイヤーは開幕早々に先発投手のローテーション入りを果たしたが、夏前にリリーフに転向。後半戦からはメインのクローザーとして順調に登板を重ねた。重い速球と恐ろしいほど曲がる変化球が持ち味の、力で押して空振り三振を取るタイプのピッチャーだった。
 ただ、僕が故郷を飛び出して頃から少しずつ成績を落としていたらしく、ここ数年は故障もあって1軍に上がらない日々が続いていた、はずだ。はずだ、というのは、故郷を出て以来僕は全くと言っていいほど野球というものの情報を入れていなかったからだ。野球が必要以上に根付いている僕の故郷と違い、最近の世の中はポケモンが絡まないと認められない人が多いらしい。生活の中に入り込んでいた故郷と違い、こっちでは探さないと出てこない。夜のニュースのスポーツコーナーの片隅にほんの少しだけ出てくる情報を、時々眺める程度にとどまっていた。

 試合は結局、僕が応援していた選手が登板することはなく、相手チームの打線が大爆発を起こし、こちらはもう笑いしか起こらないくらいひどい大敗を喫した。それでも緋色のユニフォームを纏った集団は、最後までわいわいと熱く盛り上がっていた。ここだけ見れば、野球が世間的には斜陽なんて本当なのかな、と思えるほどだった。
 その夜、僕はポケモンセンターに戻り、球団のホームページから、あの選手の背番号のユニフォームの通販を申し込んだ。



 赤い球団がカントー地方へ来る時、緋色のユニフォームを纏って、タマムシやヤマブキの球場を巡る日々が続いた。昼間はトレーナーとしてポケモンバトル、夜は野球観戦、試合のない日はコンビニでバイト、というのが僕の生活パターンになった。
 僕が同じ背番号を背負ったあの投手も、何度か登板した。彼は今もっぱらセットアッパー、中継ぎ投手として活躍していて、僕が見ていた試合では今のところ好投を続けている。
 ただ、彼が登板する度、球場がざわめいて、時には口汚いヤジも飛ぶ。理由は僕もわかっている。
 彼は少々、僕と同じ、特性「ムラっけ」のある投手なのだ。最終的には抑えても、その前にランナーを出すことが多い。失点することもある。それ故に、彼は「試合を壊す」だの「胃薬必須」だのとなじられることが多いのだ。
 しかし、投手というのは損な役回りだと常々思う。バッターは3割打てば一流と呼ばれて賞賛される。ピッチャーは7割抑えても詰られる。プロの勝負の世界だ。勝った負けたもあるだろう。それなのに、味方のはずのファンに罵倒されるのはどういうことか。
 彼のユニフォームを纏って球場に来る度、試合の流れとは関係のないモヤモヤが僕の中に漂うのだった。


 それにしても、僕がしばらく野球を見ていなかった間に、彼の投球スタイルが随分変わった気がする。ケガから復帰して以来、球威で押すより変化球を多く使った軟投派に変わったようだ。
 その辺りを確認してみようと、ウェブ百科事典の彼の項目に目を通してみる。便利な世の中になったものだと思う。怖いところもあるが。
 経歴の項目をたどっていると、ある言葉が僕の目に飛び込んできた。

 『特別児童養護施設 もみじの樹』。

 特別、と濁して書いてあるが、この施設に入る子供の境遇はみんな同じ。
 『携帯獣関係特別児童養護施設』、通称『特携』。
 ここにいる子たちはみんな、親がトレーナーとして旅立ち、取り残された子供たちだ。

 職業トレーナーとして旅立つ若者が増えたことで、様々な社会問題が浮上してきた。その中のひとつに、家庭を持ったトレーナーが、家を棄てて旅に戻るというものだった。
 旅のトレーナーがその先で恋人を作り、再びどこかへ行く場合。行きずりの関係で子供が出来て、誰の子とも言いだせず育てるのを放棄した場合。両親ともに旅のトレーナーだったのが、子供を棄てて再び旅に出る場合。いくつパターンはあるが、いずれにせよ旅に子供は邪魔だから、と棄てられる子が後を絶たない。特携はそうやって棄てられた子たちが集められる。
 特携が出来た理由としては、トレーナーの親に捨てられた子たちにポケモンを忌み嫌う子供が大勢いたからだ。まあそりゃ当然だとは思う。政府としてはトレーナー産業を推奨したい、しかし現状ではトレーナーのあり方を批判されかねない。だからそういう子たちを収容して世間的には保護してますよとアピールしつつ、ポケモンやトレーナーがトラウマになっている子を何とかしよう、という感じだ。実際のところ、その活動が上手くいっているとは僕は思えないけれども。

