「こらぁタキモト! 校則違反だって何回言えばわかるんだ!」

 廊下の後ろから小うるさい生活指導が大声を張り上げる。
 全く、毎日毎日。今時ピアスとネックレスと脱色くらいでぎゃーぎゃー言ってんじゃねぇよ。

「チッ……うるせぇ教師だぜ」
「ウルセェキョウシダゼ!」

 聞こえないように言ったつぶやきを、オレの肩に止まっている相棒が大声で繰り返した。




+++Bass−Line・Muse+++




「よぉアラタ! 今日も不機嫌そうな顔だな!」
「大きなお世話っすよ、カラスマ先輩」

 4月に入部して以来、部室に行くといつも先輩にこう言われる。そりゃ毎日毎日服装だの装飾品だの髪の毛だのぐちぐち言われりゃ不機嫌にもなる。オレが部室に来た時の恒例行事だ。
 狭い部屋の中を見渡しても、先輩以外の人影はない。他の連中はまたサボりっすか、と聞くと、先輩はまぁいつものことだな、と言って笑った。

「真面目なのはアラタだけだよなー。生活態度は最悪だけどなー」
「サイアクダケドナー」
「……ミューズ、お前ちょっとこっち来い」

 オレの肩に止まっていた相棒……ペラップのミューズはケタケタと笑いながら先輩の肩に止まった。いやーんタキモト怖ーい、イヤーンタキモトコワーイ、と1人と1匹がおどけて言った。
 まあ、これもいつもの光景だ。3か月もすればもう慣れる。
 オレは教科書なんか1冊も入ってないカバンを壁際に放り投げ、背負ってきたソフトケースを静かに床に下ろした。ファスナーを開け、そっと中身を取り出す。
 真っ赤なボディ。4本の鋼の弦。オレの宝物のエレキベースだ。

 マイクとチューナーを取り付け、丹念にチューニングをする。いつも騒がしいミューズもこの時だけは静かになる。
 ただし、両手にスティックを持った目の前の男は別だ。

「なーなーアラタ、今度の日曜ヒマか?」
「先輩、チューニングの間は静かにしててくださいって言ったじゃないっすか」
「いいじゃねーか、どうせ他の奴いないんだし、多少チューニング狂ってても。いくらお前がプロになりたいからって言ってもなぁ。ドラムとベースだけじゃまともにセッションも出来ねぇだろ。まぁオレはギターも出来るには出来るけど」
「そう言って合わせないでいるとどんどん合わなくなってくるんすよ。先輩だって学校来る前は髪の毛セットしなきゃ気持ち悪いじゃないっすか」
「いや、これナチュラルヘアだけど。お前の髪は人工の白だけどさ」

 この人は朝起きた時からオールバックなのか。


「……で、日曜日が何なんすか?」
「いやー、みっちゃんがさー、『今度の日曜日に演奏会やるから、リョウちゃんも聴きに来て!』ってチケット2枚くれたからさー、お前もどうかなーと思って」
「みっちゃん……ああ、先輩の彼女っすか。何部でしたっけ?」
「んー? ほら、吹奏楽だよ吹奏楽。パーカッション(打楽器)やっててさー、鍵盤とか叩いてる姿がもう超かわいいんだってー!」
「吹奏……楽……」

 オレはカバンを放り投げた壁を見た。
 吹奏楽は、オレたち軽音部の隣に部室を構える、この学校の文化系で一番規模のでかい部だ。

「ん? どした?」
「いや……オレは……」
「タキモト、スイソウガク、キライ!」

 先輩の肩に止まったミューズが、オレが言い渋ったことを大声で言った。
 へー、と先輩は面白がるような顔をしてオレを見た。全く、あのおしゃべりめ。

「何、お前アレか? クラシックみたいなお固い音楽は嫌とかそういうアレか?」
「いや、まあ、そりゃちょっととっつきにくいなとは思うんすけど、というか……」
「タキモト、ワカマツ、キライ!」
「……ミューズ、お前ちょっとこっち来い」

 キャー、タキモト、コワーイ、と言ってミューズは先輩にすり寄った。
 先輩はにやにやと笑った。全く……あのおしゃべりめ!

「へー何々、女関係? そーか、ついにアラタにも春が来たかぁ……」
「冗談じゃないっすよ! あんな奴!」

 オレはついムキになって言った。しまった、と思った時には、先輩は意地悪そうな笑いを浮かべてこっちを見ていた。

「何々、面白そうじゃん。詳しく聞かせてもらおうか?」
「う、それは……」
「嫌ならいいよー、ミューズちゃんから断片的に聞くから」
「キクカラー」
「勘弁してくださいよ……」

 おしゃべりな奴といえども、ミューズはポケモン。基本的にはオウム返しばかりだ。言葉の意味をそんなに理解しているわけでもないし、言葉も間違えるし、勘違いもあるし、時系列もメチャクチャになる。
 余計な誤解をされちゃ困る。オレは諦めて、ため息をついて先輩に話した。


***


 この部に入って数週間たった頃のこと。
 その日は先輩もいなくて、部室にはオレとミューズだけだった。隣の部屋で練習している吹奏楽の音がうるさかった。
 この部屋もあっちの部屋も防音してくれりゃいいのに。学校ってこういうところは金をけちるよな。この前野球部には室内練習場なんて作ってやったくせに。茶道部の部屋に畳敷くのと同じくらいの感覚だよオレからすりゃ。

 さて、自主練自主練、と独り言を言いながら、チューニングをして、ベースをアンプにつなぐ。確かに先輩の言う通り、音楽に関してはオレはこの上なく真面目だと思う。いやマジで。
 メトロノームはいらない。そのかわり、ミューズが尻尾を振ってテンポをとってくれる。正直、そこらの安いメトロノームよりよっぽど正確だ。

 しばらく1人で弾いていると、どこかからミューズ以外の視線を感じた。
 見ると、半開きのドアの向こうに女が1人立っていた。
 見覚えがあった。同じクラスで、オレの斜め前に座ってる奴のはずだ。名前は……確か、ワカマツ・ヤヨイ。
 まぁ美人っちゃ美人なんだけど、何かツンケンしてる感じはする。性格悪そうだなぁと前から思ってた。

 ワカマツは無言でオレをにらんだ。オレもにらみ返した。よくわからんが、ほとんど言葉も交わしたことのない奴ににらまれるのはすげー気分が悪かった。
 しばらくして、ワカマツはハッと鼻で笑い、囁くような、でもはっきり聞こえる声で言った。

