落書きだらけのメモ帳。 つまらなかったペーパーバックの漫画。 去年の福袋に入っていた使い道のわからないがらくた。 そこらじゅうに転がる、自分にとっていらないものを拾っては、真っ白な箱に投げ入れる。 箱はすぐにいっぱいになる。でも、すぐ近くには別の箱が転がっている。 いっぱいになった箱をガムテープで閉じて、またいらないものを拾っては箱の中に放り込む。 もう何日も繰り返しているのに、ここはなかなか片付かない。 +++ 顔に布が当たる感触で目が覚めた。 瞼を開けると紫色だった。顔の上に紫布の人形もどきが乗っている。欝陶しいのでつまんで放り投げた。 コンビニ弁当のからに着地した人形もどきは、紫のひらひらにぽつりとついた油染みを見て、非難するような目線をこちらに送ってくる。部屋のあちらこちらからくすくすと笑い声がする。自分は頭まで布団を被ってまた寝ようとしたが、ほんのりと尿意を感じて仕方なく起き上がった。 自分は床が全く見えないほど何層にも積み上がった、紙屑やらトレーやら紙バックやらペットボトルやら脱ぎ捨てた服やら本やらを踏み付けつつ、トイレへ向かった。 ちゃぶ台の上には片付けていない食器。床にはネット通販の段ボールの山。ベッドの右半分には本と漫画。枕元にはスリープ状態のノートパソコン。部屋全体に種類様々な大量のゴミ。そして、空いた空間に居座る大量の人形もどき、もといカゲボウズ。 こんな生活になってから、2週間が過ぎた。いや3週間だったかもしれない。先月末の飲み会の後からだから1ヶ月弱か。今日が本当に3月23日なら。 自分が大学に行かなくなって、20と4日が経った。 +++私のお気に入り+++ カゲボウズが1匹、また布団に潜り込んだ自分の頭に乗ってくる。うぜぇ、と心の中でつぶやくと、そいつはうっとりとした顔で布団の上を頭の方から足元までころころと転がっていった。 掛け布団をかぶってうつぶせに伏したまま、閉じていたノートパソコンを開く。デスクトップ画面が現れるまえに10秒程度黒画面が表示された。大学入学と同時に買ったこのパソコンも、ぼちぼち限界が近いらしい。というかもう超えているだろう。 ネットを開いていつものつぶやきページに飛ぶ。マウスのホイールをがりがり回して、寝ていた間のタイムラインをさかのぼる。全体を流し見ながら、見覚えのあるつぶやきまで戻った。 画面の右下を見る。16時38分。さかのぼった最後のつぶやきが約7時間前だから、寝たのは9時半くらいか。窓のブラインドをずっとおろしているから、今が昼か夜かもよくわからない。 ぼんやりと画面を眺めていたら、外からはしゃぐ子供の声が聞こえてきた。甲高い声が耳に響く。ベッドの下を漁ってヘッドホンを拾い上げ装着する。ただし音楽は流れていない。防音効果はほとんどない。無邪気な笑い声が脳みそに鋭く突き刺さる。 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。 掛け布団を頭までかぶって目を閉じた。布団の上にカゲボウズ達が群れてのしかかってきた。圧迫感が何となく心地よくて、いつの間にかまた眠っていた。 +++ 昨日発売日だった漫画の新刊。 買ったばかりの卓上湯沸かし器。 充電器にさしっぱなしの携帯ゲーム機。 いるものは床に置いたまま、いらないものを拾い集めては白い箱の中へ放り込む。 少し床が見えてきた。空き箱はまだまだたくさんある。 よく増やすのになかなか捨てられなくて、時間が経つほど色々なものがたまっていく。 封をした箱を積み上げて、これでよしと振り返ると、片付けたはずの場所にはまた新しいごちゃごちゃしたものが地層のように積み重なっている。 白い空箱を引き寄せて、またガラクタを放り込む。 ごみ。いるもの。ごみ。いるもの。ごみ。ごみ。ごみ。ごみ。ごみ。いるもの。ごみ。ごみ。 白い箱が積まれていく。 +++ 目を覚ますと真っ暗だった。そういえば部屋の電気を消していた。 電灯のひもを2回引っ張る。最近、全部つけた状態が自分には明るすぎる。1つ消してもまだまぶしいけれど、さすがに常夜灯にすると暗すぎる。 天井にぶら下がっていたカゲボウズ達が一斉にうごめきだす。いきなり明るくなったから驚いたようだ。何匹か天井からぽてぽてと落下して、ゴミの山の上へ落ちた。 ベッドの脇のゴミの山をひっくり返してリモコンを探す。ベッドに寝転がったままテレビの電源を入れる。音量は2にしてある。ぼそぼそと何か言っているが聞き取れない。聞く気もない。聞きたくない。チャンネルは公共放送にしてある。バラエティ番組は今は見たくない。イライラする。 ちゃぶ台の上に山積みになっているゴミのせいで右下の時計が見えない。仕方なく体を起して時間を確認すると、午後9時47分だった。時間を確認したらテレビを消す。 ちゃぶ台の隅に置いていた麦茶の紙パックを手に取る。軽い。なくなっている。昨日買って来たばっかりでまだ半分くらいはあったはずなんだが。近くに置いていたチョコレートを漁る。なくなっている。 天井の辺りがざわざわしている。お前らかこの人形もどき。ふざけんなくそっ。舌打ちして天井の影をにらみつけると、何匹かが申し訳なさそうな顔になった。 その辺に投げられていた薄い上着を取って、その中に財布が入っているのを確認する。床に転がる諸々のゴミを踏みつけながら玄関へ行き、コンビニへ向かった。カゲボウズが何匹かついてきた。 コンビニから戻ってベッドに腰掛け、弁当を広げながら、電源の落ちていたノートパソコンを再び目覚めさせ、つぶやきサイトのタイムラインをさかのぼる。 ぼんやりと画面を眺めながらマウスを操作していると、カゲボウズが弁当のフライを咥えて飛んでいった。よくあることなので無視する。弁当がらと割り箸をちゃぶ台のゴミの山の頂上に置いて、またベッドに寝転がる。カゲボウズが背中に群がる。無視する。寝てばっかりだからそろそろ背中が痛いな、とぼんやり思う。 この数週間でわかったのは、人間は意外と寝ていられるということだ。確かケーシィとかいうポケモンが1日18時間寝ているとか。ということは起きているのは6時間。自分は最近1日に換算すると4、5時間しか活動していないから、ケーシィより寝ている。 寝てテレポートしているだけのイメージだけれども、ケーシィの方が自分よりまだ役に立つ。ケーシィはちゃんとバトルでトレーナーの役に立つのだから。ただこうして惰眠をむさぼるだけの自分と比べるべきじゃない。 はあ、今日もまた寝てばかりだった。ため息をつくと、背中のカゲボウズが増えた。 テストも終わった。授業はない。大学は春休みだ。世間一般では。だけど自分の研究室では、今の時期でも大学に行っていない人などいない。自分以外。理系ってそんなもんだ。 自分だって本当は行くべきだ。というか、本来自分こそが積極的に行かなければならない立場の人間のはずだ。 2回目の4年生。1回目をほとんど何もせず過ごした自分に、暇な時間など本当はありはしないのだから。 きっかけはなんだろう。去年の4月、「不可」と「放棄」だらけの通知表と共に、周りより1年長い大学生活が宣告された時か。 いや、そもそも大学側がそんな通知表を作成せざるを得なかったのは、自分が大学をサボりがちになったせいだ。 何が悪いってわけでもない。悪かったのは全部、このぼっちで、根暗で、コミュ障で、怠惰で、我が儘で、自分勝手で、空気が読めない、自分とかいうクズのせいだ。 とりあえず今の所、自分が所属している研究室に、親しい仲の人はいない。配属されたばかりならともかく、1年経ってもこの体たらくだ。いや、研究室に振り分けられたのは3年の終わりだったけど、それ以前からこの学科で親しい人などいなかったか。 