 なるほど、と僕は思った。彼がポケモン関係の授業がほとんどない進学校を選んだのも、ポ球ではなくポケモンが関わらない野球を選んだのも。
 彼はポケモンが嫌いなのだ。トレーナーが嫌いなのだ。だからポケモンから隔絶されている『野球』を選んだのだ。

 それに気付くと、僕は何ともいたたまれない気持ちで、胸が張り裂けそうになった。何とも言えない罪悪感のようなものが溢れてきた。
 僕はトレーナーだ。割といい年をした。自分が勝手に彼に親近感を持って応援していたけど、きっと彼は僕みたいな人間が、一番嫌いなのだろう。
 ファンになる資格など、僕にはないのかもしれない。

 ポケモンセンターの2段ベッドの柵に引っかけた、緋色のユニフォームを見ると、胸の奥がぎゅっと苦しくなり、じわりと涙が込み上げてきた。


 ポケモンバトルの方も、相変わらず勝率7割位を漂っていた。
 わかっている。ここからもうひと踏ん張りしてもっと勝率を伸ばさなければ、大会上位に進むのは難しい。大会はほとんどがトーナメント制。負けたらそこで終わりだ。「ムラっけ」が発動して1回戦で負けたりしたら、そこで終わり。それが続けば、もはやトレーナとしてはやっていけない。
 あの日深夜のコンビニで出会った女の子は、時折テレビの中継にも映っている。色々な大会で優勝している彼女は、今や立派なスターだ。勝率10割をキープし続けるのは、並大抵の努力ではないはずだ。
 一度はバトルフィールドを挟んで向かい合っていたのに、随分遠い存在に思えた。あの日、僕はコンビニのカウンターの中にいて、彼女は店の外でサインの要求に応えていた。あの時にはとっくに、僕と彼女の立ち位置は決まっていたのだろう。
 スマホで時間を確認する。もうすぐ夜明けのコンビニバイト。ため息が漏れるばかりだった。

 もういっそ、すっぱり諦めて、辞めてしまった方がいいのだろうか。
 応援も、トレーナーも、何もかも、全て。


「……ねえ、店員さん」

 突然客に話しかけられた。何だなんだと見てみると、ちょうど思い返していた、あの女の子がレジ前にいた。
 あ、すみませんいらっしゃいませ、と僕が慌てていると、彼女は笑顔で僕に言ってきた。

「ねえ、あなたも野球好きなの?」

 突然の質問に僕が面くらっていると、彼女は僕のスマホを指差した。正確に言うと、スマホにぶら下がっている、ヘルメットとユニフォームのミニチュアのストラップを指差した。

「そのストラップ、マジカープでしょ? カープファン?」
「あ、えっと、はい……」
「わー! こんなところで同志に会うなんて思ってなかった!」

 彼女はそう言うと、鞄から長財布を取り出し、僕に見せてきた。
 赤い革製の長財布。隅っこにしっかりと「Magikarp」の刻印が入っていた。


 ようやく空が白んできたくらいの時間帯、僕と彼女はポケモンセンターのロビーで向かい合って座っていた。彼女は有名人なので、部屋の隅の目立たない席だ。
 廃棄処分になるコンビニスイーツ(本当は持ち出しちゃいけないんだけど)と缶コーヒーで、早朝の茶会が始まった。

 彼女は以前僕と対戦した時のことを覚えていて、前に深夜のコンビニで客と店員として出会った時も相当驚いたらしい。まさか同じ球団のファンだとは思わなかったけど、と彼女は笑った。彼女はカントーの生まれで、僕の故郷とは縁もゆかりもないそうだ。だけど小さい頃、知り合いに連れられて野球場へ行き、それですっかりはまってしまったらしい。今も時折緋色のユニフォームを羽織って、球場に足を運ぶそうだ。
 意外だな、君みたいな子はみんなポ球の方が好きなんだと思ってた、と僕が言うと、彼女は困ったようにはにかんだ。

