さっきまでうたた寝していた目には、西に傾いた太陽の光もまぶしい。僕は目を閉じてまぶたを手で押さえた。
 深呼吸してからゆっくり目を開けば、そこに広がっているのは赤茶色の乾いた荒野。白くて丸い屋根の建物がその中にいくつか建っている。

 アローラ地方、ウラウラ島、ホクラニ岳山頂。
 そこに鎮座する十三の天文台のうちのひとつ、銀の筒状をした特徴的な建物。そこが僕の仕事場だ。



+++知りたがりのプレアデス+++



 世界一澄んだ空気を大きく胸に吸い込む。吐き出す息は白く、風が吹けば頬が裂けそうな冷たさだ。
 標高4200m。空気は地表の60パーセント。気温の逓減率は100mでおよそ0.65℃。つまりホクラニの山頂では、麓のマリエの街がたとえ常夏30℃でも、単純計算すると2.3℃しかない。風があると体感温度は更に低い。極寒である。陽気なリゾートの気配はこの場所では影も形もない。

 下を見れば見渡す限りの雲海。ここはまるで絶海の孤島のようだ。あ、すぐ近くにラナキラの山頂も顔を出してるから群島か。
 白い雲の水平線に、もうすぐ夕日が沈むという時間帯。空気が澄み、雲より高く、遮るもののないホクラニ岳山頂は、アローラで夕日を見る隠れた名スポットだ。島巡りとやらの試練の場所も兼ねているとか言う隣の天文台の前には、日没を見ようとたくさんの観光客が押し寄せていた。
 しかし、僕らはのんびり眺めている余裕はない。何せ日が沈んだその瞬間、僕たちの仕事が始まるのだから。

「アマミヤ、目が覚めたんなら早いところ準備手伝って」

 六連星のマークがついたオフロード車から荷物を下ろしながら声を投げてきたのは、上司のミズサワさんだ。ういっす、と返事をして小走りで車に向かう。走らない、とミズサワさんから即座に厳しく言葉が飛んだ。
 まだ下界での習慣が抜けきらない僕の後ろを、突起が五つついた直径30cmほどの岩の塊がふよふよと漂いながらついてくる。その数、七つ。ホクラニ名物とも言われているポケモン、メテノだ。

 荷物を抱え、望遠鏡が収められている円筒形の建物の横にある観測棟に入る。人の体温で気流が乱れ、撮影した像がぼやけてしまうから、観測中に望遠鏡のある建物には入れない。望遠鏡を見るというのは直接のぞくわけではなくて、出てきた画像やデータをコンピュータで解析していく作業だ。

「アマミヤ、湿度確認して。あと上空の気流」
「湿度8%、気流やや強めです。観測には問題ない程度かと」

 ミズサワさんの指示を受け、書類の整理をしながら空の様子を見る。せわしなく動き回る僕とミズサワさんの横で、望遠鏡を操作するオペレータのアスタさんが黙々と動作チェックをしている。上空の風が少し強いけど、湿度は低いし雲もない。今の状態なら今夜は調子よく観測できそうだ。
 メテノたちは観測室の中をふわふわとフリーダムに移動している。何となく邪魔をしてはいけない場所はわかるのか、コンピュータの方には近寄らないし、忙しそうな人からも距離を取る。よく出来た奴らだ。
 日が沈み、澄み切った空に夜の帳が静かに降りる。よろしくお願いします、とモニタの向こうの研究者に声をかける。観測の始まりだ。

 僕の仕事はサポートアストロノマー。研究者が望遠鏡を使う時、上手く観測が出来るように機器の調整や分析の手伝いなど、あらゆる面でサポートする仕事だ。最近はリモート技術が進歩してるから、研究を行う天文学者は麓の研究所や、場合によっては地球の裏側にあるカントー地方から遠隔通信したりする。まあ何て言ったって望遠鏡は標高4200mの高地にある。当然危険だし体にもかなりの負担がかかる。だから最近は天文学者はここまで上がってこないことも少なくない。今日も研究者は麓から通信で参加だ。
 でも、望遠鏡はものすごく精密な機器だから、操作を遠隔で行うことはできない。毎回何かしらトラブルは起こるし、そういう時即座に対処できるようにしておかないといけない。だから、たとえ研究者が麓にいても、望遠鏡を操作する時は必ず僕みたいなサポートアストロノマーと、望遠鏡の操作をするオペレータさんは山に登るのだ。
 基本的にはサポートアストロノマーはひとりなんだけど、僕はまだまだ未熟なため、上司のミズサワさんが指導についてきてくれている。一人前のサポーターになるには時間がかかりそうだ。

 僕がこの望遠鏡で働き始めて半年と少し。まだまだ新人である。
 宇宙を見上げる目は、カントーと同じ大きさまで引き延ばしても紙一枚分しか凹凸のない、この世界で一番大きくて精密な一枚鏡。この望遠鏡は僕の国が持っている施設の中で、最も優れた技術を誇る。つまり周りの研究者さんたちは、誰も彼も学会で名が知れていたり他の天文台で素晴らしいキャリアを積み上げたりしてきた、選び抜かれし精鋭たちである。そんな中、僕はなぜか新卒でここに就職してしまった。
 大学で天文学をやっていたのだけれど、何をとち狂ったか博士課程後期まで進んでしまった。博士課程後期、それはある種の墓場である。一般企業はなかなか拾ってくれない。経営者になったつもりで考えてみて欲しい。十年近く自分の研究「だけ」やってきた人間を、自分の会社で雇いたいだろうか。その上天文学というのは、職場選びにおいて有利になることは何もない分野のひとつである。せいぜい話の種になるくらいだ。三十路近いノーキャリアの門外漢、かつ博士号などという大層なものだけは無駄に持っている人間。自分の会社で育て上げたい人材だろうか。少なくとも僕なら嫌だ。
 そういうわけで、うっかり博士号など取ってしまった人間の行き着くところは研究職である。天文学の場合はどこかの天文台職員か、大学教員かの二択になるだろう。問題は、どちらも新人の入る隙間がなかなかないと言うことだ。最近は勉強よりポケモンを扱う技術の方が重要だろなんて理由で、若者の学歴離れとかいって大学どころか高校まで進む人すら少なくなっている世の中ではあるけれども、研究職というのはポストが開かないと入れないものなのだ。特に大学教員は。デスクを置ける部屋には限りがあるのだから。
 とにかく僕は研究者になろうとしてあらゆる大学のポスドク……研究室付の博士研究員やら助教やらの公募を受けまくり、見事に落ちまくった。天文学を本格的にやっているところが少ないのもあるし、そもそも雇ってくれるだけの予算がない。原因は僕ら研究者共通の敵である、俗に言う「で、その研究って何の役に立つの?」現象である。天文学が生活に直に役に立つと思っているのか。立つわけないだろう。
 とうとう万策尽きた僕はふと、ホクラニ山頂にあるこの望遠鏡のホームページを見た。公募があった。条件が博士号を持っていることだったので応募した。そして何やかんやあって通ってしまった。正直自分でも何が起こったのかわからない。まああえて言うとすれば、縁があったのだろう。とてもありがたいことに。
 そして僕は故郷を離れて異国の地、常夏の国アローラはウラウラ島へやってきた。大洋のただ中、ホットスポットによって形成された火山の島である。

「ミズサワさん、湿度上がってきました」
「80超えないといいんだけどねえ。」

 湿度が80%を超えると、望遠鏡の結露防止のため観測ドームの屋根を閉めなければならない。当然観測は中止だ。研究のため望遠鏡を使いたい人は山ほどいる。使用するには長々とした細かい申請を書いて、審査に通らなければならない。倍率はそれなりに高い。数年待ちの人だって珍しくはない。もちろん、それだけこの望遠鏡の精度がよくて、使いたい人がたくさんいるってことでもあるんだけれども。とにかく研究者さんが必死の思いで獲得した観測のチャンス、なるべく長い時間空を見たいのは当然だ。
 望遠鏡から送られてきたデータに軽く目を通す。本格的な解析は下山してからだけど、簡単な処理はその場でやってしまう。
 羅列された数字を見ながら、7かける8って56で合ってましたっけ、とつぶやく。電卓使いなさい、とミズサワさんが言い、机の上の書類の下敷きになってるぞ、とアスタさんがモニタを見つめたまま言った。
 何せ空気が薄いので、頭がぼんやりする。簡単な計算が怪しくなる。初めのうちはひどかった高山病も体が慣れてきたのか、最近は酸素吸入器もほとんど使わない。ただ計算は相変わらず駄目である。間違えるとえらいことになるので大人しく電卓を使うことにする。
 メテノが書類の山の下に器用に突起を潜り込ませて、電卓を引っ張り出す。ありがと、と撫でると嬉しそうに部屋の中を飛び回った。やっぱりこんなところでも元気ねえ、とミズサワさんがコーヒーを飲みながらつぶやいた。