気がつけば昼食も独り、広間の隅の椅子に座って食べるようになった。昼間の学食など行けるはずもない。独り飯はもう慣れっこだけど、あの大混雑の中最低4人がけのテーブルを占拠できるほど自分の神経は太くない。 残念なことに物心ついたときにはすでにコミュニケーション不全だったので、独りには慣れている。しかし、慣れていると平気は決してイコールではない。 自分だって親しい友人は欲しいし、時には好きなことについて語り合いたい。くだらない話で盛り上がりたい。誰かと一緒に飯を食いたい。自分にも親しい人が全くいないというわけでは決してないのだが、違う学科、もっと言えば違う学部、違うキャンパスだ。会えて月に1、2回。日常的に一緒にいる相手ではない。もっと身近な人とコミュニケーションを取らなければならないとは思っている。だけど他人との距離がわからない。会話が出来ないから相手に近寄れない。少し親しくなったという勘違いをすると、逆にマシンガントークになりすぎて相手の方が引いていく。 「親しくなるには自分から積極的にアプローチしないと!」とか言う人は、経験したことがないんだろう。何気ない会話の中、自分が口を開いただけで場が静まり返るあの空気も。研究室全体での飲み会の存在が自分だけ伝えられていなかったということも。出席順に割り振られた修学旅行のホテルの部屋、夜中にふと目を覚ますと、同室のふたりが自分の陰口を言い合っていたという記憶も。 そんな環境で育ってきて、自分が周りから「浮いてる」ことを自覚していて、どうやって積極的になれっていうんだ。 電灯の明かりを嫌うように、頭の先まで布団をかぶる。 かち、かち、と電灯のひもがひかれる音が2回する。そっと布団をどけると、部屋は闇に包まれていた。気の利くカゲボウズが、電気を消してくれたらしい。 あれほど寝たのに、部屋が暗くなるとまた眠気が襲ってきた。 +++ いくらやっても改善の余地が見られないごちゃごちゃしたものの層を少しずつ崩す。 箱はまだまだたくさんある。しかしそれも絶望的なほど、辺りには色々なものが転がっている。 どれだけ頑張ったところで、この場所は片付かないのだろう。そう結論付けた。 手元に転がるいらないものを白い箱に投げ入れる。 いる。いらない。いらない。いらない。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。 そのうち分けるのも面倒になって、いるものもいらないものも、手当たりしだい全部箱に放り込む。 それなのに、作業効率は一向に上がらなかった。 +++ のどが渇いた。ブラインドの外は明るかった。時計はないが、多分昼過ぎぐらいだろう。 昨日の夜コンビニで買ってきた麦茶のパックを開ける。少し頭がぐらぐらする。まるで酔ったみたいだ。酒など飲んでいないけれども。 先月末、大学院生全員が修論を提出し終わったその日、打ち上げに誘われた。 正直居辛かった。一応4年なのに卒業論文もせず、出来が悪く、怠惰で、なおかつ重度のコミュ障の自分である。酒が飲めれば多少の逃避も出来たろうが、あいにく自分のアルコール分解酵素は本体より先にニート化している。とは言っても、自分は飲み会が嫌いなわけではない。酒は飲めずとも、親しい友人と趣味や好きなことを語り合う場は楽しい。 しかし、教授がどうしても外せない用事があって、学生と院生だけの飲み会。当然のごとく、タガが外れる。 不平不満、苦情に文句、悪口、陰口、愚痴愚痴愚痴……。普段の飲み会でも多いけれども、教授がいない分3杯増しになって途切れることなく続いていく。何でこういう飲み会だと、みんなマイナスのことしかしゃべらないのだろうか。 自分は何もしゃべらなかった。誰かの陰口を叩く人は、必ず誰かに陰口を叩かれている。小学生のころから空気と同化して周りの人間を観察していた自分は、そのことをよく知っている。