「どヘタクソが……」
「あぁ!?」

 その一言でオレは一気に頭に血が昇った。
 ヤヨイー、帰ろうー、とハードケース……多分トランペットを持った女がワカマツを呼んだ。ワカマツは蔑むような視線を改めることもなく、ふん、と鼻を鳴らして立ち去って行った。
 あんまり頭にきたもんですぐに追いかけようと思ったが、大事なベースを提げていることを思い出し、その場で唇をかんだ。

 オレは確かに不真面目だし、馬鹿だし、生活態度も悪い。
 だけどこれだけは、ベースだけは本当に真面目にやってきた。
 毎日欠かさず練習して、毎日手入れをして、毎日必死にやっていた。

 この道で飯を食っていきたい。
 プロになりたい。
 それだけは真剣に思っていた。

 それなのにあの女、オレの努力も知らねぇで「ヘタクソ」とか言いやがる。しかも「ど」までつけて。

 傍らのミューズが心配そうな目でオレを見ていた。

「タキモト、ダイジョウブ?」
「……あぁ」
「タキモト、ダイジョウブ!」

 ミューズはオレの肩に飛び乗って、ふわふわとした胸毛を頬に押し当てた。
 こいつなりに慰めてるつもりなんだろうな、と思い、オレはミューズの頭をなでた。

 それからというもの、ワカマツは、オレと眼が合うたびに見下したような視線を送るようになった。
 オレも対抗して睨みつけてやった。でも全然ひるまない。かわいくねぇ女だ。


***


 先輩はニヤニヤと笑いながらオレを見た。全くこの人は、オレがしゃべっても勝手に都合のいいように解釈しやがる。

「へぇ〜そうかぁ〜。甘酸っぱいなぁ〜うらやましいなぁ〜」
「いい加減にしてくださいよ先輩」
「いやぁそれってあれだろ? 最近はやりのツンデレって奴だろ? 素直じゃない美少女、いいじゃねぇかぁ〜うらやましいなぁ〜。まぁオレのみっちゃんにはかなわないと思うけどな!」
「あれがツンデレっつーんだったらオレはツンデレ嫌いっすよ。っつーか何さりげなくのろけてるんすか先輩」
「タキモト、ツンデレ?」
「違う」

 全く、こいつもヘンなところを繋げるな。

 嫌いなんだよ。オレは。
 あの高慢ちきな女のことが。



 日曜日。
 結局、先輩はオレに無理やりチケット押しつけて、「いいからヒマなら来いよな!」とか言ってきた。
 確かにヒマだった。行く気もなかったんだけど、行かなかったらまた明日から先輩にネチネチいじられるんだろうな、と思ったから仕方なく行くことにした。
 チケットに書かれてる開演時間は過ぎてたけど、まあ別にいいよな。

 ホールに入ると、先輩はステージ上手側の一番前に座っていた。

「遅せーよアラタ、もう1部のクラシックステージ終わっちまったぞ。あ〜、みっちゃんかわいかったなぁ〜」
「来ただけいいじゃないっすか。クラシックあんま興味ないし。というか先輩、ホールなら真ん中の後ろに座った方がいいっすよ」
「前の方がみっちゃんがよく見えるだろ! ……ま、パーカッションは下手側だったんだけどな……」

 やれやれ、と隣のバカップル(男)に呆れながらオレは座って、入口で受け取ったプログラムを開いた。第2部はポップスステージのようで、オレも知ってる曲が並んでいた。
 ページをめくると、出演者の名簿が並んでいた。個人情報が何だかんだ言うけど、部活の発表会はそんなことどこ吹く風のようだ。

 ふと、見たくもない名前が目に入った。


 ●Contrabass/E・Bass
  ワカマツ・ヤヨイ(1年)


「Contra……bass……コントラバス?」

 床にピンを刺して立てる大きなバイオリン。オーケストラとかクラシックの楽器はあんまり詳しくないけど、そんなイメージが頭に浮かんだ。
 吹奏楽に弦楽器なんてあったっけ? というかその隣の「イーバス」って何だ? とか考えていると、第2部開演のブザーが鳴った。
 先輩、今はどれだけ彼女への愛を叫んでいてもいいけど、演奏始まったら一応静かにしてくれよ。
 まぁ今日はもう1匹のうるさいのがいないだけマシかもしれないけど。

 緞帳が上がる。
 その直後、目の前に現れたものにオレは目を丸くした。

 黒いアンプ。黒と白のボディ。4本の鋼の弦。

 目の前に立っているワカマツが抱えていたのは、「『E』lectric 『Bass』 Guitar」……エレキベースだった。


 指揮者が棒を振り下ろす。
 瞬間、音の波が一気に押し寄せた。

 正直、吹奏楽とかほとんど聞いたことなくて、管楽器の技術とかはオレはよくわからない。
 でも、オレの目の前にある、このエレキベースが奏でる音だけはわかる。

 足元を震わせる、地の底から響くような鳴動。
 心臓の鼓動にも似た、身体の芯を揺さぶる響き。
 決して自己主張することなく、しかし他の楽器全体を支える安定感。


 上手い。

 ハンパなく、上手い。


 これまで聞いた、どんなプロのバンドのベーシストにも引けを取らない。
 オレなんか足元にも及ばない。

 惹きこまれた。
 とにかく魅了された。


 演奏会が終わり、緞帳が下りる。
 オレは動けなかった。放心していた。それくらい衝撃だった。
 隣で先輩が何か言ったりオレの服の袖を引っ張ったりしてきたような気がするが、それすらどうでもよかった。

 「どヘタクソ」。
 あの女がオレにそう言ったのがようやくわかった。
 オレは努力していたつもりだった。いや、実際にオレは頑張っていたと思う。
 だけど、あの女はそんなオレよりはるかに上を行っていた。

 それからどうやって家まで帰ったのか、残念ながら全く覚えていない。



 翌日部室に行くと、先輩の姿はなかった。
 隣の部屋から吹奏楽の連中の音が聞こえた。
 カバンを放り投げ、ベースを下ろす。だけど、そのファスナーを開ける気力がなかった。ミューズが肩から降り、不思議そうにオレの顔を覗き込んだ。
 抜け殻になったような気分だった。オレは床に座り込んでぼうっとしていた。

「タキモト」

 ミューズが呼びかけてきた。
 こいつは昔から何度言っても、オレのことを名字で呼ぶ。家にいても「タキモト」だ。親父やお袋のことは名前で呼ぶのに。

「ワカマツ」

 オレは反射的に出入り口を見た。
 ワカマツは腕を組み、冷たい目でオレを見下ろしていた。
 でもやっぱり、コイツの視線はむかつく。オレも精一杯にらみ返した。

 しばらくにらみあうと、ワカマツはまたぼそりと「どヘタクソ」とつぶやき、吹奏楽の部室へ戻っていった。
 ああヘタクソさ。お前に比べりゃあな、とオレは壁越しにつぶやいた。