 雲海の向こう側から陽が昇ってくる。夜の終わりと共に、今日の観測も終了だ。
 幸い大きなトラブルもなく、順調に観測は終わった。お疲れ様です、とモニタの向こうに声をかける。
 取得したデータをまとめ、下山の準備をする。アスタさんは望遠鏡の様子を見に行き、ミズサワさんと僕は荷物を車に積み込む。
 さ、アスタさん戻ったら降りて朝食にしましょうか、とミズサワさんがキーホルダーの穴に指を突っ込んで鍵をくるくる回す。

「あ、ちょっと草むら行ってきていいですか?」
「アマミヤ、また流星拾い? ほどほどにしときなさいよ。一晩体酷使してるんだから」

 了解です、とあくびをかみ殺しつつ、近くの地面にへばりつくように群生している高山植物の草むらへ向かう。待っててあげるから早く帰ってきなさいよ、というミズサワさんの声に、右手を挙げて返事した。
 七匹のメテノたちがふよふよと、僕の後ろをついてくる。

 外見ではわからないけれども、くすんだ茶色の外殻に包まれたコアは赤、橙、黄、緑、青、水色、紫で、全部違う。名前は一応それぞれマイア・エレクトラ・タイゲタ・アルキオネ・ケラエノ・アステローペ・メローペとつけた。プレアデス星団の名前の元ネタであるプレアデス七姉妹から拝借した。だけれども、実は普段は全然その名を呼んでいない。何せ殻にこもると何色かわからないから。メテノたちも自分がどの名前かいまいち把握していないようなので、しょうがないから全員まとめて、プレアデス星団のこの地方での呼び名である「マカリィ」と呼んでいる。
 なぜその名前をつけたかというと、何というか、彼らの生態を知った時に、ふとあの星のことを思い出したからだ。

 プレアデス。冬の星空に輝く散開星団。肉眼では六つの星が見えやすい。
 青白く、明るく輝く星だ。周囲がぼんやりと輝いているのは、星のもととなる星間物質がまだあたりに漂っているから。この星はとても若い。生まれてからたったの6000万年くらい。この星や太陽が46億年なのと比べても、ものすごく若いことがわかるだろう。青白く見えるのは、星の表面温度がとても高いから。僕たちのいる場所から400光年先にある、若くて、大きく、激しく活動している星だ。
 しかし、この星の寿命はとても短い。恒星は激しく活動すればするほど、その一生を早く終える。6000万年前に生まれたばかりのこの星々は、あとたった1000万年で、爆発して砕け散る運命だ。

 儚く砕け散る。それが、僕がメテノを見た時、あの星々を思い出した理由。
 メテノの外殻はとても堅く、普段はそれで身を守っている。しかし何らかの理由、まあ大体は普段住んでいる成層圏から地表に落下してきた衝撃でひびが入ってしまうことだけれども、殻が割れてしまうと、彼らは長く生きられない。普段は上空およそ20kmの成層圏で、大気中の微小粒子を取り込んでは外殻を強化しているのだけれども、大気の構造が異なる地表、もとい対流圏に落ちてしまうと、外殻の再生がなかなか上手くいかないみたいだ。
 メテノの体はとても脆く、簡単に崩壊してしまう。大きめのエアロゾルや風などの刺激に耐えられない。殻が壊れたまま放置しておくと、夜中に落下した個体は夜が明ける頃にはほとんどが消えてしまう。
 これを防ぐ方法で人間に出来ることは、ボールに入れることだ。ボールに入れることで外気から遮断され、コアが守られるだけではなく、ボールの中はポケモンにとって過ごしやすい環境というのは本当らしく、成層圏にいた頃のように殻を再生させることが出来る。
 流星拾いというのは、ホクラニ岳の天文台群に勤める一部の人の間で行われている、外殻を損傷したメテノをボールに収めていく作業のことだ。メテノをボールに入れて、外殻を再生し、野に返す。メテノが落ちてくるのは自然現象だから本来は人間が手を貸すことでもないんだけれども、やっぱり目の前で傷ついているポケモンがいると手を出したくなるのが人間ってもんだ。
 僕の後ろをついてきているメテノ、もといマカリィたちは、この作業を行って逃がす算段になった時、なぜか僕に懐いてしまって野生に戻らなかった子たちだ。今のところたまたま偶然七色そろっている。それにしても、ここで働き始めて半年と少し。それでこの数である。これ、今後仕事を続けてたらいったいどうなるんだろう。職場がメテノだらけになりそうだ。
 ミズサワさんの言うとおり、ほどほどにした方がいいのだろう。でも、どうしても、僕は流星拾いがやめられなかった。


 標高2700mにある、研究者のための宿泊施設。ホクラニ岳山頂にある全ての天文台の関係者たちが、高地に体を慣らすためここに立ち寄る。標高4200mという高地は人の体にかなりの負担を強いるので、研究者も観光客も、山頂へ上がる前に中腹にある施設で必ず三十分以上の休憩を取らなければならない。観光客が主に僕らの望遠鏡のお隣であるホクラニ天文台に向かうのに使用しているナッシーの頭としっぽがデザインされたバスも、観光客向けのビジターセンターで休憩を取っていたはずだ。
 夜に観測を行う研究者は、前日の夜からここに泊まって高所に体を慣らし、観測が終わったあとはここで朝食を取って下山する。全ての施設の研究者が使うので、どの天文台の人たちもそれなりに見覚えがあったりなかったりする。
 というか、僕がいつも後ろにメテノの集団を引き連れているので、働き始めて半年にしてなぜかそこそこ有名になってしまった。ロビーや食堂に入ると他の天文台の人に「あ、メテノの奴だ」って言われるし、食堂のコックさんも「いつも流星拾いお疲れさん!」とか言ってくるし、もしかしたらここの人たちには僕の本業は流星拾いだと思われているのかもしれない。何だか複雑だ。

 朝食を受け取って、適当ないすに座る。
 今日はこのまま休日。今日から地上だから豆もキャベツも解禁だ。酒も飲める。いやっほう。明日からは三日ほど麓の研究施設で勤務。休みを挟んで、その次の日は午前中は地上、夕方からこの宿泊施設に来て一泊、次の日の夜にまた望遠鏡。今週は天気も良さそうだし、休みはどっか出かけるかな。
 そんなことを考えながらぼんやりと朝食のカリカリ揚げベーコンをバリバリ噛み砕いていると、デイクルー、つまり望遠鏡の整備や建物の保守をしている日中勤務のオカヤマさんが声をかけてきた。

「よ、アマミヤ。おはようさん。昨日の夜は気流強めだったみたいだけど、今日も流星拾いしてきたのか?」
「おはようございます。はい。一匹見つけたんで、ボールに入れときました」
「おー、またアマミヤのマカリィちゃんが増えるか。本物の星団みたいに大家族だなあ」

 まだ保護しただけで僕のポケモンじゃないですから、と言いながら、机の上に山積みになっているヨーグルトから適当な奴をふたつほどひっつかむ。かなり甘いから最初は面食らったけど、慣れるとレアチーズケーキみたいで結構美味い。
 ああ、そういえば、この前の却下されたし望遠鏡の申請出さないとなあ。サポートアストロノマーだけど、自分の研究ももちろんある。望遠鏡を使うには申請を出さないといけない。職員だからって優遇されることはない。平等で厳しい世界だ。
 でもとりあえず、今は寝たい。徹夜明けだからな。眠いに決まってる。
 アマミヤ、コーヒー飲んだら下山するわよ、と、ミズサワさんが湯気の立つカップを持って声をかけてきた。ういっす、と僕はヨーグルトを片付ける作業に戻った。





 目が覚めたら昼下がりだった。頭をボリボリかきながらベッドから起き上がると、部屋の隅で転がっていたマカリィたちが浮き上がって僕に着いてくる。睡眠は必要ないらしいが、僕が寝ている間はその辺を飛んだりせずごろりと床に転がっていることが多い。暇なのだろうか。
 適当にテーブルに置いていたパンをむしって食べつつ、洗濯機を回す。冷蔵庫を開けると、牛乳とマヨネーズと缶ビール一本しか入っていなかった。おおう、こりゃまずは買い出しだな。今日の予定が決まったので、残りの牛乳とパンを処理しながらテレビをつける。コメディドラマを途中から見て、CMで近所のマラサダ屋に新味が出たことを知る。地獄のカラサダって一体何を入れたんだろう。怖い。
 腹を満たしたら、適当に身なりを整えて家を出る。もちろん、マカリィたちも着いてくる。

