やってしまった。よりによって、ディアルガ様の目の前で。
 またしても奴らを逃してしまった。悔しさが込み上げる。

 それと同時に、ひどく気が滅入った。
 ああ、またも報告……しなければなるまい。この失態を。



+++闇世の嘆き 時の護役+++
Chapter―8:孤独



「申し訳ございません、ディアルガ様……。またしても……奴らを逃してしまいました」

 わたしはそう言い、ディアルガ様に向かい、頭を地面につくほど下げた。
 獣のような、ディアルガ様の怒りの咆哮が響き渡る。ヤミラミたちがその声を怖がり、騒ぎ声を上げる。わたしは動かない。黙って頓首する。
 ディアルガ様の怒りの声が続く。正気を失われていらっしゃるため何とおっしゃっているのか正確にはわからないが、わたしに対しての怒りだけは間違いなく伝わってくる。
 情けなさと申し訳なさとやり切れなさが胸の中に溢れていく。わたしは面を上げることもかなわず、ただ黙って頭を垂れ続けた。


 どのくらいそうしていただろうか。気がつくと、辺りはしんとしていた。
 わたしは頭を上げた。ディアルガ様は住処に帰られ、ヤミラミたちもそれについて行ったのだろう。わたしの周囲には誰もいなかった。
 『時の回廊』があった場所へ目をやった。白く輝く回廊は今はもう跡形もなく消え去り、無機質な岩肌がその姿をさらしている。
 一切の音が絶たれた世界。その只中に、独りいるわたし。
 ただ空しさだけが湧き上がる。


 わたしはすぐに戻る気が起こらず、灰色の草むらに仰向けになった。
 目線の先には、漆黒の空が広がっている。

 ふと、初めて過去へ行ったとき、同じように草むらに横たわったことを思い出した。
 あの光景が今でも、頭の中に鮮烈に蘇ってくる。
 澄み切った青い空。その中で暖かく、強烈な光を投げかける太陽。柔らかで瑞々しい草花。どこからともなく吹いてくる風が、梢を揺らし静かに音をたてる。
 それはわたしが初めて見た過去の世界。わたしが初めて見た、光に満ちた世界。

 しかし、とわたしは目を閉じた。
 今わたしがいるのは、それとは正反対の場所。
 星の光すらない、どこまでも深い闇の空。刺すように冷たい空気。枯れたような灰色の草木がただ立ち並び、僅かな風すら吹くことはない。
 ここは『闇世』。時の止まった世界。
 ここはわたしが生きている世界。これがわたしが護ろうとしている世界。


 彼らの気持ちは痛いほどわかる。あの過去を一度見てしまっては、誰もこの世界に満足することはないだろう。
 あの世界は素晴らしかった。わたしは何度、あの場所に永遠にいたいと思ったことだろう。
 わたしだって、この世界に戻るのは本当に心苦しかった。
 変えたいと思う。この暗黒の世界を過去のようにしたいと思う。
 それでも、その方法を違えるわけにはいかない。
 わたしは自分が間違ったことをしているとは思わない。それは過去をこの目で見た今でもずっと変わらない。いや、過去をこの目で見た今だからこそ、その思いはより一層強くなっている。
 この世界を変えなければならないからこそ、歴史を変えさせるわけにはいかない。
 犠牲は、出させない。この世界をどんなに嫌おうとも、この『闇世』をないがしろにはさせない。


 それにしても、妙な気分だった。

 わたしはずっと恐れていたのかもしれない。
 あの少年たちがジュプトルと手を組むことを。彼らが協力してわたしに立ち向かってくることを。
 だからこそわたしは嘘をついた。少年たちにジュプトルは敵だと思い込ませ、ジュプトルにチコリータの少年の素性を明かさなかった。
 敵が増えることが怖かったわけではない。彼ら程度なら倒せるくらいの自信はある。