 それからしばらくして、先輩が部室に駆け込んできた。

「アラター、ごめんなー。ちょっと担任に呼ばれちゃってさー」
「今度は何したんすかカラスマ先輩」
「いやさぁ、今日進路希望調査があったんだけどさ、白紙で出したら呼び出しくらっちまった」
「当たり前じゃないすか。先輩3年なんすから」
「サンネンセイ、サンネンセイ」
「そうなんだよねー。ってもアレだしさー。お前は夢があっていいよなー」

 どきり、とした。

「まぁ何とか説明して……ん? どうしたアラタ?」
「……先輩、オレ、下手っすかね、ベース」

 オレが聞くと、先輩は少し考えて答えた。

「いや、言うほど下手じゃないと思うぞ? オレなんかより断然上手いし」
「プロとして……はどうっすかね」
「うーん……まあ、正直……上手いアマチュア、レベルのような気がするなぁ」
「……そうっすか……」

 ああ、やっぱりそうなのか、とぼんやり思った。
 下手ではないが、上手くもない。趣味でやるには十分だけど、プロには程遠い、ってことか。

 あいつは間違いなくプロレベルだ。
 そりゃオレのことを馬鹿にもするよな。

 でも、あいつの目線はオレを見下してる感じじゃない。
 何というか、ただ単に「嫌い」と言われているような気がした。

 ミューズがオレの頬ににふわふわの胸毛を押しあてながら言ってきた。

「タキモト、ツンデレ?」

 それは全然違う、と返しておいた。



 それからしばらく、部室には行かず、家でアンプなしでベースを爪弾くようになった。
 部室に行くと、隣の部屋からあのベースの音が聞こえてくるような気がした。
 何だか居心地悪くて、半分逃げている状態だった。

 挫折はした。
 だけど、プロへの夢はまだ諦めていない。

 今日の進路調査も、第一希望に「ベーシスト」って書いておいた。担任には白い目で見られたけど。
 で、それとは関係なく職員室に呼ばれた。例によってオレの態度のことについて生活指導から説教。正直耳タコ。適当に受け流すことにした。生活指導の方も、いくら言っても意味がないとうすうす気づいているみたいで、途中からは半ばあきらめてたし。
 職員室を見まわしていると、担任と話をしているワカマツの姿が目に入った。
 まぁオレには関係ないことだし、と思ったが、担任の言葉が耳に入ってきた。

「……いや、ワカマツ、お前の実力なら奨学金をとって音大に進むっていう手もあるんだが……」

 ああ、何だ。その話か。
 そりゃそうだよな。オレはエレキベースの音しか聞いてないけど、多分コントラバスも上手いんだろう。音楽大学に入ってゆくゆくはプロの奏者ってか。そういやうちの担任、吹奏楽部の顧問だったな。
 だけどあいつは、首を横に振ってはっきりと答えた。

「いいえ。大学には進みません。……就職します」

 何だ? アイツ、プロになりたいわけじゃないのか?
 正直、ちょっともったいないなと思った。あんだけ上手けりゃ引く手あまただろうに。


 職員室を出たところで、ワカマツとはち合わせた。
 こっちを軽くにらんで立ち去ろうとしたから、その背中に向けて言ってやった。

「お前、人のこと『どヘタクソ』とか言っといて、プロにはならねーの?」

 ワカマツは足を止めてこっちを向いた。
 正直、ちょっとびびった。だって、これまでにないほど怖い顔でこっちをにらんでたんだぜ。ああいうものを鬼の形相って言うんだな。
 圧倒的な迫力にちょっと怖気づいて後ずさりすると、ワカマツはオレの方に近寄ってきた。

「……アンタ、軽音に入部する時に『オレ、プロになりたいんっす!』って大声で言ってたわよね。こっちまで聞こえたわ。馬鹿でかいお気楽な声が」
「……?」
「本当におめでたいわね。簡単にプロになりたいなんて言えて」

 そう言いながらも、ワカマツはさらにオレとの距離を詰めてきた。オレも慌てて後ずさった。
 背中が廊下の壁に触れた。すっかり獲物と捕食者のような関係。
 ワカマツはオレの襟首をつかみ、大声で怒鳴った。

「アタシだってプロになりたかった! 音大に行って、勉強して……そうでなくてもバンド組んだりオーディション受けたり色々したかった! それなのに……何でプロになれるアンタがアタシよりヘタなの! アンタは何でも出来るのに何でそんなにどヘタクソなのよ!!」

 そう言い捨てると、ワカマツはオレの頭の上の壁をグーで殴って、オレの服を放した。オレは呆然としてその場に座り込んだ。完全に腰が抜けていた。
 ワカマツはもう一度オレをきつくにらみつけ、足音を鳴らして立ち去って行った。
 職員室を出てからずっと学ランの中に隠れていたミューズが小さな声で言った。

「……タキモト、コワイ」
「オレも怖い……」

 騒ぎを聞きつけた教師が職員室から出てきたが、説明どころじゃなかった。



「……つまり嫉妬だね、そりゃ」

 数日ぶりに行った部室。先輩は練習台を叩きながら言った。オレとは目を合わせない。数日放っておいたせいか少々機嫌が悪いようだ。というか勝手にオレのミューズをメトロノーム代わりに使わないでくれ。

「嫉妬って……わけわかんないんすけど」
「……」
「ごめんなさい勝手にサボったのはあやまりますから機嫌なおしてください」
「じゃあ今度何かおごれ」
「えー、先輩、食べるとなったら際限なく食うじゃないっすか。オレ破産するっすよ」
「……」
「……ドーナツでいいなら」
「イマナラ100エンセールチュウ」
「しょうがない、それで手を打ってやろう」

 そう言いつつ振り向いた先輩の顔は爽やかな笑顔。一生この人には敵いそうにない気がする。
 というか、1年生より部室に現れる3年生ってどうなんだ。
 あとミューズ、確かにCMでやってたけどな、100円セールは先週で終わったんだよ。

「まぁそうだな、そのヤヨイちゃんの事情がわからないから何とも言えないけど、アラタに嫉妬してるのは確かだな」
「オレに嫉妬?」
「うーん……そうだなぁ。そのヤヨイちゃんの言ってた『プロになりたかった』ってのがポイントかもな」
「……どの辺が?」
「『なりたい』じゃなくって『なりたかった』って言ってたんだろ? つまり何かの事情でヤヨイちゃんはプロになれないんだよ」
「あんだけ上手いのに?」

