じわじわ、じわじわと、テッカニンの鳴き声が止むことなく響いている。 俺は窓を開けた。吹き込んだ風は蒸し暑くて、部屋の温度を下げてくれる効果を期待できそうにはない。それでも閉め切っているよりはましだろう。クーラーは電気代が怖くてつけられない。この夏は、何とかうちわと扇風機で乗り切りたい。 こういう時はトレーナーが羨ましい。水や氷のポケモンがいればきっと涼しいだろう。でもまあ、俺はポケモンを持っていないから我慢するしかない。あとはパソコンが暑さでやられてしまわなければいいのだけれど。 大学一年生の夏休み。やることがなさすぎる。何か適当なサークルにでも入ればよかったなぁと少し後悔したけれども、それはそれで面倒なので諦めた。八月の頭から、九月の末。大学の休みは長い。 うん、よし、何もやることがないなら、書くか。俺はスリープ状態だったノートパソコンを開いた。 +++ヨーヨー、顔文字、オムライス+++ 俺の名前は『トレイン』。とは言っても本名ではない。ネット上の名前……いわゆるハンドルネームだ。本名が『鉄男』だからという理由で適当に決めた。 三年ほど前から、ネットの片隅で、小さなサイトをやっている。よくあるトレーナーものの小説サイトだ。ごく普通の少女がトレーナーとして旅をする、まあ言ってしまえばありきたりな話を書いている。 自分のサイト以外に、トレーナー小説を書く人が集まっているコミュニティサイトの掲示板に投稿している。そこで感想を言ったり、逆にもらったり、他の作者さんたちとチャットをしたりしている。そのサイトのほとんどの小説書きさんたちは、トレーナーを兼業しているらしい。旅の中でのあるあるとか、ちょっとした小ネタとか、半分くらいは自分の経験から書いているとか。 俺はトレーナーじゃないけど、でも完全に想像で書いているわけでもない。俺の小説の主人公にも、モデルはいる。 インターネットのブラウザを開いて、コミュニティサイトに飛び、備えられているチャットをのぞくと、すでに四、五人が会話をしていた。さすが夏休み、昼から盛況だ。 ヌオーを抱き枕にして寝ると涼しくて最高だとか、サーナイトがついにキーボードの打ち方を覚えただとか、ポッポが小説の主人公のセリフを真似するようになっただとか、ピカチュウにせがまれてヘリウム風船を十個も買ってしまっただとか、窓の外を見るとカゲボウズが並んでいてびっくりしただとか、この暑さでフリージオが蒸発したとか。どうやらトレーナー同士、ポケモンの話で盛り上がっているみたいだ。 残念ながら、トレーナーじゃない俺はこの話題にはついて行けない。チャットへの入室は諦めて、俺はメールボックスを開いてみた。 「……ん?」 新着メールが来ていた。どうせダイレクトメールだろう、と思ったのだけれど、知らない個人アドレスからだった。トレインさんへ、というタイトルを見るに、どうやらサイト経由で送られてきたものらしい。 開いてみると、文面は顔文字だらけだったけれど、大体こんなことが書かれていた。 『初めまして。私はヨーヨーといいます。 いつもトレインさんの小説を読ませてもらっています。ナツキちゃんは私の友達にそっくりです。 これからも頑張ってください。応援してます!』 一応サイトはやっているものの、所詮は個人でやっている小さなもの。感想メールもこれまでに何度かきたことはあるけれども、本当に数えられるくらいだ。素直に嬉しい。 この『ヨーヨー』という人は初めてだ。コミュニティでも見たことがない。顔文字がずらずらと並ぶ文面からすると、中学か高校生くらいの女の子だろうか。 ヨーヨー。そういえば昔流行ったことがあったっけ。俺の周りでもみんなやっていたなぁ。懐かしい。 メールに書いてある『ナツキ』は、俺の書いている小説の主人公。どこにでもいる、普通のトレーナーの女の子で……俺の幼馴染がモデルになっている。 「テッちゃん」 「ん、どうした? ハル」 ハルと俺は、ハルのお父さんと俺の親父が大学の先輩後輩だったこともあって、物心つく前から一緒にいた。きっと俺たちは、生まれる前からの縁なのだろう、と思っていた。 「私は絶対に将来、世界一強いトレーナーになる!」 「そっか、頑張れよ」 「テッちゃんもトレーナーになればいいのに」 「俺は生き物そんなに好きじゃないから、いいの」 幼い頃から、何度このやり取りを繰り返したことだろう。ハルはしつこく誘ってきたけど、結局俺はトレーナーにはならなかった。 ハルは小さな頃からポケモンが大好きだった。トレーナーになるという夢は、生まれて初めて将来のことを考えた時から、ずっと変わることがなかったように思える。 