「ううん、私、バトルは観るのもやるのも大好きなんだけど、競技はいまいち、こう、ねぇ。まあ、好みの領域だけど。でも人と人のガチンコ勝負の方が私は面白いなあ。確かに地味だけど」

 なるほど、こういう好みの人もいるのか。実力のある若いトレーナーはみんな、何でもかんでもポケモンが混ざっていればいいのかと思ってた。
 誰のファンか、と聞かれたので、ユニフォームの選手を答えると、私も好き! と顔を輝かせて言った。

「私ね、ポ球より断然野球が好きになったの、あの選手の影響なの!」

 はて、と僕は首をひねった。知らないの? と彼女は驚いた表情を見せた。

「今から……7年前だっけ。私まだ8歳だったけど。あったじゃない、合併騒動」

 ああ、と僕は首を縦に振った。
 ちょうど僕が、故郷を飛び出した位の頃のことだ。

 野球は一度、消滅しそうになったことがある。

 イッシュ地方から入ってきたポ球は、あっという間にこの国の国民の心をつかみ、瞬く間に浸透した。ポ球は独自にポケモン・リーグ、通称「ポ・リーグ」(運営団体としては響きがイマイチという理由で「Pリーグ」という呼び方を浸透させたかったようだが、もはや定着している)を設立し、各地に球団を持つようになった。とあるデータによれば、ポ球の広がりにより、野球は観客動員が50パーセント以上減少、球界全体の経済損失は量り知れないという。球団によってはこれ以上の運営が困難となり、球団の譲渡や合併が巻き起こることとなった。
 そんな中持ち上がった話が、従来の『野球』リーグの廃止と、『ポ球』への路線変更。全ての球団でポケモンを用いるという、『リーグ一本化』である。
 この案が成立すれば、人間だけで行われる「野球」は事実上消滅。そしておそらく、二度と復活することはない。そんな状況に、本当にあともう1歩のところでなるところだった。

 そんな中、反対の声を上げたのが、野球を愛するファンと選手会である。
 合併を強行しようとする野球機構に対し、選手会長を筆頭に、抗い、話し合い、激しいバトルを繰り広げた。機構のお偉方に毅然として立ち向かっていた選手会長の姿は、僕も覚えている。
 結果として合併は起こらず、「野球」と「ポ球」はそれぞれ独立して存在することとなり、その象徴のように野球からはポケモン要素が締め出され、今に至る。

「でもね、ファンの中にも、選手の中にも、ポ・リーグへの合併やむなしって声もあったのね。そりゃそうよね、だって収入がなかったら自分たちの年俸もなくなるし、観客が来ないのは辛いもの。そうしたら選手が離れて、レベルが下がる。レベルが下がると面白くなくなるから、観客がますます来なくなる。そうやって、ゆっくり死んでいくだろう、って」

 だけどね、と彼女は目を輝かせた。

「そんな時にみんなの心をひとつにしたのが、あの選手の言葉だったの!」

 そんなことあったっけ、と僕は眉を寄せた。何せ騒動があった時、僕はちょうど野球から離れつつある頃だった。だから騒動の概要は知っていても、詳しいことは知らない。というか、どうしてそこであの選手が出てくるんだ。そう思っていると、あの時選手会だったんだよ、と言われた。なるほど。
 とにかく、ぐだぐだ説明するより見ればいいよ、とタブレットを操作し始めたが、その途端、あ、と彼女の表情が固まった。

「ごめん、今日朝からテレビに呼ばれてたんだった……。本当ごめん、今すぐ行かなきゃ」

 用事が終わったらURL送るから、夜になるけど、と彼女は僕の連絡先を強奪し、ポケモンセンターの外へ走って行った。
 今夜ナイターあるけどそれまでに間に合うのかな、あの子も今夜野球観るのかな、などと僕は思いつつ、夜までしばらく睡眠をとることにした。



 6時になって試合が始まっても、彼女から連絡は来なかった。僕は一応スマホと一緒にイヤホンを持ち、球場の緋色の集団に紛れ込んだ。
 今夜は先発投手が初回に早々ソロホームランを打たれ、1点ビハインドのまま淡々と試合が進んだ。お互いまともなヒットもなく、試合運びは割とサクサクしている。いや、サクサクしてたら困るんだけど。こっち負けてるし。
 4回表のこちらの攻撃、1アウトになった頃、スマホにメールが届いた。URLからして動画らしい。選手会が合併反対を訴えて作ったサイトに掲載されていた、とメモ書きがあった。僕は応援に盛り上がるスタンドをそっと抜け出して、動画の再生ボタンを押した。