 オレがそう言うと、先輩はやれやれとため息をついた。

「あのなぁアラタ、世の中実力があるだけじゃどうしようもないことってのもあるんだよ。お前は上手くなりゃプロでも何でもなれるだろうけどな」
「事情、っすか……」
「まぁそれが何なのかは本人に聞かなきゃなぁ。オレはあらかた予想がついたけど」
「え!? そ、それって?」
「教えなーい。100円セールのドーナツじゃあ情報はここまでだなー」
「センパイ、ハラグロ?」
「おぉう! ミューズちゃんひどいなぁ。何教えてんだよアラタ」
「単語を教えたのは先輩っすよ……あと100円セールもう終わったっす」

 アンタのせいでオレは事あるごとにミューズに「ツンデレ?」って言われるんだ。自業自得だ。

「で、先輩。明日でいいっすか?」
「ん?」
「週末から夏休みで、明日半日授業じゃないっすか。食い行くんでしょ、ドーナツ」
「いや、明日はムリ!」

 不本意ながらもこっちからおごることを宣言したのに、先輩はあっさりと断った。

「いやー明日は学校終わったらみっちゃんとデートなんだよねー!2人でドーナツより甘ーい1日を過ごす予定なのさー!」
「……」
「っちゅーわけでお前は邪魔だから来んな」
「…………」
「……センパイ、クウキ、ヨメナイ?」

 ミューズ、お前天才だな。



 部屋の真ん中にあぐらをかいて座り、ポン、ポンと弦を弾いてチューニングをする。
 暑いから窓は開けっぱなしだが、今日は外が静かだからまあいい。


「……タキモト」

 慎重にA線をチューニングしていたら、ミューズが突然口を開いた。
 オレはちょっと驚いた。ミューズはこれまでオレがチューニングをしている時だけは絶対にしゃべらなかったから。

「タキモト、ミューズ、スキ?」
「ん? ああ、好きだよ」
「ミューズ、タキモト、スキ!」

 そう言ってミューズはオレの肩に飛び乗り、頬に体をすりよせた。
 しばらくすると、ミューズはまた肩から降りてオレの方を見た。

「タキモト、ワカマツ、スキ?」
「……は?」

 突然何を言いだすんだこいつは。

「タキモト、ワカマツ、キライ?」
「……」
「ワカマツ、タキモト、スキ?」
「は?」

 いや、嫌いだろ。
 ああそうか、こいつはしゃべるって言っても基本的にオウム返し。意味を完全に理解してるわけじゃないか。

 ミューズはその場でぐるぐる歩き回り、独り言のようにつぶやいた。

「ミューズ、タキモト、スキ。……タキモト、ワカマツ、キライ。……ワカマツ、タキモト、キライ。……タキモト、ミューズ、スキ。……」

 ミューズはぴたりと止まった。

「キライ、イヤ。キライ、カナシイ。ミューズ、カナシイ」
「……?」
「ミューズ、タキモト、キライ! ワカマツ、キライ、ワカマツ、カナシイ! タキモト、キライ!」

 そう言うと、ミューズは突然開けっぱなしの窓から外へ飛び立っていった。

「ミューズ!」

 オレは慌ててベースを置き、玄関から外へ駆けだした。


 本当に馬鹿みたいに夢中で走った。
 慌ててひっかけてきたサンダルが走りづらい。面倒になって、手に持って裸足で走った。
 ああ、この決して狭いとはいえない町で、たった1匹のペラップを捜しまわるなんて、冷静になって考えてみりゃいくらでも別の方法があったのに。
 でも今のオレはとにかくそうすることしか頭になかった。

 幾つも角を曲がったところで、オレは足を止めた。
 透明なビニール傘をさしたワカマツが立っていた。ワカマツはオレに気がつくと、腕に何かを抱えてこっちに来た。

「……アンタのでしょ、このペラップ」
「ミューズ!」

 そう言ってワカマツが差し出したのは、間違いなくオレのミューズだった。ミューズはオレを見ると、タキモト、と大きな声をあげてオレの胸に飛び込んできた。

「ミューズ、イケナイコ。タキモト、ゴメンナサイ」
「いいよ……よかった……」

 タキモト、ダイスキ、と言ってミューズは身体をすりよせてきた。

「……サンキューな」
「どういたしまして。と言ってもその子が勝手にアタシのところに飛び込んできただけなんだけどね」

 ワカマツが少し呆れたような口調で言った。

「ミューズ……芸術と音楽の女神、ねぇ。大層な名前つけてるのね」
「いいだろ別に。じゃあお前ならなんてつけるんだよ」
「……。……『オウム』とか」
「うわぁ……」

 何というか、それならまだ種族名の「ペラップ」で呼ぶ方がましな気がする。

「……で、アンタはその女神様を追いかけてこの雨の中傘もささずに走ってきたわけね」
「……え?」

 そういえば、ワカマツはさっきから傘をさしている。ふと自分の体を見れば、雨と泥水でぐちゃぐちゃになっていた。
 あまりにも夢中で気付かなかった。いつの間にか雨が降っていたらしい。玄関でた時にもう振ってたのか、出てから降り出したのか、それもわからない。ミューズを捜すのに夢中で全然気付かなかった。

 ワカマツは呆れたようにため息をついて言った。

「……アタシの家、すぐそこなの」
「え?」
「屋根くらい貸すわよ」

 そう言ってワカマツは歩き出した。ミューズがオレの腕から飛び出し、それを追った。オレも慌てて後を追った。



 ワカマツの家は、細い路地の更に奥にあった。
 家の壁も柱も腐りかけていて、辺りは少しかび臭い。建てられて一体何年経つのか、びっくりするほどぼろぼろだった。

 ただいま、と言ってワカマツが扉をあけると、家の奥から子供が4人飛び出してきた。

「お帰りー!」
「姉ちゃんお帰り!」
「あえ? ねえちゃん、これだれ? かれし?」
「そこで拾ったずぶぬれの人間のオス、満15歳よ」
「おいコラ」

 オレは捨てられたガーディか何かか。


「タキモト、コワイ!」

 借りた風呂から上がると、ミューズがものすごい勢いで飛びついてきた。その直後、ワカマツの弟妹たちがミューズを追いかけてオレに体当たりしてきた。

「きゃー!」
「まてーっ!」
「ミューズ、タベモノ、チガウ! ミューズ、タキモトノ、ポケモン!」
「悪いわね。うちの弟たちがアンタの女神様のこと気にいっちゃったらしくて」
「気にいった、って言うのか? あれは……」