好きなものは、と聞かれれば、ポケモンとオムライス、と答える。小さな頃から、俺はハルがそれ以外の答えをしたのを聞いたことはなかった。 ハルによく似た友達、か。俺も会ってみたいな。懐かしい記憶を思い出しながら、俺はヨーヨーさんへの返事を書いた。感想を送ってくれたことに対する感謝を書いて、似たような友達がいるなんて奇遇ですね、というひと言を添えた。 そう言えば、ハルからのメールも、いつも過剰なほど顔文字だらけだったなあ。 それから、ヨーヨーさんは度々メールを送ってきた。二日に一回は、メールボックスに顔文字いっぱいの新着メールが届いていたし。小説を載せると、必ず感想を送ってくれた。あの言葉にはとても感動した、とか、あそこでのナツキの気持ちを考えたら切なくなった、とか。シンプルだけど、細かいところまでよく読んでいるなあ、と思える文章だった。 感想が来ると、俄然やる気も出る。大学受験でほぼ停止していた去年の分を取り戻すように、俺はひたすらキーボードを叩いた。 時は流れて、外の景色は、少し秋らしさを帯びてきていた。日中はまだまだ暑いものの、朝晩の風はだいぶ涼しくなった。昼間のテッカニンの鳴き声は小さくなって、夕暮れの空にはヤンヤンマの影が見える。日が落ちてから耳をすませば、コロボーシやコロトックの鳴き声も聞こえるようになってきた。 夕暮れ時に窓から外を見ていると、アパートの前の道を、虫取り網を持った小学生くらいの男の子たちが走っていったのが見えた。小麦色に焼けた顔や手足は、少年たちがこの夏休み、太陽の下を走り回っていたことを見るものに伝えている。 少年たちが過ぎ去った道を、今度はもう少し年上の、中学生くらいの男の子が歩いてきた。大きなリュックサックに、幅の広いベルト。泥と汚れだらけの服。ぼろぼろのシューズ。さっきの小学生たちに負けないくらい、真っ黒な顔。 ああ、そうか。もうそんな時期か。 八月の末。夏の終わり。長い長い夏休みの間、ポケモンを連れて旅に出ていた少年少女が、普通の生徒に戻る時期だ。 俺やハルが通っていた中学校では、夏や春の長期休暇中、ポケモンを連れて旅に出ることを許されていた。もちろん、ポケモン取り扱いの免許の取得と、定められた講習を受けることが絶対条件だったけれども。 与えられた時間は、七月中旬から八月終わりまでのおよそ四十五日間。免許を持っている生徒のほとんどは、夏休みにポケモンを連れて旅に出る。大抵はひとり旅だ。みんな旅に出たいのか、クラスメイトの半分以上は、中学に入る前に免許を取っていて、残りのほとんどは夏休み前には取得していた。ちなみに当然のごとく、俺は持っていなかった。 ハルももちろん、旅に出た。相棒のポケモンたちを連れて、俺は行ったことのない遠くの町や深い森、高い山、広い海へ。 夏の終わりが近づいて町に戻ってきたときのハルは、真っ黒に日焼けして、どろどろの格好をしていたけれど、すごく楽しそうに笑っていた。そして、仲良くなったポケモンや、きれいな色のバッジ、旅の途中で撮った写真、色々なものを見せてくれた。 そしていつものように、オムライスが食べたい、と俺に言ってきた。 すでに暗くなりつつある東の空を見て、随分日が短くなったな、と俺は思った。時計を見ると、六時半を示していた。そろそろ夕食の準備でもするか。 冷蔵庫を開けると、鶏肉とピーマン、卵が目に入った。ご飯は冷凍庫にあるし、流しの下にはタマネギもある。 ……そうだな。久しぶりに、オムライスでも作ろう。 中学校に入った頃から、ハルの両親は海外出張が多くなった。だからハルは、しょっちゅう俺の家に夕飯を食べに来た。俺の両親も共働きだったから、大体は俺とハルの二人だけだった。ハルは残念ながら料理が下手くそで、どんなに頑張っても上手にならなかった。だから必然的に俺が作ることになった。 「ハル、今日は何食べる?」 「オムライスがいい!」 「また? ハル、いっつもそればっかりだな」 「だってテッちゃんの作るオムライス、すっごくおいしいんだもん!」 ハルがオムライスしか頼まないものだから、俺はオムライスを作るのだけは上手くなった。しかも、薄焼き卵で包むのじゃなくて、チキンライスに半熟のオムレツを乗せる奴。 みじん切りのタマネギとピーマンと鶏肉を炒めて、ご飯を入れて、塩コショウとケチャップで味付け。それをお皿に楕円形に盛りつけて置いておく。 卵を二つボウルに割って、塩、コショウと、少しの生クリーム。隠し味に砂糖を少々。 熱々に熱したフライパンにバターをひとかけら入れて、卵液を一気に入れる。素早くかき混ぜて、まだ半熟の間にフライパンの隅に寄せる。 