 家を出るなり、近所の子供たちが「あーっ! メテノのおじちゃんだ!」と言ってくる。やっぱり後ろにずらずら連れていると目立つ。と言うか僕はまだおじちゃんじゃなくてお兄ちゃんだ。多分。ぎりぎりで。
 子供たちが駆け寄ってきて、マカリィたちをぺしぺしと叩く。この子何色? 何色? と無邪気な顔で聞いてくる。僕は叩かれているマカリィをそっと避けてやりながら、何色だろうねえ、と適当に答えを流す。じゃあ黄色! と謎の確信を持って色を決め、メテノは黄色! と叫びながらテンション高く走って行ってしまった。叩かれていたマカリィにお前黄色? と聞くと、ふるふると体を横に振った。単なる当てずっぽうだったらしい。まあ、あの子が黄色だと思ってるなら別にそれでいいけど。

 スーパーに到着し、買い出しを開始する。山に登る日は食事が出るけど、そうでない時は基本自炊だ。料理は面倒だからやりたくない方だけど、アローラに来たばっかりの時トラウマを植え付けられて以来総菜を買うのが怖くて手を出せていない。ごく一般的なレタス、ハム、チーズのサンドイッチだったんだ。だったはずなのに、なぜあれはあんなに薬品臭かったんだろう。何が薬臭かったんだ。それを入れていたリュックサックにまで臭いが染みついて、とれたのが半年以上経ったつい最近だ。これがアローラの洗礼かと思った。トラウマである。いや多分まともなのはあるんだろうけど、まともな方が多いと思いたいんだけど、とにかく僕はもう怖くて駄目である。加工のないパンと近所の店のマラサダしか信じない。
 きのみと、リンゴと、野菜と、塊肉と、チーズと、牛乳と、ビール。魚が食べたいけど冷凍だからなあ。解凍面倒くさいなあ。というか今日は何食べよう。適当にかごに食材放り込んでるけど何も考えてなかった。手の込んだものは作りたくない。かといってビール飲むのにつまみがないのも辛い。山に登る前は酒飲めないんだから今のうちに堪能しておくんだ。しかしどうしよう。優柔不断で決められない。困った。このままじゃまた近所の店のマラサダとリンゴの組み合わせになってしまう。
 メテノは僕の後ろをふよふよ自由に着いてくる。こいつらは楽だ。えさがいらないから。空気中の粒子だけで生きていけるエコな体質だ。家計に優しい。僕もそんな感じで夕飯のメニューに悩まない人生を送りたい。

 お、アマミヤじゃん、と声をかけられた。デイクルーのオカヤマさんだ。山から下りてきたらしい。
 平日にスーパー来るとか珍しいですね、と僕が言うと、今日娘の誕生日だからケーキ受け取りに来たんだよ、と言ってきた。
 スーパー内のケーキ屋で、オカヤマさんはネオラントの砂糖菓子が飾られた鮮やかなスカイブルーのケーキを受け取る。おおう、とまだカントーの感覚が抜けきらない僕は蛍光色の鮮やかさに体を震わせる。

「慣れないか」
「こればっかりは慣れないっすね」
「そうか、俺はそろそろ慣れた」

 お前甘いの好きだから平気だろ、と言ってくるけど、その青はちょっときついっす、と首を横に振る。
 ついでだからとスーパー内を一緒に物色しながら、今日の夕食についてアイデアを求める。俺はローリングドリーマーでオチムシャ懐石食いたい、と先輩が返す。シンプルな米、味噌汁、漬け物のセットは大変魅力的だけど、お値段が凶悪だ。そうそう気軽には食べられない。
 お菓子売り場で、お、と先輩が足を止めた。お前青でもこれならいいだろ、ぴったりじゃん、マカリィちゃんっぽいし、と袋を渡してくる。
 中に入っているのは金平糖。マリエはカントーやジョウトの人たちが開拓した町のせいか、僕らの故郷の食べ物も割と置いてある。これもその一種だろう。
 青っぽい色合いで統一されたかわいらしい星形のお菓子を、僕は首を横に振りながら棚に戻した。

「お? お前金平糖駄目?」
「ええ、ちょっと、青い奴だけは……」
「何だよお前、健康面か? 合成着色料ガーとかそういうあれか? ロハスなのか?」

 そういうのじゃないっす、と苦笑いしながら、何となくマカリィの殻に似ている気もする歌舞伎揚げをビールのつまみ用にかごに入れた。





 山に登らない日は地上勤務だ。
 ホクラニ岳の麓の観測所に、愛用のバイクで乗り付ける。バイクに乗っている間、マカリィたちは僕の背中にぴったりとくっついて飛んでくる。僕の方もそれなりに速度を落としているにしても、マカリィたちは結構速度を出して飛べるみたいだ。ポテンシャルが意外と高い。
 バイクを停め、入り口横のククイの木を通り過ぎてオフィスへ入る。おはよーございます、とあくび混じりに自分のデスクへ行く。おはよう、と隣のコーヒーの香り漂うデスクからミズサワさんが返事を返してくる。

「アマミヤ、今週末はジョウトのノベヤマさんね。計画書読んで、システムチェックしといて」
「中間赤外線ですか? 最近多いですね」
「観測できるところあんまりないからね。ノベヤマさんはベテランだから、ま、あんまり心配はしてないけど。あと、これの感想」

 そう言ってミズサワさんはコーヒーの入ったカップを渡してくる。この人はコーヒー党というか布教に熱心すぎて他の人に若干避けられている。一番新人かつデスクが隣の僕は、毎日この人が入れた産地や淹れ方の違うコーヒーの感想を述べる義務を負っている。有り体に言えば他の人に被害が及ばないための生け贄である。まあ、コーヒーは嫌いじゃないから良いんだけど。
 コーヒーを受け取って、一口すする。いつものグランブルマウンテン、じゃないですね、と言うと、ミズサワさんはほう、と感心したような顔を見せた。よくわかったわね、それはグランブルマウンテンをベースに昨日の夜私がブレンドしたものよ、と得意げに言う。雑味が多いからいつものグランブルマウンテンの方が好きですね、と言うと頭をはたかれた。
 おっはよー、とオフィスにひときわ明るい声が響く。所長のミタカさんだ。いつも鮮やかな色のシャツに短パンの陽気なおじさんである。趣味は釣りとダイビング。海の底から山の頂上まで行くバイタリティあふれるナイスガイだ。

「おはようアマミヤ君! おや、今日は何だかマカリィちゃんたちの調子が悪いね?」
「おはようご……そうですか?」
「そうだよ! ほら、何だかだるそうじゃないか」

 そう言ってミタカさんは僕のデスクの足下を指さす。普段ふわふわ浮かんでいるマカリィが床に転がっている。

「ああ、そろそろ殻交換の時期ですからね。重いから浮いてないだけで、多分調子は悪くないと思いますよ」
「そっか! まあ、大事にしてあげなよ! うちのマスコットなんだからね!」

 マカリィがゆらゆらと船のように揺れて少しずつ移動し、ミタカさんの足もとで止まる。おおかわいいねえ、とミタカさんは屈んでマカリィを撫でる。
 ミズサワ君、僕にもコーヒーちょうだい! と言いながら自分のデスクへ向かう所長の背中を見る。いつの間にマカリィたちはマスコットに認定されたんだろうか、とぼんやり考えながら本日のノルマのコーヒーをすすった。



 休日前の夕方、ハンマー片手に、マカリィを庭へ呼び寄せる。
 ハンマーで茶色の岩を叩く。パリパリと殻がはがれ落ち、中のコアが露わになる。こいつは紫だからメローペか。食べる粒子によって色が変わると言うけれども、どうやらそれは誕生間もない頃の話のようだ。常に一緒にいるマカリィたちは、今も相変わらずの七色である。
 本来の住まいより粒子の多い地表に降りてきたメテノは、豊富な微粒子を取り込みすぎ、殻が成長しすぎて上手く浮かべなくなってしまう。特に僕は普段マカリィたちをボールに入れずに連れ歩いているので、普通のトレーナーたちより殻が重くなりやすい。だから三週間に一回くらいの周期で外殻を割ってやる。もちろんそのまま放置していたら消えてしまうので、少し自由に遊ばせてからボールにしまう。一晩か二晩すれば殻が元通りになる。ポケモンセンターに預けたらもっと早いけど、一度預けてみた時の感触がマカリィたちのお気に召さなかったのかいまいち不評だったので、僕は自然回復に任せている。
 強く叩くなりして一カ所ひびが入ると、案外簡単に砕けて全部がはがれ落ちる。堅いのか脆いのかよくわからない。殻を割ると、自分を守るものがなくなったというのに、マカリィたちはまるで煩わしい仮面を外して息がしやすくなったようにぷはっと音をさせて呼吸をし、やっと自由になったとでも言うように、楽しそうに元気に飛び回る。普段は隠れているけどきちんと感情を見せる口。巻きの緩い銀河みたいな両目。いや、足が片側しか伸びてないから銀河とは違うか。そもそもこいつら、流星のように言われるし確かに空から来てるのだけれども、住んでいるのは成層圏だ。思いっきりこの星の大気圏内である。こいつらが住んでいるところから宇宙までまだ80kmある。
 マカリィ全員の殻を剥がし終えたら、ポケリゾートとかいうところの特産品とか言うポケマメを食べさせる。メテノは大気中の微粒子があれば生きられるので口から食べるものは特に必要としないのだけれど、せっかく口が出たからと一度与えてみたら気に入ってしまったらしい。主食とおやつは違うということなのか。
 ポケマメを食べると、マカリィたちはとても嬉しそうな顔をする。殻に包まれているといつも同じように見えるのだけれども、コアは結構表情豊かだ。ポケマメを与えれば喜ぶし、五つの突起の部分を触ると気持ちよさそうだし、気に入らないところを触ると怒り出す。
 パステルカラーの体に浮かぶ何だか間の抜けたこの顔が、悲しさや苦しさを表すことがあるのも、僕は知っている。