 何というか、獲物として追いかけられていないかあれは。ワカマツ曰く「単なる追いかけっこだから大丈夫」らしいけど。
 くれぐれもシメたりするんじゃないわよ、と弟妹たちに言って(やっぱり危ないんじゃないのか?)ワカマツはこっちを向いた。

「随分アンタになついてるわね、アンタの女神様」
「ああ……アイツは、オレが初めてベースを買った帰り道で拾ったんだ。まだ赤ん坊でさ……野生だったのか、どっかのトレーナーに捨てられたのか知らねぇけど。今じゃ大事な相棒だよ」
「……そう」

 ミューズは天井近くに退避していた。ワカマツの弟妹たちはその下でぴょんぴょんと跳ねている。
 ワカマツはその様子を見て少し笑った。いつも仏頂面な奴だからちょっとびっくりした。
 少し沈黙が続いたあと、ワカマツが静かに言った。

「……昨日はごめんなさい。ちょっと言いすぎたと思ってるわ」
「いや……別に……」

 昨日アイツがあれほど怒った理由も、ここにきてようやく少しだけわかった。

 プロになるには金がいる。
 音大に入るには、頭金だけでも300万円は軽くかかる。
 たとえバンドを組んでも、有名になるまでは収入は微々たるものだ。そもそも、今のこいつにはそんなことしている余裕はないのだろう。

 ミューズのしゃべる声と笑い声が聞こえる。
 ワカマツの弟妹たちは、自分たちの言ったことをオウム返しにするミューズを随分と気に入ったらしく、ミューズも少し安心してきたようだ。

 母さんは夜の仕事だから今いないの、とワカマツは小さな声で言った。
 父親は、と聞くと、ワカマツは暗い顔で言った。

「本当、馬鹿な男よ。いい年して『トレーナーになる』って言って、家族放って突然失踪。子供5人もいて元々余裕なんてなかったのに、そのために借金までしてくれちゃって。残された母子はどうしろってのよ」
「……」
「高校には何とか入らせてもらえたけど、大学はさすがに無理。私立の音大なんかもっと無理。先生の計らいで吹奏楽もやらせてもらってるけど、本当は時間が惜しいのよね。……プロにはなりたいけど、やっぱり安定しない職業は不安だわ」

 そう言って、ワカマツはベースを弾くふりをした。いわゆるエアベースって奴なんだけど、本当に音が聴こえたような気がした。

 『世の中実力があるだけじゃどうしようもないことってのもあるんだよ。お前は上手くなりゃプロでも何でもなれるだろうけどな』という先輩の言葉を思い出した。
 オレの家も特別裕福ってわけでもない。ごく普通の家庭だ。
 だけど夢は持てる。普通のオレでも夢を持てる。
 でもこいつは無理なんだ。
 本当は何も心配せずに楽器を弾いていたいだろうに。

「……なあ、オレ、上手くなると思うか? ベース」
「無理ね」

 ちょっとしんみりとした気分で言った一言を、ワカマツはばっさりと切り捨てた。

「だってアンタ音楽センスないもの。アンタの女神様の方がよっぽどセンスあるわ」
「お前……ちょっとは遠慮してものが言えねぇのか?」
「はっきり言ってやった方がアンタのためでしょ」
「か、かわいくねえぇぇ……」
「そんなモンとっくの昔に海の彼方へ放り投げたわよ」

 ワカマツは窓の外を見た。まだ雨が降り続いている。
 それを確認すると、ワカマツは手を叩いて弟妹たちに言った。

「アンタたち、このお兄さんが遊んでくれるって」
「は!?」
「雨宿りさせて風呂にも入らせてやったでしょ。そのくらいはしてもらうわよ。アタシは他の家事があ」

 ワカマツの言葉が終わる前に、クソガキ共が「わーい!」とか言いながら全力でぶつかってきた。
 たかいたかいしてだのお馬さんしてだの……あぁもうガキの相手は疲れる!
 それ見てたミューズはミューズで構え構えうるさいし……。
 はぁ……何だこの肉体労働……。



「晴れたわよ。アンタもそろそろ帰れば?」

 床の上でぐったりしていると、ワカマツが身に着けていた白いエプロンを脱ぎながら言った。
 窓の外を見ると、西の空が赤くなっていた。もう夕方だったのか、とぼんやり思った。

 玄関で靴を履いていると、ワカマツもやってきて靴を履いた。

「お前もどっか行くのか?」
「バイト」
「……校則違反」
「脱色ピアスに言われたかないわ」
「タキモト、ボケツ?」

 ワカマツは振り返って弟妹たちに言った。

「じゃあバイト行ってくるわ。大人しくしてなさいよ」
「はーい!」
「いってらっしゃーい!」
「また来てね! おじいさんのおにいさん!」
「おじっ……」

 それを聞いてワカマツがふきだした。
 というか声をあげて笑ってやがる。何だよ、いっつもむっつりした顔しかしてねぇくせに。

「……ま、ファッションだか何だか知らないけど、子供には白髪にしか見えないでしょうね」
「タキモト、ワカドシヨリ?」
「…………」

 どこで覚えたそんな言葉。



 新学期が始まった。

「こらぁタキモト! 校則違反だって何回言えば……」

 半ば条件反射と化している生活指導の一言が途中で止まる。
 やべ、ちょっと快感かもしんないこれ。

「よぉアラタ! 今日も不機嫌そうな……」

 部室へ行くと、先輩がこっちを見て固まった。まぁ無理もないか。
 何せ真っ白に脱色した髪を、全部真っ黒に染めなおしたからな。

「不機嫌そう……じゃないな」
「うるさいのがいなくなって気分爽快っすよ先輩」
「タキモト、ゴキゲン!」

 まぁ、正直そんなに未練はないんだよな。
 あの髪の色は、教師とかその他大人に対するオレのちょっとした反抗のようなものだったし。
 まぁピアスとかは外してないけどな。髪の色だけ。

 先輩はオレの額に手を当てた。熱はない。念のため言っておくが。

「アラタ……お前、どうしたんだ?」
「先輩……子供の一言って結構こたえるっすね……」
「?」
「タキモト、ワカドシヨリ?」

 だから余計なことを言うなってミューズ。


 ベースを出してチューニングして、アンプにつないで弦を弾く。部室で弾くの久しぶりだな。
 しばらく弾いていると、先輩がマジマジとこっちを見ながら言った。

「アラタ、お前、音変わったな」
「そっすか?」
「ははーん、こりゃ例のヤヨイちゃんと何かあったな?」
「何もないっすよ別に」
「イエニハ、イッタケドネ」

 だーかーらー何でこいつは余計なことばっかり言うんだよ!
 ホラまた先輩がニヤニヤしてるぞ! またあらぬ誤解を招いてるぞ!