だからそういうことは口にしないししたくない。まあ、しゃべらないからと言って陰口を叩かれないわけではないんだけれども。それにまあ、どうせ自分が口を開いたところで、場が一気に白けるだけだ。自分が最下層のドクズであることは自覚している。クズはクズなりに身をわきまえなければならない。 1時間半の飲み会ですでに身も心も疲れ果てていたが、2次会を抜けられるような雰囲気ではなかったので、仕方なく2軒目の居酒屋にもついて行った。そこでもやはり語られるのは気が滅入るようなことばかり。引き続きジンジャーエールを飲みつつ空気に徹した。 アパートに帰る。ベッドに倒れ込む。気持ちが沈んで、頭の中で余計なことをぐるぐる考えて、気がついたら夜が明けて、眠りについたのは太陽もとうに昇った後だった。そして目が覚めた時には、空はすでに夜の帳に包まれていた。当然その夜も眠れるわけがなく、あっという間に自分の中で昼夜は逆転した。 1日だけの休み、もといサボりなら、まだ何とかなる。もし言い訳が必要になれば、前の日の飲み会で飲み過ぎて(自分は飲んでないけど)ダウンしていた、とでも言えばいい。 しかしそれが2日目になると、何となく行き辛くなる。3日目続くと、更に気持ちが沈む。土日が挟まるともう最悪だ。立ち直れない。 そうしてずるずると引きずっていった結果が、これだ。もうベッドから起き上がる気力すらない。食うものはないけど、本当はコンビニにも行きたくない。途中で研究室の人と鉢合わせしないかと、常にびくびくしながら外を歩いている。何かやる気は毛ほども起きず、ゲームもやらず、テレビや動画サイトも見なくなった。 ただしつぶやきサイトだけは毎日見ていた。独りになりたいのと同時に、寂しいところもあった。パソコンを開けば、画面の向こうに誰かがいた。世界とまだ繋がっている気がした。それから自分が見ていない間に、誰かが自分の話をしているんじゃないか。そんな被害妄想もほんの少しだけあった。しかし気力はなく、自分からつぶやくことはしなかった。他の人たちが埋めて行くタイムラインをただ黙々と読むだけだった。 ただベッドに寝転がってぼうっとしている。気がつくと寝ていて、またおかしな時間に目が覚める。つぶやきサイトを見て、空腹だったらコンビニへ行き、また眠る。 何もしない毎日。ただただ、憂鬱な気持ちが胸の奥にたまっていった。まわりはみんな真面目に大学生活を謳歌しているというのに、自分は何もせず、毎日だらだらと寝ているだけ。 自分に生きている価値なんてない。 死ねばいいのに。 それが自分というクズに対する、率直な気持ちだった。 だけど、と部屋を見る。足の踏み場もないこの部屋。一時期はやった断捨離とやらとは全く正反対の、物であふれかえった部屋。片付ける気力も起きなくて、ゴミが何層にも積み重なった部屋。 死ねない。この状態じゃあ死ねない。こんな部屋のまま死んだら、実家の家族やらアパートの大家さんやらその他大勢の人たちに迷惑がかかる。ただでさえ迷惑な存在だというのに、それ以上の迷惑をかけてどうするのか。 死ぬことさえできない。死ぬ権利すら、自分にはない。 頭が重い。ため息をついて布団に潜ると、またカゲボウズが寄ってきた。 +++ 夢と現の境目を漂っている時、よく見る光景がある。 真っ白な空間に自分がいて、あたりはゴミやがらくたや必要なものや、色々なものがごちゃごちゃになって転がっている。 自分は辺りに転がっているものを手当たり次第、真っ白な箱の中に放り込んでいく。いるものも、いらないものも。 いっぱいになっては封をして、白い箱を積み上げていく。 どんなに箱を積み上げても、ごちゃごちゃしたものはなくならない。気がつくと、どんどん辺りに転がっている。 ふと自分は気がついた。 カゲボウズがたくさん群がってきた時は、転がっているものが格段に少ない。 理解した。