 朝目が覚めると、床には何も転がっていなかった。マカリィをボールに入れているからだ。殻を割った次の日は、何だか部屋が広くなった気がする。
 今日は仕事が休みなので、ちょっとばかりウラウラ島のツーリングとしゃれ込むことにした。
 島のほぼ反対側にある、ウラウラの花畑まで行こうと思う。火山地帯を抜けて、船で海を渡り、少し熱帯雨林をくぐったところだ。
 彼女でもいれば楽しい小旅行になるだろうけど、あいにくその気配は一切ない。友人と一緒もいいが、僕以外の職員はほとんどが既婚者かつ子持ちである。たまたま休日が被っても、休みは家族サービスに費やす人たちばかりである。独り身の辛さが身にしみる。
 まあ、一人旅は気楽だし、いいけど。僕はマカリィたちの入ったボールをリュックに詰めて、バイクにまたがり、マリエの街から南へ向かった。


 マリエから南へ向かうと、ホテリ山の麓に出る。
 ホテリ山は現在、アローラの島の中で最も活発に活動している火山だ。僕の職場であるホクラニ岳は休火山、一番高いラナキラマウンテンは活火山であるけど現在の活動は控え目だ。
 アローラの火山はどこも溶岩の粘性が低く、噴火も大人しい。爆発することは滅多になく、溶岩をだらだら垂れ流す独特の噴火だ。そのせいか活火山すら観光地となっている。
 ただこの流れる溶岩というのが曲者で、どこにどのぐらい流れるかは、ホテリ山に住まうという気まぐれな火山の女神のみぞ知る。動きはゆっくりだから人的被害は滅多に出ないが、建物が溶岩に飲み込まれるのは珍しくもない。
 ホテリ山の東側山嶺は一面が溶岩チューブだ。要するに流れた溶岩の表面だけが固まり、空洞になっている。噴火して流れ出た溶岩はそのチューブを通って流れるものも多い。場合によっては流れ出た溶岩が海まで到達し、海へ突入して陸地を拡げることもあるようだ。高温の溶岩が海に流れ落ちるので、まるでそこが火口かのように水蒸気が上がる。それもまた観光資源である。
 溶岩の流れによっては道路が封鎖されることもあるのだけれど、今日は幸い無事に通れた。この辺の道路が道路と言えないくらいがたがたなのは、過去に流れた溶岩の上だからだ。道として整備されている場所はバンバドロとかいう超重量級のポケモンが踏み荒らしても平気な程度のことを確認されている場所だけど、道路の外を通ってはいけない。溶岩チューブは表層のみ固まっているので、場合によっては踏み外してそのままこの世からさようなら、という可能性だってあるのだ。この島の自然に関わる時は基本的に自己責任である。僕の職場も含めて。

 ホテリ山の溶岩地帯を抜けると、モーテルと共にトレーラーハウスが並ぶ場所に出る。特に町というわけではないらしい。この辺には今現在きちんとした町がないので、周辺を行くトレーナーやらの休息所となっているそうだ。
 この辺に町がないのは、ここより東にあったという町は溶岩に飲み込まれて消失し、西側にあった村は何とかとか言うこの島の神様の怒りを買ったとかで廃墟となったからだ。村を消す神様とか怖すぎないか。アローラ怖い。カントーにもさすがにいなかったぞそんな物騒な神様。多分。
 ついでにこのトレーラーハウスのある場所は、その神様のすみかがある砂漠の入り口でもあるらしい。アローラは基本的には熱帯雨林気候なのだけれども、ウラウラ島は高山がふたつもあり、島の中の標高差が大きい。それ故にこの大して大きくもない島に様々な気候が集結している。熱帯雨林、温暖湿潤、夏期乾燥、冬期乾燥、砂漠、冷帯、ツンドラ、氷雪。マリエの町はほぼ毎朝雨が降るし、ラナキラマウンテンは年中雪だ。しかしこれだけいろんな環境があるこのウラウラ島で、あえて砂漠を選ぶとは渋い神様である。
 ここで少し休憩する予定だったけど、まだちょっと元気だったからもう少し先まで行くことにする。

 更に西へバイクを走らせていると、いくつもの崩れた建物が目に入った。ここが例の砂漠にいる何とかとか言う神様に壊された村か。
 毎日のように、日替わりで違う産地のコーヒーを淹れては隣のデスクの僕に味の感想を求めてくる、生粋のコーヒー党であるミズサワさんによると、このあたりではその昔なかなか上質なコーヒー豆を作っていたそうだが、この村が消えた影響なのか、さっぱり流通がなくなってしまったらしい。だからアローラで今一番流通しているのは、遠い地で造られたグランブルマウンテンなのだと。
 村の跡を走っていると、最近出来たばっかりみたいな道が見えた。道の先は広い裾野を持つ大きく白い山、ラナキラマウンテンへ通じている。そう言えば、ホクラニの山頂から見えるラナキラのてっぺんに、ガラス張りのきれいな建物が出来ているのが見えた。ここのリーグだったっけ。これといいホテリ山の地熱発電所といい、僕の職場の望遠鏡群といい、よく設置できたよなあ。確か全部聖地だろ、この地方にとって。ホクラニの天文台なんかは、契約で建てられる数が十三までって決まってて、これ以上は増やせないようになっているらしいけど。
 にしても、ポケモンリーグか。僕の出身地のカントーでもリーグは高原にあったけど、それにしてもラナキラの山頂とかちょっと高すぎやしないだろうか。異常に環境への順応性が高くてちょっとやそっとの場所なら平気なポケモンならともかく、トレーナーの体に負担がかかりそうだ。4200m以上あるホクラニより少し高いんだし。高山病になるようなやわな体じゃトレーナーにはなれないってことだろうか。恐ろしい。トレーナーってすごい。
 トレーナーねえ。僕の小学校時代の同級生なんかも、かなりの割合が旅に出てたっけ。僕ぐらいの年頃がトレーナー低年齢化の第一世代とか呼ばれていて、十歳過ぎたぐらいから旅に出る人たちが一気に増えたらしい。まあ、僕はよりによって博士号まで取ってるあたりで自明だと思うけど、旅に出たことはないしトレーナーでもない。ホクラニ山頂でメテノたちに会うまでポケモンをボールに入れたこともなかった。長期休暇毎に人が減っていく学校の中で、黙々と勉強し、図書館の本を読み漁り、自分の興味あることについてばかり調べていた結果がこのざまである。

 村の外れにバイクを停めて、海の方へ向かう。
 14番道路と呼ばれる、ブラックサンドビーチ。アローラの島々を形作る火山の玄武岩が細かく砕けて堆積した、真っ黒な砂浜だ。何とかとか言う神様の怒りを受けて廃墟と化したスーパーの跡地やら崩れた道路のがれきやらがごろごろしているけど、これもまた観光資源なんだろう。ちゃんときれいに整備されているし、環境保護の人が定期的に巡回もしている。
 今日は人が少ないな、と思いながら歩いていると、崩壊した道路の残骸の上に、男性が一人座っていた。何か見覚えある。確か、同じ職場のイチノセとか言う人だ。シフトが全く合わないので正直全然覚えていない。僕がどうも、と頭を下げると、イチノセさんも軽く会釈してきた。
 イチノセさんはぼんやりと海を眺めている。その手には火の着いた紙巻きたばこ。時折くわえては煙を吐き出している。確かこの砂浜は禁煙だから巡回の人に見つかると怒られるよ、と言おうとする前に、イチノセさんはたばこの先を沖合に向けた。
 火の着いた先を目で追いかけると、遠い沖合に、まるで火力発電所の煙突が船体に刺さったような、大きな櫓を持った船がいるのが見えた。
 ああ、と僕は少し弾んだ声で言った。深部探査船だ、僕らの国の奴だね、と言うと、イチノセさんはそうだな、と軽く答えた。
 深部探査船。要するに海底に穴を開ける船だ。あの櫓を使ってパイプを下ろして、水深6000mの深海底を掘り進んでいく。目標は海底下8km、地殻とマントルの境界面、モホロビチッチ不連続面だ。そういえば、アローラの近くで掘る計画があったんだっけ。
 わざわざ深海底を掘るのは、大陸と比べて海底の方が地殻が薄いからだ。特にアローラのあるこの大洋はプレートの年代が古くて、温度が低く、掘りやすいとされている。とはいえそう簡単な話ではない。何せ計画が発表されたのはもう何十年も昔の話。同時期に計画された月への有人探査はかなり昔に達成されたのに、こっちの計画はまだ予定の半分も進んでいないって話だ。
 片や38万4400km、片や水深入れて14km。比べるまでもない距離なのに、計画は遅々として進んでいない。