 それはインタビューの動画だった。動画の中ではあの選手が、ポ・リーグとの合併についてどう思うか、野球選手としてどう考えているか、などを話していた。
 その時、インタビュアーが尋ねた。

「あなたは『特携』の出身で、高校や大学でもポケモンと触れ合わない生活をしていたようだが、それが合併反対に影響を与えることはあるか?」

 と。つまり、「お前はポケモンとトレーナーが嫌いだから合併したくないんだろう?」と遠まわしに言っているのだ。
 すると彼は、困ったように笑い、そして穏やかな顔でこう言った。

「確かに、僕はトレーナーだった両親に捨てられました。それは今でも、僕にとっては悲しい思い出です」
「でも、それは必ずしも、マイナスの側面だけではありません。僕は人より少しだけポケモンから距離を置いて生きてきて、この世界におけるポケモンの影響力を見てきたつもりです。ポケモンが与えるいい影響も、悪い影響も、出来るだけ冷静に、見てきたつもりです」

「まず言っておきますが、僕はトレーナーやポケモンが嫌いなわけじゃありません。悲しい思いはしましたが、それとこれとは違う話です」
「学生時代は、確かにポケモンやトレーナーから出来る限り距離を置きたいと思っていました。だけど時が経って、色々と見て、学んでいくうちに、考え方も変化していきました」
「現状のトレーナー制度には、問題があるとは個人的に思います。僕みたいな子供を減らす努力はしなければいけません。でも、それと僕がポケモンやトレーナーを憎むのは、違う問題だと思ったんです」

「ポ球は何度も観ました。参加させてもらったこともあります。素晴らしいスポーツだと思います。人間だけでは決して出来ない、ダイナミックなプレーは大きな魅力です」
「だけれども、僕は、野球は決してそれに負けない、強い力を持っていると思います」
「僕は人間です。野球をやっているのも、僕と同じ人間です。人がやることだからこそ、僕は心が動かされたんだと思います」

「人に影響を一番与えるのは、人だ、と僕は思っています」

「子供の頃、野球選手を見て、僕は生きる力、みたいなものをもらいました。それは派手な動きとか、神業的なプレーによるものではなかったと思います。でも、野球選手は僕にとって『ヒーロー』でした」
「野球選手になった今、今度は逆に、野球を愛してくれるたくさんの人から、僕は力をもらいました。今度は僕が、皆さんに力を与えられたら、と思っています」
「だから、僕は野球が消滅してしまうことに反対です。この競技がいいんです。この競技でなければいけないんです」

 そして彼は歯を見せて笑い、こう言った。

「野球は僕の、魂の一部なんです」


 動画が終わった。
 僕は大きく深呼吸をして、涙が溢れそうになるのをぐっとこらえた。

 赦されたような気がした。自分が勝手に罪悪感を持って、勝手に憂鬱になっていただけなのに。
 ファンである資格がないと思い込んでいたのは、自分だけだった。
 彼はいつでも、球場で待っていてくれたのに。

 もう1回深呼吸をすると、ちょうど4回裏が始まるところだった。僕はスマホをポケットにしまい、スタンドに戻った。


 ここまで1失点ながら好投していた先発投手だったが、4回に入って突然制球が乱れ始めた。
 フォアボールを連発し、1、2塁が埋まる。捕手とコーチがマウンドに向かい、内野手も交えて話し合いをしているようだった。レフトスタンドの緋色の集団はざわざわと不安そうにざわめき、ライトスタンドからはチャンステーマが高らかと鳴り響く。
 選手たちが定位置に戻り、ピッチャーが3人目のバッターに1球目を投げた、その時だった。

 打ち返された速球が、投手の頭に直撃した。

 ピッチャーが頭を押さえてその場に崩れ落ちた。スタンドから悲鳴が上がる。すぐにタイムがかけられ、緋色の選手たちがマウンドに集まった。
 しばらくの後、投手はふらふらと立ち上がった。スタジアム全体から安堵の声が漏れた。しかし外野席から見ても、その様子は万全とは思えなかった。
 監督が球審の元へ駆け寄り、何かを話しあっていた。そのすぐ後、投手は控え選手に背負われ、ベンチへ戻って行った。