ここは自分の心情を映した場所なのだ。 ごちゃごちゃしたものを拾い集めて、まとめて、気持ちの整理をつけようとしているんだ。 自分に群がってきたカゲボウズが感情を食べるから、辺りに転がっているごちゃごちゃしたものの量が減っているんだ。 +++ まぶたを開くと、数え切れない3色の目がこっちを見つめていた。 頭が痛い。肩が凝っている。ずっと寝ているからだ。頭への血流が悪すぎる。元々運動しない人間なのに、何週間も歩いて3分のコンビニに行く時以外ずっと寝ているなんて、不健康この上ない。 ため息をつくと、カゲボウズ達がぽてぽてと掛け布団の上に落ちてきた。 カゲボウズが初めてこの部屋に現れたのは、引きこもり初めて3日経った頃だった。 最初は1匹。次に目が覚めると3匹。自分が寝るごとに、どこからか現れて数を増やしていった。窓は閉め切ってブラインドも下ろしているのに、どこから入ってくるのか。ゴーストタイプに壁は関係ないとでも言うのか。 正直言って、鬱陶しかった。でも追い払う気力も方法もないし、これと言って害があるわけでもないし、最終的にはもうどうでもいい、となった。 カゲボウズはマイナスの感情を食べるらしい。カゲボウズ達に沈んだ気持ちを食べてもらって、リフレッシュする人も少なくないとか。このストレスフルの時代、カゲボウズカフェがエネコカフェやイーブイカフェなんかと同等か場合によってはそれ以上の盛況を極めていると聞いた。自分はその店に行ったことないしそもそも本当に存在するを見たこともないので、真実はどうか知ったこっちゃない。 ゴーストタイプを専門に研究してる研究者が大真面目な顔で感情を食べるとかいうもんだから本当にそうなのかもしれないけど、自分は信じない。なぜなら、カゲボウズならこの部屋にも山ほどいるのに、自分の心は全く晴れないからだ。 自分が心の中で悪態をついたり、堪え切れなくなって布団にもぐりこんだりした時、奴らは群がってくる。これは明らかに飯を食いに来ている。本当に奴らが感情とやらを食うならば。こっちがため息ついて寝転んでいる時に限って奴らはうっとりした顔になっているから、実際に食っているのかもしれない。奴らにとって自分とこの部屋は、四六時中マイナスの空気が漂う格好の餌場なのだろう。 もういいよ。餌で。それでお前らが満足するんなら。どうせ自分はクズだし。何にもしてないんだから、そこらにいるポケモンの役に立つならその方がずっといい。 心の中でそう呟くと、部屋中のカゲボウズが自分に群がってきた。 ずきりずきりと痛む頭の中が、徐々に白くなっていく。 +++ ごちゃごちゃしたものは驚くほど少なくなっていた。 転がっているものを拾って、白い箱に投げ入れる。いるものも、いらないものも。 色々なものが詰め込まれた白い箱が積まれている。 積み重なっていたごちゃごちゃしたものはきれいさっぱりなくなって、真っ白な床が見えるばかりだった。 だけどそこにはもうひとつだけ、まだ中身のない箱があった。 他の箱よりひと回り大きな、白い箱。 その中に詰められそうなものは、この場所には、自分自身しかなかった。 +++ 自分が突然カッと目を見開いたせいか、群がっていたカゲボウズ達は驚いて天井の方へ逃げて行った。 引き続き頭が痛い。さっきよりひどくなった気がする。首を回すとバキッ、と嫌な音がした。数え切れない3色の瞳が、こちらをじっと見つめてくる。 嘘つきめ。誰だ巷ではカゲボウズカフェが流行ってるとか言ったの。 ひどく憂鬱だ。全然すっきりしないじゃないか。 感情を食われ続けたらどうなるんだろう。前どっかで聞いた話では、最終的に負の感情の原因となったことや人を忘れてしまう、らしい。なるほど、原因がなくなれば嫌な思いをしなくなる、ということか。一理ある。 だけど、と自分は考える。 忘れてしまえば心はマイナスの感情を出さなくなるのか、と言われればそうではない気がする。