 僕が故郷であるカントーを離れ、このアローラ地方ウラウラ島に来て、初めて抱いた感想は、でかい、である。
 言うまでもなくこの火山島は、僕の故郷である大陸縁辺の島弧と比べても遙かに小さい。しかし、なぜだろうか、この地方はあらゆるもののスケールがとてつもなく大きく感じるのだ。小さな島なのに、この島にある自然の全てがダイナミックなのだ。
 そもそも僕の職場である望遠鏡のある山も、それをしのぐ高さの年中雪が積もった山も、僕の故郷最高峰より遙かに高い。そしてこの島は6000mの深海底から突如湧き出してきたホットスポット火山であるため、海底からの高さは一万メートル近くになる。要するにこの島はこの星で一番でかい山だ。そりゃスケール感覚もおかしくなるだろう。

 ホクラニ岳の山頂から、僕らは138億光年先の宇宙を見ているのに、自分たちが立っているこの地面の、たった10km下のことも知らない。


 ちょっとすまない、と声をかけられて、思考の海に沈みつつあった僕は現実に引っ張られて少し飛び上がった。
 声をかけてきたのは環境保護でたまにビーチを巡回しているレンジャーの人だった。おっと、と思ってイチノセさんの方に目をやると、いつの間にか影も形もなくなっていた。
 たばこの件じゃないらしい、と自分のことでもないのに心の中で冷や汗を拭きながら、どうしました? と返事を返す。村にあったバイクは君のか? と聞かれたので、駐輪禁止だったかな、と今度は自分のことで冷や汗をかきながらそうです、と答えた。
 しかしどうやらバイクのことではないらしい。どこまで行く予定か聞かれたので、ウラウラの花畑にでも行こうかと、と答えると、今日は難しいぞ、と答えられた。

「昨日の夜海が荒れていたせいか、岩礁の位置が変わっているんだ。サメハダーにライド出来ればいいんだが……」
「あー、無理ですね。僕トレーナーじゃないし。船乗せてもらおうかと思ってたんですけど」
「数日は無理だろうな。花畑ならラナキラの裾野を通っても行けないことはないが、ろくな道もないし海を渡っていくよりは時間がかかるだろう。お兄さんマリエの人だろ? 花畑まで行ったら今日中に帰るのは難しいだろうな」
「うーん、しょうがないですね。今日のところは諦めます」

 こればっかりは自然相手だからしょうがないですね、と僕が言うと、レンジャーさんは自分のせいでもないのに何度も頭を下げてきた。僕は仕事上自然の気まぐれにはつきあい慣れてるから、まあしょうがない、とすぐ諦めがつく方なのだけれど。
 さて、どうしようかな。先に行けないんじゃ、この後の予定がパーだ。
 かといって今から計画を変えてどこかに行くというのも微妙だし、大人しくマリエまで戻ろうかな。ちょっと寄り道しながらでも。



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 崩壊した村を抜け、トレーラーハウスの並ぶ休息所にまたやってきた。
 湖の畔に座って休憩を取る。すぐそばが砂漠というのならここはオアシスなんだろうか。よくわからない。
 リュックの中に入れていた蛍光色のスポーツドリンクをのどに流し込んでいると、僕の左足付近の地面がもこもこと揺れた。しばらくしてぼこりと地面が割れ、三つの頭が顔を出す。
 ダグトリオか。僕の父が持っていたっけ。何せ僕の故郷のすぐそばには、ディグダの穴というディグダとダグトリオばかりが住んでいるトンネルがあったし、僕にとっては割合身近な存在ではある。ただ、僕の生まれ故郷ではつるりとした頭だったけど、ここではふさふさだ。三つの頭がそろってカールしたブロンドヘアーを輝かせている。どことなく女の子のように見える姿に、僕は何となく「姦しい」という漢字を思い出した。
 ブロンドヘアーの三つの顔はそろって僕を見上げ、それぞれ顔を見合わせてまた地面に潜る。しばらくして、今度は右足の方の地面が揺れ、三つのブロンドが顔を出す。ちょっと面白くなって頭でも撫でてみようかと手を伸ばせば、三人娘は地面の下に頭を引っ込め、今度は僕の背後に顔を出す。そちら側に手を伸ばせば、今度は正面に出てくる。
 モグラ叩きか。完全に遊ばれている。僕が悔しそうな顔をすると、ダグトリオは笑い、地面に潜行した。どうやら今度は深くまで潜っていったらしく、いくら待っても顔を出すことはなかった。
 僕は潜っていった三つ子が残した穴を見つめ、その縁を指でなぞってつぶやいた。

「お前たちが潜る100km、上に行ったら宇宙空間なんだぞ」

 地下100kmまで潜るというのは、まあよくある誇大化された俗説だろう。だって地殻の厚さは100kmもない。最も厚い場所で80kmほどと言われている。それでも本当に100kmまで潜るというのなら、彼らは僕ら人間が知らない、マントルの中身に触れたことがあるわけだ。
 そしてその深さを逆方向、上空にベクトルを向けると、そこにあるのはカーマン・ライン、この星と宇宙の境目だ。
 もしもダグトリオが空を飛ぶ方向へ進化したのなら、彼らは日常的に宇宙空間へ行くような生活をしていたのだろうか。そんな考えが浮かび、自分でちょっと面白くなって笑ってしまった。
 残された穴を指先で弄んでいると、指先にちくりと針のようなものが刺さった。拾い上げてみると、硬くて細長い金色の毛のようなもの。おそらく、さっきのダグトリオの抜け毛だろう。
 お兄さん、それを持ち帰ってはいけないよ、と近くにいた老人に声をかけられた。女神様のものだから、勝手に持って行くと罰が当たるよ、と。
 わかってますよ、と僕は笑い、ブロンドの抜け毛を穴に落とした。

 火山噴出物の中で時折見つかる、細長い毛のようなもの。単体では黒く、大量に集まっていると角度によってはブロンドに見える。
 昔のアローラの人は、これはダグトリオの頭の毛だと思っていた。大地と火山の女神の髪の毛だと。今の僕はそれが火山ガラスの一種で、この地方のダグトリオの髪の毛のようなものは金属質のひげであることを知っている。
 ブロンドのダグトリオの毛、あるいは荒々しい火山の女神の毛。大地の神と言われるダグトリオと、古代から伝わる火山の女神の伝承がどこかで混線したのだろか。

 気性の荒い気まぐれな火山の女神。彼女に愛された島は活発に火を噴き、彼女が去った島は活動を辞めいずれ海へ沈む。
 そんなことを言っていたのは、高校時代の地理の教師だっただろうか。今になってはそれがプレートテクトニクスを表した寓話だとわかるけれど、かつてのアローラの人はどうだったのだろう。人の生きる時間より遙かに大きな時間スケールで徐々に南へ動く火山の女神を、なぜ彼らは知っていたのだろうか。
 ウラウラのホテリ山はアローラホットスポットの現在のメインだと思われていたが、今主要な火山活動は新たに出来ている海底火山に移りつつあるという。
 移り気な火山の女神は、さっき僕を弄んだ三つ子のように、もう住む場所を変えたのだろうか。

 リュックががたがたと揺れた。開くと、マカリィたちを入れているボールが揺れ動いている。
 ひとつ取り出して放る。新しい外殻に包まれたマカリィが、小さく体を震わせ嬉しそうに僕の周りを飛び回った。殻の再生が完了したようだ。どうやらボールは快適と言われてもマカリィたちは外の空気が好きらしく、殻が直ったらすぐに出てこようとする。僕は残りのボールも解放する。七匹のマカリィたちがいつものように僕の周りを浮遊する。

「おやおや、ずいぶんたくさんの流星を連れているね」

 話しかけてきたのは、さっきも声をかけてきた老人。隣いいかな、と言われたのでどうぞ、と応じる。
 マカリィがロマンスグレーの髪に水色シャツの見知らぬ老人に興味を示し、顔をのぞき込むように飛び回る。これだけたくさんメテノを連れていると言うことは、お兄さんはホクラニの流星拾いかな、と尋ねられた。本職じゃないですけどね、と苦笑いで返す。
 私は普段はポケモンセンターでカフェをやっているよ、と老人は言う。いつもの散歩は島の奥の祭壇まで行くのだけれど、今日は海が荒れているからね、と。
 喫茶店の店主さんなんですか、と僕は返す。ふと、近くの崩壊した村のことを思い出した。