 緊急登板(スクランブル)だ。レフトスタンドが異様なざわめきに包まれた。
 マウンドへ走ってきたのは、僕が羽織っているのと同じ背番号を背負った、あの投手だった。


 こぼれ落ちたボールをいつの間にか投手のすぐ横まで移動していた2塁手が拾って処理していたことで失点はしなかったが、無死満塁。
 レフトスタンドが、これまでとまた違うざわめきに包まれる。今日の相手投手はいい。これ以上点を与えるわけにはいかない。「ムラっけ」のピッチャー、ましてや緊急登板。十分な準備は出来ていないはずだ。大丈夫か? という雰囲気が緋色の集団に蔓延していた。
 マウンドでは投球練習が始まっている。ごくり、と息をのむ雰囲気がスタンドを覆っている。


「……れ……、頑張れ! 頑張れーっ!!」


 気がつくと僕は、立ち上がって声を張り上げていた。周りの視線が僕と、僕が来ているユニフォームに向けられる。
 呆気に取られていた周りの人たちが、つられて声を出す。応援団が太鼓を叩く。やがてレフトスタンド全体から、頑張れ、頑張れ、の大合唱が始まった。


 試合が再開された。あちらの攻撃の間、僕たちはじっと見守ることしかできない。何となく重苦しい空気が漂っている。
 1人目、外角高めのストレートを見逃してストライク。2球目、3球目は内角へのスライダー。4球目をバットの先で何とか引っかけたが、投手のすぐ目の前へのゴロとなり、ホームへ送って1アウトとなった。
 レフトスタンドからほっとした息があちこちから漏れ聞こえた。しかし2人目のバッターがバッターボックスへ立つと、再びぴりぴりとした空気に支配された。

 2人目は初球から振ってきた。2球目がやや甘く入ったところを、狙って打たれた。しかし2塁手が素早く飛び付いてダイレクトキャッチし、即座に他の内野手へボールを送って牽制することで、ランナーを進ませなかった。
 これで2アウト。スタンドがざわめく。これまでの不穏なざわめきの中に、明らかに高揚が混ざっていた。

 3人目。1球目、2球目を見送られ、3球目をファール。4球目の外角低めの真っ直ぐを再びファール。5球目のスライダーはわずかに外れてボール。6球目もまたファール。
 投手は帽子を取り、ユニフォームの袖で額の汗をぬぐった。ライトスタンドからはバッターへの声援が飛び交い、レフトスタンドはじっと黙って投手の一挙手一投足に注目していた。

 7球目。
 振りかぶって投げられた球は、バッターの正面に飛んできた。
 狙い澄ましたバットがボールを叩かんとしたまさにその瞬間、ボールは急にがくっと軌道を変えて落ち、ワンバウンドしてキャッチャーのミットに収まった。
 バットが空を切った。空振り、三振。3アウト。


 レフトスタンドが総立ちになった。歓喜の声がスタジアムを包んだ。
 僕も声にならない歓声を上げてガッツポーズをした。何が何だか分からなくなって、今までずっと堪えていた涙がボロボロと零れおちた。
 周囲の人たちが、おう兄ちゃん良かったな、最高だったな、と言って、カンフーバットで僕のユニフォームの背番号をバンバン叩いた。


 試合は7回表、期待の若手の今シーズン第1号逆転2ランホームランによって、見事逆転勝ちを収めた。ヒーローインタビューに呼ばれたスラッガーは、若さあふれる輝きで満ち溢れていた。落ち着いて考えたら僕より5つ以上年下だ。うわあ。考えたくない。
 レフトスタンドは試合が終わってからもしばらく、楽しく歌って勝利の余韻を噛みしめていた。
 グラウンドの端を、緋色のユニフォームを着た選手たちが荷物を抱えて歩いて行った。僕がそれを見ていると、緋色のユニフォームの集団に混ざっていたあの投手と一瞬目があった、ような気がした。