少なくとも自分は、何か嫌なことがあって、それで憂鬱になって、その原因となったことをきれいさっぱり忘れてしまっても、記憶に開いた穴が原因でまた鬱になるだろう。何で自分は思い出せないんだ、と。 きっと、自分の穴は大き過ぎるのだ。 なぜなら、この鬱々とした心地の根幹にある、自分が一番嫌いなものは、他ならぬ自分自身なのだから。 例え自分自身のことをすべて忘れてしまったとしても。 自分はきっと、自分のことが思い出せない自分を嫌いになるだろう。 心のマイナスに、きっと底なんてない。 傍らの本のゴミの下敷きになっている携帯のバイブレーションが振動し始めた。自分にまた近づいてきていたカゲボウズ達は弾かれたように散り散りになり、自分はとっさに掛け布団に潜り込んだ。 1回。2回。3回目が鳴った。電話だ。体の芯がひやりと冷える感覚がした。呼吸が乱れ、心臓が早鐘を打ち、額から嫌な汗が流れおちる。マナーにするならバイブも切っておけばよかった。そんな後悔の念が頭をよぎった。 永遠にも思われる12回の振動を終え、携帯は静かになった。そっと携帯を掘り出して見ると、通話の赤いランプがちかちかしている。外画面には「留守録音中」という文字が点滅していた。 やがてランプは消えた。確実に消えたのを何度も確認し、おそるおそる携帯を開いて着信履歴を確認してみた。発信元は同じ研究室の、去年まで同級生だった奴だ。 カゲボウズ達が不思議そうな顔をして近寄ってくる。自分はズボンで手汗を拭いて、深呼吸をし、震える指でボタンを押して、携帯を耳に押し当てた。 内容は業務連絡のようなものだった。研究室のデスクの場所を変えたこと。自分が窓際の隅の席になったこと。来年度の予定を決めるから、3月30日の10時半からゼミがあること。場所は会議室であること。31日から4月3日まで、教授が出張でどこかへ行くこと。 それから、とそいつは少し沈黙してから、言った。 「……ぼちぼち大学来ないとヤバいと思うから、そろそろ来た方がいいと思うよ」 じゃあな、と言って留守電は切れた。 携帯を畳んで、ベッドに寝転がって布団にもぐりこむ。大きく息をつき、気がつくと自分は、くっくっとのどを鳴らして笑っていた。 ざわざわと部屋が揺れる。自分は声を上げて笑っていた。 クズはこれだから困るのだ。 自分のことをほんの少しでも気にかけてもらえたと思うだけで、馬鹿みたいに安心するんだから。 +++ ごちゃごちゃしたものは全部、箱の中に詰めて積まれている。 目の前には少し大きな白い空き箱。 自分は右脚を上げると。 空の箱を思い切り、蹴り飛ばした。 そして積まれた白い箱を手に取り、封を開け。 中身を全部、床にぶちまけた。 +++ 目が覚めると、静かな薄暗い部屋だった。枕元の携帯を手に取り時間を見ると、3月25日の朝8時半だった。 天井を見上げた。ああ、静かだと思ったら。カゲボウズが1匹もいない。腹いっぱい感情を食って満足したのか、それとも自分に飽きたのか。 身体はだるいし、頭も痛い。すっきりとした目覚めとは程遠い。気持ちは相変わらず陰鬱だ。 でも久々に、こんな時間に起きたのか。とりあえずシャワーでも浴びて、身体を洗って、それでもし気が向いたら、大学にでも行くべきか。だるいけど。かなりだるいけど。 部屋を見渡した。 ちゃぶ台の上には片付けていない食器。床にはネット通販の段ボールの山。ベッドの右半分には本と漫画。枕元にはスリープ状態のノートパソコン。部屋全体に種類様々な大量のゴミ。どこにも足の踏み場はない。 あまりにも悲惨な部屋の状況。 でもこれでいい。今はまだ、このままでいい。 いるものも、いらないものも。 嫌いなものも、自分のお気に入りも。 全てがぐちゃぐちゃに積まれたこの部屋で、もうしばらく自分は生きていく。 +++++++++The end |