「そういえば、この辺はコーヒーの産地だったって聞きました」
「詳しいね。コーヒー好きなのかい」
「あ、いや、僕の先輩が結構好きで……まあ、僕も割と好きではありますけど……」
「確かにあの村からポータウンにかけては、以前はコーヒーの一大産地だったよ。今は私の店でも扱っているのはグランブルマウンテンだが、今でもあのコーヒーが飲みたいと行ってくるお客さんは結構いてね。とはいえ、生産が完全にストップしているからね、在庫が残っている分しかもうないんだよ」

 興味あるかい、と店主は聞いてきた。ええまあ、と僕は曖昧にうなずく。コーヒーはまあまあ好きって程度だけど、そこまで希少なものに興味がわかないわけがない。店主は背負っている大きなリュックサックを下ろし、小ポケットを漁ってジッパー付のビニール袋を引っ張り出した。
 店主が掲げた袋には、薄緑色の粒。コーヒーの生豆が入っている。

「私が持っている最後のウラウラ産コーヒーだ。よかったら飲まないかね?」
「えっ、そんな貴重なもの……」
「今は生産が滞っているけれども、このコーヒーはアローラの、ウラウラの自慢なんだ。飲んだことがないなら、ぜひ味わって欲しいね」

 穏やかな笑顔でそう言われ、好奇心のまま僕は首を縦に振った。

 店主はボールからコータスを出した。いつも散歩ついでに、こいつとコーヒーを飲んでいるんだ。ホテリ山で遠い昔に出会って、若い頃はこいつと一緒に世界中いろいろなところへ行ったものだよ、と頭を撫でながら優しく笑う。
 枝のついた巣箱の様な缶にまだ青い豆を入れ、コータスの背中で揺すりながら炙る。缶の穴から青っぽい煙が上がり、徐々に香ばしいにおいが漂ってくる。パチ、パチと豆が爆ぜる音がしてくる。喫茶店で嗅いだことのあるコーヒーの香りに変わってくる。大きな爆ぜる音が落ち着くと、ピチピチと細かな音に変わり、焦げっぽいにおいが混ざってくる。店主は焙煎機を火からあげ、中身をざるに移し、大きくざるを煽って煎りたての豆を冷ます。華やかなコーヒーの香りが辺りに広がる。
 店主はコータスの背中に水の入ったポットを置き、鞄から小さなミルを取り出す。炒りたての冷めた豆をミルに入れ、ハンドルを回す。ガリゴリ、ガリゴリと心地よい臼の音が響く。折りたたみのドリッパーをサーバーの上に置き、フィルターに挽き立てのコーヒーを移す。沸いたお湯を少し冷まし、少量コーヒー粉の上に回しかける。焦げっぽい中に、柑橘の花と、炒ったナッツの混ざったような香りがする。ゆっくりとお湯を回し入れ、抽出されたコーヒーを紙コップに注ぐ。
 どうぞ、と店主は柔和な表情でコーヒーを僕に渡す。いただきます、と何度も頭を下げながら受け取る。

「……華やかな香りがしますね。あんまり苦くなくて、甘くて、ちょっと爽やかな感じ……柑橘類みたいだ。とてもおいしいです」
「それはよかった。冷めるのは気にしなくていいから、ゆっくり味わってくれ」

 冷める過程での味の変化を楽しむのも、また面白いものだよ。君はなかなか良い舌と鼻をしているね。店主はそう言ってまた穏やかに笑った。感想のボキャブラリーが増えたのは隣の席のコーヒー伝道師ことミズサワ先輩による日々の鍛錬のせいである。望遠鏡の扱いよりコーヒーの味利きの方が先に身につきそうである。
 マカリィたちがカップの周りに集まってくる。中身をのぞき込んで、首を傾げるように体を倒す。飲めないのに気になるんだろうか。アローラを凝縮したようなコーヒーの香りを楽しんでいるのかもしれない。においを感じられるのかは知らないけど。

 僕の様子をしばらく見ていた店主は、コーヒーを少し飲んで、余韻を楽しむように大きく息をついてから言った。

「……ところで君は、それだけたくさんメテノを連れているのに、なぜそんなにためらいがちにメテノたちに触れるんだね?」
「え?」
「違うのかい? 私にはずいぶん、おっかなびっくりに見えたんだが」

 そんなことは、と言いかけたところで、マカリィたちと目が合う。いや、目は殻の下だから見えていないんだけど、明らかに七匹そろってこちらをじっと見つめている。殻の隙間から、ぼんやりとした光が漏れ出ている。
 ざわざわと、心の中が静かに揺らめく。

 うつむいて、大きく息をつく。今日はちょっと考え事が多すぎて、頭が疲れてしまったようだ。
 少しだけ僕の話、聞いてくれますか。僕がそう言うと店主は、私でよければいくらでも聞こうとも、と言ってくれた。
 僕の顔をのぞき込んでくるマカリィを、指先でそっと撫でる。

「プレアデス。……それが、僕が初めて出会ったメテノの名前です」

 手の中のカップに目線を落とす。黒い水面に波紋が揺れる。
 遠い昔の、暗い星空の記憶に沈んでいく。





 僕の生まれはカントーのニビ。山と深い森に阻まれた陸の孤島。
 小さい頃から星空を見上げるのが大好きだった。今こうやって職業にしてしまったほどである。親に見つからないように、夜中にこっそり望遠鏡を担いで家を出ては、人気のない高台で天体観測としゃれ込んでいた。いや多分、親にはばれていたのだ。星空を見上げていると時々、いつの間にか父の手持ちポケモンであるはずのダグトリオが近くにいたことがある。多分護衛だったんだろう。ただ両親は僕の夜中の遊びを咎めることなく、自由にさせてくれていた。おかげでその道にどっぷりはまりこんだ。

 隣のハナダとの行き交いに制限をかけているのは、オツキミ山というカントーではそれなりに名の知れた山。
 オツキミ山はかつて、月の石が落ちたと言われている場所。その影響もあってか、ただ単純に山の中で比較的空気が乾燥してきれいだからか、流星がよく見える。
 流れ星は常に見られるものではないけれども、そんなに滅多にないものでもない。数時間ずっと空を見上げていればひとつくらいは見られる、くらいのレア度である。だからその日も、あっ流れた、くらいの気持ちだった。

 ただ、あの日見た流星は、僕が今まで見たものとは全く様子が違った。

 何だかゆっくりで、光がぼんやりとしていて、それなのに妙によく見えて、そして何より、消えなかった。僕が見ている間中、光の尾を引いて空を流れ続けていた。
 そしてその不思議な流星は、オツキミ山の麓に、落ちた。
 流れ星が地表に落ちる。それはすなわち隕石である。大変だ。もしかしたら大発見だ。僕は急いで落下地点へ向かった。
 空っ風の吹く、冬の夜。冷たい空気を胸一杯に吸い込み、段差の多い暗い道を走って、オツキミ山の麓へ。

 星が落ちたと思われる場所へ着くと、クレーターや落下痕みたいなものは特になかった。ただそこには、僕がそれまで見たことのないものがいた。
 青白い光を放つ、金平糖のような形の丸い塊。銀河のような、渦巻きの目がついている。
 それがオツキミ山の麓、岩だらけの荒野に、足下に細かな岩くずを落としながら、ふよふよと浮かんでいた。

 星が落ちてきたんだ! 僕はとっさにそう考えた。
 空が好きだったから、流れ星は大気圏で燃えた塵だと言うことは知っていた。空に輝く星はとても遠くにあって、とても熱くて、昼間に輝く太陽よりずっと大きいものもあることももちろん知っていた。
 だけど、なぜか僕はそのときは本気で、空にある星が落ちてきたんだと思った。

 青白い星は怯えたり逃げたりすることもなく、興味深そうに僕のことを見ていた。
 僕はその子を腕に抱えた。青白い光が僕の頬を照らした。

 ぼんやりと光る青白い姿を見て、僕はその時自分の頭上に輝いていた、僕が一番大好きな星団を思い出した。冬の星空に輝く、青色の星の集団。
 プレアデス! 僕は叫んだ。君はプレアデスだろ? あの星の群れから落ちてきたんだろう?
 腕の中のはぐれ星は、嬉しそうにそう言う僕を見て、きょとんとしているような顔をした。僕は星を胸に抱いて、くるくると回りながらステップを踏んだ。星を拾った! 空の星と友達になった! 僕はそう言いながらはしゃぎ回った。
 その時はメテノなんてポケモン、知らなかったから。メテノが住んでいるのは上空20km、成層圏。周辺の気流か何かでホクラニは極端に落ちる量が多いみたいだけど、世界中どこに落ちてきたっておかしくはない。