「そーかそーか、アラタにも遅めの春が来たか……」
「雨宿りしてアイツの弟たちの相手してただけっす」
「まぁそういうことにしておいてやるよ。でもまぁいいんじゃね? お前の音、前よりよくなってるし」
「……そっすか?」

 オレはベースを見た。実感は特にない。
 あのなぁアラタ、と先輩は言った。

「特に音楽ってのはな、他人の影響受けやすいもんなんだよ。後輩ってのは大抵先輩の音に似るもんだし、影響を受けた人間の音に近くなるもんなの」
「……そうなんすか?」
「自分じゃわかんないかもなぁ。でもそんなもんだよ。お前の音、ちょっとヤヨイちゃんのに似てきてるぜ」
「……そっすか」

 オレはちょっと顔がにやけた。性格はあれだがアイツは上手い。それに似てるといわれるのはやっぱ嬉しい。
 先輩はオレの表情を見逃さなかったようで、オレの肩を叩きながら即座に言った。

「まぁ、まだまだあれには程遠いけどな! ハッハッハ!」
「……っすよね」

 そりゃそうか。当たり前だな。
 ほんの少し落ち込むと、先輩はまたそれを見て言った。

「……あのなぁアラタ、ただ技術がありゃ成功するってもんじゃないんだぞ? いいか、『音楽』ってのは『音』を『奏でる』って書くんだ」
「奏でる?」
「そう。『楽でる』って書いて『かなでる』って読むんだよ。つまり『奏でる』ことは『楽しむ』ことなんだ。奏でることは楽しむことであり、誰かを楽しませることなんだ。それができるのが本当の『音楽』であり、『演奏者』って奴だとオレは思うけどな」
「……」

 この人、何で時々こういうこと言うんだろう。
 本当に侮れない人だよな。やっぱり一生敵わない気がする。


「……ま、それはともかくだアラタ」
「何すか」
「そろそろ季節じゃないか。年に一度の学祭の!」

 そういえば、10月の終わりに学園祭があったな。
 文化系の部活としては大事な発表の場だろう。……普通は。

「もちろんライブやるよな? 軽音は他に発表の場なんてないもんな!」
「先輩、そりゃやれるもんならやりたいっすけど、人がいないっす」
「……あれ?」

 そう言って先輩は部屋を見渡した。
 いるのはオレと先輩だけ。ついでに言うと楽器はベースとドラムだけだ。

「ベースとドラムだけで何するっつーんすか」
「い、いや、オレはギターも出来るぞ!」
「誰がドラムやるんすか」
「みっちゃんにやってもらおうぜ! パーカッションだし! まだ2年だし!」
「吹奏楽があるじゃないっすか。吹奏楽相当力入れますよ学祭は」

 そりゃ聴きに行かなきゃダメだよな! 当たり前だよな! と先輩はあっさり意見を却下した。単純な人だ。

「そもそも誰が歌うんすか」
「アラタ、お前結構いい声だし、歌えば? ベース弾きながら」
「嫌っすよ。ポップスのあんな歯の浮くような歌詞言いたくないっす」
「あのなぁ、バンドはベースがリーダーなんだぜ? お前が歌詞書きゃいいじゃん。自分で歌える」
「ミューズ、ウタウ?」
「いや無理だろお前は。いろんな意味で。というかバンドはベースがリーダーって決まってるわけじゃないっす別に」

 下手にお前が歌うと技になるんだよ。観客もオレらも全員寝るわ。
 先輩は神妙な顔つきになって言った。

「いや、むしろミューズちゃんの方が歌上手くね? お前より音楽センスあるんじゃね?」
「ミューズ、ウタウ?」
「今から歌詞教えると1年以上かかりますけどいいんすか?」
「む、じゃあそれは来年の楽しみにとっておこう。オレはもういないけど」
「ミューズ、ウタワナイ」

 オレはカバンからペットボトルを取り出した。

「というか先輩3年じゃないっすか。学祭とか出てていいんすか?」
「あれ? オレ、アラタに言ってなかったっけ?」
「?」
「オレ、もう合格しちゃったんだよね、警察官採用試験」

 思わず飲んでた茶を噴いた。
 そういえば警察の一次募集って合格発表8月なんだよな。というか、そういう問題じゃないような。

「……受けてたんすか、試験」
「まぁさっさと進路決めたほうが楽だし? それにみっちゃん大学行くから、卒業次第結婚したいし? そのためにはやっぱ手に職付けとかなきゃなぁ男として、と思ってさー。受けてたら通ってた」
「先輩が警察か……この国の将来が不安だな」
「フアンダナ」
「お前、オレが職に就いたら真っ先に逮捕するからな」

 この人なら本当にやりそうで怖い。



 それから時間は流れて、学祭も目前。
 まぁオレにはあんま関係ないけどな。やっぱり人足りないし。先輩もバンドのことより彼女のことが気になるみたいだし。

 1人で部室で楽器を爪弾いていると、入口から視線を感じた。でも今までとは違う。
 顔をあげると、ポニーテールのかわいい女の子が入口に立っていた。

「あの……タキモト・アラタ君、だよね」
「ああ。……誰?」
「あ、私、カトウ・ミサト……吹奏楽の」
「……ああ、先輩の彼女さん」

 あ、この人が噂の「みっちゃん」か。なるほどかわいい。先輩にはもったいない位。

「すいません、先輩は今日来てないんすよ」
「あ、ううん、今日はリョウちゃんじゃなくって……あのね、アラタ君、ヤヨイがどこにいるか知らない?」
「ヤヨイ……ああ、ワカマツ? 知らないっすけど……」

 そういえば久しく会っていない。同じクラスだから教室ではたまに見かけるけど、部室の前とかその変では全く会わない。
 みっちゃん……カトウ先輩はそっか、と顔を曇らせた。

「実はヤヨイ、ここのところずっと部活に顔出してなくって……もうすぐ学祭なのに……」
「え?」
「ありがとアラタ君。また探してみるわ」

 そう言ってカトウ先輩はどこかへ行った。

 ワカマツが部活に出ない。
 アイツにとっては今唯一音楽ができる場所なのに。
 何かよくわからないけど、すごく不安になった。


 ……そういえば、ミューズはどこに行ったんだ?