 『人に影響を一番与えるのは、人だ、と僕は思っています』。

 勝ちもつかない、ホールドもつかない、ヒーローインタビューにも呼ばれないし、おそらく夜のスポーツニュースのハイライトでもカットされることだろう。
 それでも今日の彼は、緋色のユニフォームを纏った彼は、僕にとってこれ以上ない、魂を燃やしてくれる『ヒーロー』だった。


 スマホがメールの着信を告げた。あの女の子からメールが届いていた。嬉しそうにはしゃぐ本文に、バックネット裏で撮ったと思しき写真が添付されていた。
 僕はバックネットの方をちらりと見てふっと笑い、メールを返した。



『また、どこかの大会か、球場で』



タイトル提供:@croy_354さん
コンセプト:ポケモン至上主義の世界。トレーナーの在り方。さあ、野球だ野球だ
(初出:2015/4/2 マサラのポケモン図書館)






+++Weather Report+++



 今日も1日、じとじととしたお天気でしょう、とアナウンサーが言った。

 ここ数日、ずっと雨が続いている。外に出たくないけれども、あいにく冷蔵庫の中は空だ。そろそろ買い物に行かなければ、天候が回復するより前に僕が干上がってしまう。
 気が向かないけれども、近くのスーパーまで行くこととしよう。
 僕が立ち上がると、出かける気配を察知したのか、ポワルンが寄ってきた。連日雨なので、雫型になっている。
 ビニール傘を手に、僕は外に出た。


 数日部屋に引きこもることを考え、少し多めに食料を買い込んだ。
 半透明のビニール袋を片手に人通りの少ない細い道を歩いていると、ポワルンが何かに気が付き、僕の背後に隠れてしまった。

 どうしたんだろう、と思って前を見てみると、見通しの悪い交差点のカーブミラーの下に、小さな女の子が立っていた。
 青いレインコートを着た、小学生くらいの子だ。その姿に気がついて、僕はあ、と小さく声を上げた。

 僕の声に気がついたのか、女の子がこっちを向いた。

「ねえ、私のポケモン、知らない?」

 無視無視、関わらない。そう思って通り過ぎようとしたら、女の子は僕の影に隠れていたポワルンを見つけて声を上げた。

「この子かわいい! 雨みたい!」

 そう言って、女の子はポワルンに抱きつこうとした。ポワルンは怯えて飛びまわっている。
 やれやれしょうがないな、と僕はため息交じりに女の子に話しかけた。

「あのさ、この子、人見知りなんだ。あんまり構わないでやってもらえるかな」

 女の子ははっとした顔をして、ごめんなさい、と謝ってきた。僕が胸に抱くと、ポワルンはほっとした様子を見せた。
 それじゃあ、とその場を去ろうとすると、お兄ちゃん、と女の子が泣きそうな声で言ってきた。

「触らないから、また会いにきてくれない?」

 空を見上げた。雨はまだまだ止みそうにない。
 僕はまたため息をついて、いいよ、言った。女の子は嬉しそうに声を上げた。


 女の子の姿が、雨煙に消えた。
 僕は腕の中のポワルンを撫でで、怖い思いさせてごめんね、と言った。

 ちらと姿を見た時から、こちらの世界の子じゃないとわかっていた。
 無視して関わらないのが1番なんだけど、ポワルンが捕まったんじゃあしょうがない。

 さて、と。これからどうするかね。


 インターネットの検索サイトの予報は、今日も雨だった。

「路地の交差点、ですか? あの狭くて見通し悪いところですよね?」

 次の日、研究室の後輩に、例の子に会った交差点で事故か何かあったことを知らないか聞いてみた。後輩はしばらく考えた後、そういえば、と白いノートパソコンを開いた。

「結構前に、あの辺で事故があった気がしますねえ。新聞で見たような……えーっと……確か次の日にあのレポートの〆切だったから……あった、これだ」

 後輩はニュースサイトのバックナンバーを開き、目的の記事を表示した。よくまあそんなことで日付を覚えていたてるもんだ。
 雨の日の見通しの悪い交差点で、8歳の女の子がはねられて死亡。女の子は行方がわからなくなっていた自分のポケモンを探していた……そんな内容だ。
 事故現場が大学のすぐ近くだから印象に残ってたんですよねー、と後輩は言った。