 あの夜偶然、はぐれメテノが一匹、カントーの山の中に落ちた。

 僕はプレアデスと名付けたその流星を、しっかりと腕に抱え、うきうきした足取りでニビへの道を歩いた。
 朝になったら父と母に見せてやろう。きっとびっくりするだろう。学校の友達に、先生に、天文学を教えてくれたニビの博物館の人に見せよう。
 明日の夜は一緒に空を見よう。この子が落ちてきたプレアデス星団を一緒に見上げよう。楽しみだね! そう言うと、腕の中の星は僕の方を見て、首を傾げるように体を揺らした。
 星を拾ったんだ。友達になったんだ。これからずっと、一緒にいるんだ。
 何も知らないまま、僕はスキップを交えながら、浮かれた様子で空っ風の吹く夜道を歩いた。


 僕は知らなかったのだ。
 地上に落ちて割れてしまったメテノが、何とか一晩その体を保っていられるのは、ホクラニ岳の空気が世界で一番きれいだから。

 淀んだ空気の中に落ちてしまった流星は、遙かに早く砕け散って消えてしまうことを。


 ニビにたどり着く直前だった。
 僕の腕の中の星は、僕の腕の中で砕けて、風にさらわれていってしまった。


 あの日の記憶を抱えたまま成長した僕は、ある日、アローラの山の上に落ちてくる星のかけらのようなポケモンのことを知った。
 その生態を知って、対処法を知って、僕はとても後悔した。

 僕はなぜあの時、外殻の割れたあの子を連れ回したりしたんだろう。
 なぜあの時、早く手持ちのボールに入れてあげなかったのだろう。

 今でもまだ、まるで泣き出しそうな表情を見せて、僕の腕の中で儚く消えていった、流星のかけらを思い出す。

 それも自然の摂理だ。運命なのだ。地上に落ちたメテノは、人が関わらない限り大抵はそのまま消えてしまう。たとえホクラニ岳の山頂でも。逆に言えばホクラニでならかろうじて生き延びることもあるから、メテノはホクラニの名物と言われているのだ。
 わかっている。それでもやっぱり、思い出しては後悔の念が浮かぶ。
 僕は何も知らなかった。だから、あの子を助けられなかった。
 知っていれば、助けられかもしれないのに。


 僕が無知だったから、あの子は消えてしまった。
 プレアデスは、僕が壊した。





 遠い記憶の昔話を、店主は黙って、深くうなずきながら聞いてくれた。
 僕は手元の、冷めたコーヒーに口をつけた。酸味が落ち着き、苦みと甘みが増した気がした。
 辛かったろう、よく話してくれたね、と店主は優しい声で言った。この話をしたのは、面接の時の所長以来ですよ、と僕はつぶやいた。

「でも、君が気に病むことはないと思うよ。たとえ君と会わなかったしても、殻の割れたメテノはいずれ消えてしまうんだからね」
「そう、なんですけど……」

 わかっている。メテノが消えるのは自然の摂理だ。人が手を貸して、生き残る方が不自然なのだ。それでも、記憶に焼き付いた青白い光が、思い出すたび心を揺らす。
 それにね、と店主は傍らのコータスをボールに戻して言った。

「流星拾いをしている君なら知っていると思うが、メテノは自爆の出来るポケモンだ。本当に嫌だったら、君を巻き込んででも爆発していただろう」
「……はい」
「その子は、プレアデスは、最期に君を選んだのかもしれない。そうであってほしいと、私は思うね」

 僕はぎゅっと唇を噛みしめる。
 あの子はほんの一時だけでも、僕を好いてくれたのだろうか。
 僕の身勝手で意に沿わず振り回しただけではなく、あの子の最期の一時、望んで僕を選んでくれたのだろうか。いや、そんなのはやっぱり、単なる僕の願望なんじゃないだろうか。
 いくら考えても後悔は消えず、僕が考えるのは自分に都合の良いことばかりだ。

 結局、僕が何も知らなかったから。後悔を突き詰めていくと、最終的にそこに行き着く。
 いらないことばかり覚えて、必要のないことばかり学んでいるのに、大事なことを知らなかった。僕の中にあるのは役に立たないことばかり。
 何やってるんだろう、と自己嫌悪の沼に沈んでいく。

 マカリィたちが店主の近くへ行き、顔をのぞき込む。店主はマカリィたちを優しく撫でる。

「もっと寄り添って、本質を見てあげなさい。きっとこのメテノたちは、それを持っている。私は、そう思うよ」

 年寄りの戯言だがね、と店主は穏やかに笑う。

 コーヒーが好きな先輩がいると言ったね、よかったらこれを渡してくれ。店主はそう言って、袋に入った煎りたてのコーヒー豆を渡してきた。二晩ぐらい寝かせれば、熟成が進んで、もっと深みのある味になるだろう、と。
 それじゃあ、私はこれで失礼するよ、と大きなリュックを背負い、アローラ、と僕に手を上げ、去って行った。



 いつも通り、観測前日の夕方から山の中腹にある宿泊施設に泊まる。
 今回はリモートじゃなく、天文学者が直接山頂まで来る。ジョウトのノベヤマさんという天文学者とそのチーム、計五人だ。人数が多いから、僕が直接やる仕事はそんなにないかもしれない。でも僕に足りないのは経験だ。とにかくたくさんの経験を積まなければ。それに、この前拾った子も帰しに行かなきゃ行けないし。
 施設内の簡易オフィスで、観測の打ち合わせをする。僕は何だか久々に頭がふわふわして、眠くてしょうがなかった。アマミヤ、久々に高山病? とミズサワさんが心配そうに声をかけてくる。無理しない方が良いんじゃないか、とオペレータのアスタさんも言ってくる。症状軽いし、多分しばらく寝てたら治ります、と僕は言って、仮眠室で寝させてもらうことにした。
 ベッドで横になっていると、マカリィたちが僕の顔を順々にのぞき込んでくる。大丈夫だよ、と言って撫でると、マカリィたちは僕のベッドの周りを取り囲むように床に着地した。
 仮眠室を開けたどこかの天文台の人が、うわ、怪しい儀式みたいだ、とつぶやく声が聞こえた気がしたけど、多分気のせいなのでそのまま寝た。

 翌朝目を覚ますと、気だるさはかなり解消されていた。
 マカリィを引き連れてオフィスへ行く。顔色のよくなった僕の様子を見たミズサワさんが、もしかして単なる寝不足だったんじゃないの? と言ってきた。どうなんだろう。まあ、体調よくなったんなら別に良いか。
 そういえば、と思い出し、ミズサワさんに店主からもらったコーヒー豆を渡す。不思議そうな顔で受け取ったミズサワさんだったが、その出自を聞くと顔色が変わり、最終的には絶叫しながら飛び跳ねた。詳しいことはシークレットだがそれなりの年齢の女性である。少なくとも僕よりだいぶ上である。
 しばらく喜びを体で表現した後、ソファに座って息を切らせながら、私の方が高山病になりそうだわ、と満面の笑みでミズサワさんは言った。


 日が沈み、観測が始まる。
 ノベヤマさんのチームは何度か望遠鏡の使用経験もあるらしく、てきぱきと観測が進む。僕の出る幕がほとんどない。
 夜中を過ぎた頃、観測室にはやや不穏な空気が流れ始める。

「アマミヤ、湿度どう?」
「悪いですね。60%超えてます」
「参ったわね。今の上がり方のままじゃ観測中止せざるを得ないかもしれないわよ」

 そうでなくても中間赤外線に湿度は大敵なのに。ミズサワさんがため息交じりに言う。観測自体は今のところ何とかなっているけども、自然はどうにもならない。大丈夫ですかね、と天文学者のノベヤマさんが心配そうな声を上げる。
 手持ちぶさたの僕は机の上に置いてあるいらない紙を二枚手に取り、片方を丸め、もう片方で包み、輪ゴムで縛る。顔を描いて、輪ゴムにたこ糸を結わえてつり下げられるようにする。近くを飛んでいたマカリィの突起に完成したてるてる坊主を引っかける。マカリィが飛び上がり、天井の梁にてるてる坊主を吊す。

「神頼みね」
「これくらいしか出来ることないですからね」
「観測中止になった天文学者の怨念が集まってカゲボウズになりそうだわ」
「僕見たことないんですよね、カゲボウズ。カントー出身なんで」

 俺もないな、アローラ出身だから、とアスタさんがつぶやいた。私はホウエンに出張に行った時に、知り合いが連れてて、いつの間にか軒下に、等々しばしカゲボウズ談義で室内は盛り上がる。沈んでいた空気が少し和やかになる。僕は黙々とてるてる坊主を量産する。マカリィが並んでてるてる坊主運搬の順番待ちをしている。
 七つほど梁に新しいてるてる坊主が増えたところで、神頼みの効果があったのか、湿度の上昇が止まった。観測室内に安堵の空気が流れる。