 学園祭当日。
 クラス発表だか何だかは当然のことながら不参加。だって面倒だし。かといって他に特にやることもない。
 先輩は吹奏楽の発表を聴きにに行ったっきり帰ってこない。まぁおおよそ彼女といちゃついてるんだろう。
 オレもチラッとだけ覗いたけど、ワカマツはステージの上にいなかった。

「……帰るか」

 とっとと帰ってベースでも弾いてよ、と思い、足を進めた。
 その時、後ろから腕を掴まれた。

「……見つけた」

 振り返ると、そこにはソフトケースを背負ったワカマツが立っていた。

「何ぼうっとしてるの。わざわざ迎えに来てやったんだから」

 びっくりする間もなく、ワカマツは行くわよ、と言ってオレを引っ張った。


 引っ張られた先は、幕の下りた体育館のステージ。最後に吹奏楽が演奏して、この後は休憩所に使われるからもうステージでの発表はない。
 吹奏楽が片づけたはずのステージ上には、ドラムセットだけが残されていた。
 あと、なぜかスタンド付きのマイクが2つと、真っ黒のアンプ。

 事情を飲み込めないオレが混乱していると、舞台袖から、ギターを抱えたカラスマ先輩とスティックを持ったカトウ先輩が現れた。

「よー、来たかアラタ!」
「先輩! こ、これ、どういうことっすか?」
「決まってんだろ。ライブだよ、ラ・イ・ブ!」

 当然、学園祭のプログラムにはない。いわゆるゲリラライブってやつか? 後で多分いや絶対怒られるだろうな。
 いきなり言われてオレは面食らった。だって練習も何もしていない。

 バサバサ、と羽音を立てて、ワカマツの肩に鳥がとまった。

「ミューズ!」
「アンタの女神様がね、アンタの練習してる曲を歌って教えてくれたの。苦労したわよ、余計なことばっかり言うんだからこの女神様」
「ミューズ、ウタッタ!」
「だから練習なしでも大丈夫だよ、アラタ君」
「……」

 全く、それでここのところいなかったのか、オレの相棒は。
 オレは呆れたが、少しわくわくしてきた。ベースを取り出し、素早くチューニングを確かめる。

「……で、ボーカルは?」
「アンタ。アタシはハモり」
「は!?」
「ミューズ、ウタワナイ」
「ちょ、ベースオレじゃねぇの!?」
「アンタもベースよ。ツインボーカル・ツインベースなんだから。ハモってやるだけありがたいと思いなさい。今日はアタシがリーダーなのよ。文句言わないでとっとと準備する」

 やっぱりこいつかわいくねぇ……!


 準備が出来たころ合いをを見計らって、ワカマツが言った。

「行くわよ」

 全員がうなずいた。
 それを確認して、ワカマツは舞台袖を見た。見ると、そこにはいつぞやか見た吹奏楽部のトランペット奏者。
 ワカマツがもう一度うなずくと、その子は一気にステージの幕を開ける縄を引いた。


 ドラムがスティックを鳴らしてテンポをとる。
 それに合わせて、ステージのライトがつき、全員が一斉に楽器をかき鳴らす。
 体育館に休憩に来ていた人たちが、何事かとざわめき、ステージを見る。

 先輩のギター、思ってた以上に上手かった。何でいつもドラム叩いてんだろう。もしかして苦手だからやってたとかなのか。あの人どんだけひねくれものなんだ。
 カトウ先輩のドラムも上手い。やっぱり吹奏楽部員、伊達じゃない。何と言ってもキャリア人が多い長いからな、吹奏楽部員って。本当に。

 でも何よりもやっぱり、ワカマツのベース。
 言葉で言い表せられないくらい、とにかく上手い。
 オレの苦手な部分を完璧にカバーしてくれる。かといって塗りつぶすんじゃなくって、最高のタイミングで引き立ててくれる。
 っつーか、歌も上手いのな、コイツ。本当に完璧だな。音楽に関しては。

 予告もなく突然始まったライブに、休憩に来ていた人たちは最初は茫然としていた。
 だけどしばらくすると、何人かが曲に合わせて手拍子するようになった。
 体育館の外にいた奴らも、何事かと中に入ってきた。

 そして気がつくと、体育館の中は歓声でいっぱいになっていた。


 ありきたりなラブ・ソング。
 正直、歯の浮くような歌詞は苦手だ。


 だけど。

 すごく、気持ちよかった。


 ジャン、と最後の音が鳴った。
 ほんの少し間をおいて、割れんばかりの拍手と歓声がオレたちのライブ会場を包み込んだ。

 ぞわっ、と背筋に電流が走るような感触がした。
 止まらない汗は、目の前がぼやけるほどの熱気のせいなのか。
 脳みその真ん中が痺れて、頭がくらくらする。

 体育館の一番端っこに、こっちへ向かって走ってくる生活指導の姿が見えた。
 全員が顔を見合わせて笑った。これからやることなんて、何も言わなくてもわかってる。

「逃げるぞっ!!」

 人波に押されて、生活指導もなかなかこっちには来られない。
 舞台袖には外へ通じる出入り口がある。オレたちは楽器を抱えたまま舞台から走り出した。

 オレは咄嗟に、ワカマツの手を握りしめて。



 握りしめた手は、2人とも汗ばんでいた。
 2人とも首からエレキベースを提げたまま、夢中で走った。
 今まで楽器を持ったまま走るなんて危なすぎることしたことなかったけど、それもうっかり忘れていた。

 走って、走って、気がつくと、オレたちは軽音の部室にいた。
 隣の吹奏楽ももう片付けはとっくに終わったのだろう。辺りには誰もいない。
 オレたちは2人揃って息切れを起こしていた。オレも全力疾走なんて久しぶりだし、ワカマツも男のオレのペースについてきたんだからきつかっただろう。
 2人揃って、壁に背中をつけて座り込んだ。

「……どヘタクソ」

 2人してしばらく呼吸を整え、開口一番にワカマツが言った。

「しばらく見ない間にちょっとは変わったかと思ったけど、全然成長してないわね。こっちの足引っ張るんじゃないわよ」
「はは、そりゃ失礼しました」
「……でも……楽しかった」

 そう言ってワカマツはこっちを向いて笑った。
 どきん、と心臓が跳ねたけど、た、多分、走ったせいだ。うん。
 あーくそ、早く呼吸まともにならねぇかな! 顔が熱い!