「あ、先輩、何か面白い話のネタですか? 教えてくださいよ」
「やだよ。面白くもないし」

 雨の日。ポケモン。僕は腰のボールに入れたポワルンを見た。


 携帯ラジオの天気予報は、今日も1日ぐずついたお天気でしょう、だった。
 空模様はぐずついた、どころではなく、正直外に出るのも嫌になるくらいの土砂降りだった。

 例の交差点に行くと、青いレインコートを着た女の子がガードミラーの下に立っていた。
 お兄ちゃん、来てくれたんだ! と嬉しそうにはしゃいでいるその子に、僕はしゃがんで目線を合わせてから尋ねた。

「君がここにいるのは、雨の日だけかな?」

 女の子は僕の言葉の意味に気がついて、悲しそうな顔になった。そう、雨の日だけ、と小さな声でいい、うつむいた。

「いなくなっちゃったの、いーちゃん。わたしがちょっと目を離したすきに、いなくなっちゃったの。私ずっと探してて、でも見つからなくって……」

 女の子の声はどんどん涙交じりになっていく。
 ねえ、と女の子は僕の袖をつかむように手を動かして、言った。

「いーちゃんに会いたい。お願いお兄ちゃん、いーちゃんを探して」

 そう言い残して、女の子はまた消えてしまった。
 何かわかった? とボールの中のポワルンに聞くと、ポワルンは女の子がいた辺りを見てうなずいた。


 ポワルンは雫型を示していた。

 僕は途中にある小さな花屋で切り花を数本買い、例の交差点へ向かった。
 交差点では今日も、女の子が待っていた。ポワルンがさっと、僕の後ろに隠れた。

「お兄ちゃん! いーちゃん、見つかった?」

 一応ね、と僕は答えた。女の子は飛び上がって喜んだ。
 どこ? どこ? ときょろきょろする女の子にちょっと待って、と声をかけて、僕は後ろに引っ込んだポワルンを呼んだ。ポワルンはまだちょっと怯えた様子で、怖々と前へ出てきた。

「しずくくん、『にほんばれ』」

 僕がポワルンに命じると、雫型のポワルンの姿が、赤い太陽に変わる。
 ポワルンは自分の周りの雨を止ませ、女の子のすぐ近くの、畳半畳ぶんくらいのスペースだけ雨を止ませ、日差しを強くした。

 雨が止み、水が消えた場所に、水色のポケモンが現れた。
 首周りを覆うひれと、魚のような尻尾。
 1匹のシャワーズが、女の子のすぐ隣に座り込んでいた。

 その首元に色褪せた赤いリボンが巻きついていることに気がついた女の子が、震える声で、いーちゃん? と声をかけた。シャワーズは、きゅう、と弱々しく声を上げた。
 いーちゃん! と叫んで、女の子はシャワーズを抱きしめた。

 元イーブイだったシャワーズは、ずっと女の子のそばにいた。おそらくあの日、事故に会ったその時から、今までずっと。
 でも、見えなかった。雨に溶けてしまったからだ。
 雨の日しかいられない女の子には、どうしても見えなかったんだ。

「いーちゃん、ごめんね……ずっと、そばにいてくれたのに……気付かなくって、ごめんね……」

 シャワーズはきゅう、きゅうと、弱々しいながらも嬉しそうな声を上げた。
 女の子は僕の方を向いて、お兄ちゃんありがとう、と言うと、とても穏やかな表情で、泡のように消えてしまった。
 もう、ここに現れることはないだろう。僕は局地的な晴天の中にいるシャワーズに声をかけた。

「君は、どうする? 僕と一緒に来る?」

 僕がそう尋ねると、シャワーズは首を横に振った。
 痩せて弱ったシャワーズは、よろよろと立ち上がると、ポワルンが作り出した晴れから飛び出し、雨の中に消えてしまった。


 僕はカーブミラーの足元に、持ってきた花を置いた。
 しばらく手を合わせてから、イヤホンを耳に入れた。空模様はこれから回復する見込みです、という女性キャスターの声が聞こえた。
 携帯ラジオからはバードランド、だったかな。あまり僕の気分にはそぐわない、軽快なジャズが流れていた。



タイトル提供:@mt_rkさん
コンセプト:雨が降る時だけ会える女の子。側にいるけど気付かない
(初出:2015/4/2 マサラのポケモン図書館)








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