 アマミヤ、少し休憩してきていいわよ、とミズサワさんが言う。さっきまでもてるてる坊主しか作っていなかった気がするけど、せっかくなのでありがたく休憩をもらう。
 ジャンパーを着て、ミズサワさんにコーヒーをもらい、バルコニーへ出る。今日は寒いけど風がない。
 マカリィたちが身を寄せ合って僕の背中にくっつく。重い。浮いているから全体重はかかっていないけどひとつ30kgあるのだ。集団になられるととても重い。
 空を見上げる。星が瞬いて見える。ちらちらしているのは湿度が高いからだ。
 コーヒーに口をつける。最初に飲んだ時より、煙っぽさが落ち着いて、角が取れた味になった気がした。
 ふう、と息を吐く。白い息が黒い夜の中に溶けていく。

 背中が軽くなる。マカリィたちが背中を離れて、手元のカップをのぞき込んでいる。
 マカリィ、あんまり寄るなよ、お前らは水が駄目だろうに。そう言おうとして、ふと思い立つ。一瞬動きを止めた僕の前で、マカリィたちがずらりと一列に並ぶ。

「……マイア」

 赤色のメテノの名を呼んだ。同じ外見のメテノのうちの一匹が、主張するように飛び上がってくるりと回った。
 エレクトラ。タイゲタ。アルキオネ。ケラエノ。アステローペ。メローペ。橙、黄、緑、青、水色、紫の名を順に呼ぶ。名を呼ぶたび、一匹が飛び上がってくるりと回る。
 一列に並んだメテノたちを眺めて、マカリィ、と呼んだ。メテノたちは端からウェーブのように順にくるりと飛び上がり、最後に全員が集まって輪になり、「ジャンっ!」と効果音がつきそうな勢いで一斉にこちらを向いた。
 僕はぶはっと噴き出した。どう見ても決めポーズとしか思えない立ち振る舞いに、アイドルグループかよ、と思わずツッコミを入れる。殻に阻まれて見えないけど、自慢げな顔をしているような気配を感じた。

 そうか、知ろうとしていなかったのは、ちゃんと見ようとしていなかったのは僕の方か。
 もしかしたら僕は、無意識のうちに、深く考えることを避けていたのかもしれない。こんなにたくさん、いつでも一緒にいるのに。
 脆くて儚くて美しい、彼らメテノのそばにいることが、深く関わっていくことが、僕は怖いのかもしれない。
 未だに僕はあの星空の記憶を忘れられなくて、またこの手の中で淡く光り輝く彼らを失ってしまうのではないかと怯えている。

 彼らは僕の過去なんて知らない。僕が幼い頃、ひとつの「プレアデス」を壊してしまったことなんて知る由もない。
 だけどマカリィたちは、僕が無意識に抱えている不安や恐怖はきっと感じていて、それでもあと一歩歩み寄れない僕の側にいることを選んでくれた。
 いつも観測室で絶妙なポジションを漂うように、バイクの後ろを追いかけて飛んでくるように、僕とマカリィたちにとって居心地のいい距離感をいつでも保って。
 だから僕は知らなかった。気づかなかった。僕が勝手に、思い込んでいただけだ。どうせいつも一緒だから、見た目が同じだから、特に困ることもないから。そうやって理由をつけて、いつも一緒くたの呼び名で読んでいた。それぞれを区別しなくても、特に困った様子も見せなかったから、それでいいと思っていた。実際、困ることはなかったのだろう。こいつらはいつも一緒だし、僕もそれぞれに差をつけて扱うこともなかった。だから個々を主張することもなく、それ故に僕は、こいつらは自分の名前を把握していないのだろうと勝手に思い込んでいた。
 だけど、それは違った。こいつらはちゃんと、自分の名前を把握していたんだ。それぞれにつけられた七姉妹の名前と、その集合体の呼び名を。

 ああ、本当に、僕は未だに何も知らない。


 少し、風が出た。
 上空の空気が入れ替わり、星を曇らせていた湿気が押し流される。滲んでいた光がシャープな明るさを取り戻す。

 ラナキラの山頂に積もる雪がそのまま空に留まり続けているような、満天の星。直上にぼんやりと光を放つ、青白い星団が見える。僕は星影の中に手を伸ばす。空の天井に指先が触れたように、流星がひとつ鋭い光を放って零れ落ち、消える。
 僕はこの手の先の、たった1nm先にある素粒子の正体も、138億光年先にある宇宙の始まりも、知らない。

 知りたい。知りたい。もっと知りたい。
 わかっていること。わからないこと。わかった気になっていること。何でもいい。何でも知りたい。

 雲海の中の天文台。羅列された数字。地獄のカラサダ。コアの色。青いケーキ。金平糖。毎日のコーヒー。マスコット認定。おやつのポケマメ。溶岩チューブ。砂漠に住む神様。消えた村。グランブルマウンテン。山頂のリーグ。深部探査船が求める地面の下。世界一大きな火山。真っ赤な花畑。閉ざされた水路。ブロンドのダグトリオ。地下100km。移り住む火山の女神。てるてる坊主。最後のウラウラ産コーヒー。メテノの名前。そしていつか砕け散ってしまう星と、僕の手の中に落ちてきた流星のかけら。

 この世界は、知らないことばかりだ。
 この世界は、知りたいことばかりだ。

 知恵のある人、ホモ・サピエンス。僕たちが僕たちであるのは、「知らない」を求め続けてきたから。
 だから僕は、知的好奇心の赴くまま、自分の心のままに、自分の知りたいことを求めよう。
 僕の知りたいことは、誰かの生活の役になど立たない。例えば今この瞬間、宇宙の成り立ちがわかったとしても、僕の明日の夕食のメニューが自動で決まるようになったりはしない。
 だけど、僕は追い求める。知りたいから。知らなければならないから。

 アローラにはなぜか、研究者という肩書きの人間が多いと聞いたことがある。僕もその末端だけど、何となくそうなる気持ちはわかる気がする。
 この島はとても大きくて、自然豊かで、不思議なことがたくさんあるから。

 僕の「知らない」ことがいつか、僕の「知っている」ことに変わったとして。
 それがもしかしたら、いつか誰かの「知りたい」の答えになるかもしれない。
 そしてそれがまた、新しい「知らない」を生み出すだろう。そしてそれはまた、誰かの「知りたい」に変わる。

 この世界には、無駄なことしかないのだ。僕らは何の役にも立たないようなことしか出来ないのだ。
 夢中になって追い求めるのは、ちょっとした話のタネにしかならないようなことばかり。

 だからこそ、この世界は、面白くて、美しい。


 アマミヤ、そろそろ交代、とミズサワさんが声をかけてくる。

「あら、何かすっきりした顔してるわね」
「そうですかね? コーヒーがおいしいからかな」
「この野郎、わかってきたじゃない」

 僕の頭を軽く小突いて、今夜もいい星空ね、とミズサワさんが伸びをしながら機嫌良さそうにつぶやいた。



 雲海の向こうから昇る太陽を浴びながら伸びをする。望遠鏡の収められた一点の曇りもない銀色の円筒形の建物は、青一色の空を反射し、同化して消えてしまったみたいに見える。

 僕は赤い乾燥した荒野にへばりつくように群生する高山植物の草むらへ入る。
 ボールから、この前登った時に拾ったメテノを出す。外殻はちゃんと修復されている。メテノはきょろきょろと辺りを見回ように体を揺らし、殻に開いた穴が僕の方を向いた。

 さ、好きなところに行くがいいさ。成層圏に帰るもよし、ここには重くなりすぎて戻れなくなった仲間たちが大勢いるから、そこで仲良く暮らすもよし。自分の心のままに行くといい。
 僕がそう言うと、メテノはしばらくあたりをゆったりと飛び回り、僕の腕の中に軟着陸した。
 表情のない顔と目が合う。見えないけれど、何だか嬉しそうな気配がするような気がする。僕の後ろのマカリィたちが、歓迎するように僕たちの周りを飛び回る。

 八つ目のプレアデス。周りと同じ茶色の外殻に包まれた本体は、黒地に他のマカリィたちと同じ七色の三角模様。
 僕はしょうがないなあと息をつき、名前どうしようかな、と苦笑いした。





+++++++++The end




あとがき
第1回ハワイティ杯ポケモン小説コンテスト―アローラ!―にて、2位(平均4.364点)をいただいた作品。
スバルはいいぞ。すばる望遠鏡もいいぞ。歌の「昴」もいいぞ。
(初出:2017/2/19 第1回ハワイティ杯ポケモン小説コンテスト―アローラ!― マスクネーム「目を閉じて何も見えず」)



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