「ワカマツ、タノシカッタ?」

 ミューズがひょっこりと現れてワカマツに聞いた。ワカマツはミューズの頭をそっとなでた。

「ええ、とっても」
「ワカマツ、タノシカッタ!」

 ミューズは嬉しそうに飛び回り、ワカマツの肩に乗ってふわふわの胸毛を頬に押し当てた。あ、それオレの専売特許だったのに。何か悔しい。

 ワカマツはしばらくの間無言でミューズを優しくなでていた。
 オレに背中を向けて。まるでオレと眼を合わせたくないみたいに。


「……アタシ、今日で……高校、やめる……」


 しばらくして、ワカマツが静かに言った。
 オレは驚いてワカマツを見た。
 ミューズをなでる手が止まっていた。ミューズが不思議そうにワカマツを見上げていた。

「……あの日、アンタが帰った後……バイト先に連絡があって……。……母さんが……倒れたって……」

 押し殺したような声でそう言うワカマツの背中が、小さく震えていた。
 オレはワカマツの正面に回り、そっと頭をなでた。

「……命に別状はないって……。だけど、うちの収入、ほとんど母さんだったから……女手一つで頑張ってたから……」

 ワカマツの頬に、つうっと透明な雫が流れた。
 オレは思わずワカマツをぎゅっと抱きしめた。
 普段の印象からのイメージよりも、ワカマツの身体はずっと華奢で、力入れたら簡単に折れそうなくらいで、正直ちょっとびっくりした。
 どうしていいかわかんなくって、オレの手も震えてたと思う。

「……そうか……」

 オレは他に何も言えなかった。
 こいつも悩んだ末に出した結論だろう。オレが口を挟むことなんてできない。

 神様とかいう奴が本当にいるんだったら、そいつはきっとうちの先輩並に性格が悪いに決まってる。


 ほのかに甘い匂いがした。
 どうしてだろう。
 まだ顔が熱い。
 2人の妙に早い心臓の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。


 ミューズがちょこんとワカマツの肩に乗って、頬に身体をすりよせた。
 ワカマツは小さく笑って、ありがとう、と言ってミューズをなでた。
 オレはそっとワカマツを離した。
 何でだ。まだ心臓がバクバクいってる。


「……また……迎えに来るから……」

 ワカマツが囁くように言った。

「アンタがもっと上手くなって……有名になったら……また、迎えに来るから……」

 そう言って、ワカマツは泣きながら笑った。
 オレも笑ってうなずいた。

 遠くの方で、生活指導がオレたちを探す放送が響いていた。
 ミューズが小さな声でそれを繰り返した。



***



 最後の音の残響をかき消すような、割れんばかりの歓声と拍手が会場を埋め尽くす。
 この脳天を突き刺すような、甘く痺れる快感は何度ステージに立っても色あせない。


 あれからちょうど5年が経った。

 オレは学園祭のゲストでこのステージに呼び出されている。


 舞台裏の出入り口を抜けると、懐かしの生活指導が立っていた。あと担任も。
 2人とも笑顔でオレを迎えてくれる。

「いやータキモト、お疲れサン! いいステージだったな!」
「お? 5年前は同じステージのあと、鬼の形相でオレを追いかけてきましたよね? しかも大人しく出頭した後は長ったらしいお説教付きで。ねえ、先生?」
「マッタク、ウルセェキョウシダゼ!」

 オレの右肩にはミューズ。今も変わらずオレの大事な相棒だ。

「う、い、いやいや、まあ、そんな昔のことは水に流せ!」
「まあいずれにせよ、今や押しも押されぬ人気歌手をこうやって学園祭に呼べるのも、母校の強みって奴かな?」
「まぁ……そっすね」

 そう。オレは今や知らない人はいない人気バンドのボーカル兼ベーシスト。
 今日は母校のよしみでこの学校に帰ってきたってわけだ。

「よっタキモト! お疲れさん!」

 懐かしい声がした。顔をあげると、青い制服を着たオールバックの男。

「先輩!」
「久しぶりだなー! ってかお前、また髪の毛真っ白にしたのか!」
「いいじゃないっすか。気にいってるんすからこの髪。先輩も相変わらずのオールバックっすね」
「タキモト、ワカドシヨリ」

 うるさい、とオレはミューズの頭を小突いた。

「……あれ、っつーか先輩、今の時間って仕事じゃないんすか?」
「いやーかわいい後輩が帰ってくるってんで思わず勤務放りだして来ちゃったよ」
「この不良警官……」
「ショウライガ、フアンダナ!」

 やっぱりこの人にこの国の将来を任せちゃいけないんじゃないか?
 まぁそんなことより、と言って先輩はオレに左手を見せた。その薬指には輝く金色の指輪。

「かわいい後輩のアラタに報告でーす。来年の4月には、みっちゃんの名字がカトウからカラスマになりまーす!」
「まじっすか!」
「みっちゃんもうすぐ大学卒業だからなー! 正式に婚約もしてオレもう幸せいっぱいよぉー! 結婚式には呼んでやるからな!」
「あざっす!」

 ああ、先輩も相変わらずだな。何だろう、何かよくわからないけどすごく安心した。

 その時、ミューズが突然騒ぎ始めた。

「ん? どうした?」
「タキモト、ヤクソク」
「約束?」

 その時、どこからか視線を感じた。
 ふっと顔をあげると、そこには腕を組んで立っている女。

 どきん、と心臓が跳ねた。

「……ワカマツ……」

 ワカマツはつかつかとこっちに歩み寄ってくると、間髪いれずオレの頭を全力ではたいた。
 突然の出来事に、辺りの人間はみんな飛び上がった。

「……どヘタクソ」
「て、てめ……仮にも芸能人の頭を……」
「アンタ、本っ当に成長してないわね。メンバーの足引っ張ってんじゃないわよこのどヘタクソ。白髪。若年寄」
「すみません……」

 オレは思わず謝った。何となく謝らなきゃいけないオーラをワカマツが出していたから。というか後半ほとんど髪の毛に関することだった気がするんだが。
 ワカマツはため息をついて小さく笑った。

「でも、ま……楽しいライブだったわ」
「……サンキュ」
「ワカマツ」

 ミューズがワカマツの肩に止まった。

「ワカマツ、ヤクソク、マモリニキタ?」
「……ええ」

 ワカマツはそう言ってミューズをなでた。
 すっと目線がミューズからこっちへ向く。
 かあっと顔が熱くなった。やべ、何だよオレ。ガキみてぇ。

「……迎えに来てやったわよ」

 そう言ってワカマツは手を差し出す。
 オレはその手を取ると、ぐっと引いてワカマツを抱き寄せる。
 周囲から歓声のような悲鳴のような声が上がった。ファンやらマネージャーやらはやし立てる先輩やら。


 オレはワカマツと顔を合わせ、笑った。


「逃げるぞっ!!」


 手を取り合い、オレたちは全力で走りだした。





+++++++++The end




あとがき
とてもポケモン色が薄いです。
音楽はやっていますが軽音に関しては詳しくありません。
久々に少女漫画を読んだら何だかものっすごく甘いものができてしまいました。まぁいいか。春だし。
(初出:2010/4/? マサラのポケモン図書館)



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