 違う。わたしが何より恐ろしかったのは、彼らの間にある『絆』だった。

 あの元人間のチコリータの少年は、かつてジュプトルと共にこの未来にいたときの記憶を失っている。
 それにも関わらず、更につい先程まで敵同士だと思っていたはずなのに、彼らはもう互いを信用し、協力し合っている。半ば本能的なものなのだろう。それだけ、彼が人間だったときのジュプトルとの絆は深かったということか。
 それに何より、彼の現在のパートナーであるポッチャマ。彼は少年との間にジュプトル以上の絆を築いている。
 『時空の叫び』は信頼できるパートナーとなるポケモンがいないと発動しないと聞いたことがある。しかし、過去で聞いた彼らの話では、出会って間もない頃からその能力は発動していたらしい。それだけ、彼らの間の信頼関係は強く深いということだろう。

 彼らは互いに信用し、強い関係で結びついている。それに何より、彼らにはたくさんの協力者がいる。
 彼らを過去へ送り届けるセレビィ。少年たちにとって何よりの仲間であるプクリンとギルドの連中。それにトレジャータウンに住むポケモンたち。皆彼らの味方だ。
 彼らの間にある強い絆は自然と周りの者たちを引き込み、その連鎖の輪は無限に広がっていく。


 わたしの周りには一体誰がいるだろう。
 ディアルガ様は正気を失われ、わたしのことはただの都合のいいコマとしか見ていらっしゃらない。
 わたしの部下のヤミラミたちは、わたしの考えに理解を示しているわけでもなく、わたしに対して信頼を抱いているわけでもない。その証拠に、今もわたしのことなど気にも留めず、さっさとどこかへ行ってしまった。


 わたしの周りには、誰もいない。
 昔も、今も。


 わたしは彼らが恐ろしかった。
 彼らと戦って、負ける気はしない。自分の腕には自信がある。
 しかし、彼らにはたくさんの味方がいる。わたしの周りには誰もいない。
 実力では負けることなどないはずなのに、勝てる気がしなかった。
 戦いの実力など、全く関係のない世界。得体の知れない恐怖があった。


 わたしは正直、彼らが羨ましかった。
 信頼できる相手のいる彼らが、どうしようもなく羨ましかった。


 ジュプトルに協力を持ちかけたときも、心のどこかでそう思っていた。
 奴なら、過去に行ったときに最大のパートナーを失ったあのときの彼なら、わたしの話に耳を傾けてくれるのではないか。そしてわたしの考えに理解を示してさえくれれば、彼ならわたしを信頼してくれるのではないか。

 真っ直ぐで、自分に正直で、信じた道を脇目も振らずに進む。
 彼はわたしによく似た男だと思っていた。……ただ、わたしと考える方向性が違っていただけで。
 もしわたしと同じことを考えてくれていたのならば、彼がわたしの考えに理解を示してくれていたのならば……わたしも彼との間に、あの少年と同じような信頼関係を築けたかもしれないと思った。

 しかし、一縷の望みは儚く消えた。
 結局、わたしは独りのままだった。


 わたしは身体を起こし、辺りを見回した。
 先程までと何も変わらず、ただ静寂の広がる世界。
 どこまでも深い闇が空を包み込み、大地には単調な灰色の草木が広がるのみ。

 わたしを信頼してくれるものはおらず、わたしが信頼できそうな者はわたしを理解してくれはしない。
 誰も、いない。
 わたしの周りには、誰もいない。
 どうしようもない寂寥感が、わたしを取り囲んでいた。


 わたしはふっと、自嘲するように笑った。

 『信頼できる相手が欲しい』
 『わたしを理解してくれる誰かが欲しい』
 そんな馬鹿げた望みは捨てるべきだ。
 理解してくれるものなど、信頼してくれる相手など、わたしには最初からどこにもいなかっただろう。

 誰かに甘えるな。
 わたしはたった独りで戦っていくしかないんだ。


 わたしの周りには、誰もいない。
 昔も、今も。そしてこの先も。


 いつまで経っても、わたしは独りだ。


 わたしは黒い空を見上げる。
 この冷めた『闇世』の中で、わたしもいつの間にか心を失ってしまったのだろうか。


 泣き方さえ忘れていなければ、慟哭したかったのに。



To be continued……