火を弱めにしたら、フライパンをほんのわずか傾けて、柄の付け根を軽く叩く。そうすると、卵は勝手に回転して、きれいなオムレツ型になる。焼けたらすぐに作っておいたチキンライスの上に乗せて、真ん中に包丁を入れる。 とろとろの中身が流れだして、チキンライスをすっぽりと覆ったら、完成だ。 ハルはいつも幸せそうにオムライスをほおばった。あんまり嬉しそうに食べるから、俺もついつい頑張って作ってしまう。 二人だけの食卓で、俺とハルは色々な話をした。 今日の英語の小テストは難しかったとか、数学の先生のおでこがまた広くなったとか、部活で先輩に変なあだ名をつけられそうになったとか、長座体前屈でつま先に手が届くようになったとか、旅立ち前の講習は面倒だけど、乗り越えないと旅に出られないのだとか。 ハルが旅から帰った後には、森の中で大きな虫に襲われただとか、ポケモンでの波乗りは船より揺れないから乗り心地がいいのだとか、どこそこのジムでは苦戦しただとか、エスパーポケモンがいると物の持ち運びが楽だとか、自動販売機で三回も連続で当たりが出たこととか。 数え切れないくらい、色々なことを。 オムライスがなくなっても、俺とハルはまだまだしゃべり続けていた。 俺にとっても、ハルにとっても、幸せな時間だった。 オムライスを食べた晩、小説を一気に書きあげてサイトに載せた。 更新した小説は、ナツキとその幼馴染の男の子であるアキヒロが、二人でオムライスを食べながら会話をするというもの。ハルとのやり取りを思い出し、懐かしくなった勢いで書いたものだった。 翌日の昼過ぎ、ヨーヨーさんからメールが来た。相変わらず文面には、たくさんの顔文字が踊っていた。 メールには、オムライスを食べるナツキがとても幸せそうだった、と書いてあった。いつも通り、シンプルな感想だった。 だけど、その文をもう一度読み返して、俺は思わずディスプレイを凝視した。 『テッちゃんの作ったオムライスを食べるナツキちゃんが、とても幸せそうでした。』 俺はわけがわからなくなった。背筋がぞうっとした。 小説の中でオムライスを作ったのは、アキヒロ。 現実に『テッちゃん』の作ったオムライスを食べたのは、ハル。 ハルはナツキのモデルで、『テッちゃん』の幼馴染。 そして『テッちゃん』とは、俺のこと。 俺のことを『テッちゃん』と呼ぶのは、ネット上には誰ひとりとしていない。ましてや、俺のことを『テッちゃん』と呼んでいたのは、この世でたった一人しかいない。 「……ハル……?」 俺は夏休みに入ってから来た、ヨーヨーさんのメールをもう一回全部見直した。文末に、文中に、これでもかと顔文字が使われている。 その全てが、ハルがメールで好んで使っていたものばかりだった。 サイトの掲示板にも、コミュニティにも現れない、『ヨーヨー』という名の人物。 ハルと関わりがある人なのか。でも、そうだとしたら一体誰なんだ。 「ヨーヨー……ようよう……え?」 思い出した。 俺は生まれてからずっと『ハル』って呼んでいたから、すっかり忘れていた。 そうだ。確かにあの時、オムライスを食べながら言っていた。 ハルの本名は、『陽世』。 そして、部活で先輩につけられそうになったあだ名が、『ヨーヨー』。 ヨーヨーは、ハルだった。 すうっと、全身から血の気が引いた。 だって、ありえない。そんなこと、絶対にあり得ない。 だって、ハルは。ハルは。 とっくの昔に、この世にはいないんだから。 そうだ。ハルがこの世からいなくなって、もう四年も経つんだ。 四年前の、ちょうど今頃。夏がもうすぐ、終わるころ。 中学三年生の夏休み。ハルはいつもと同じように、旅に出た。ポケモンを連れた、四十五日間の冒険の旅に。 あの年の夏の終わり。数年ぶりと言われるほど、大きな台風がやってきた。 上陸した台風は、田を荒らし、屋根瓦を吹き飛ばし、川をあふれさせ、そして。 ハルが泊まっていた宿舎の裏の崖を、崩壊させた。 前の晩、顔文字をいっぱい使って、俺に『オムライスが食べたい』というメールを送ってきたハルは、二度とオムライスが食べられない体になって戻ってきた。 生まれる前から一緒だった俺の幼馴染は、手が届かないほど遠くへ行ってしまった。 顔文字が山ほど使われたメールは、もう二度と、届かない。 届かない、はずだったのに。 俺はノートパソコンを閉じて、ベッドに倒れ込んだ。混乱していた。頭が痛い。 だって、ヨーヨーはハルで、ハルはもういなくて、だけどメールが届いて。 考えてもわからない。わけのわからぬ疲労感。 俺はぐったりと目を閉じた。 気がついたら、日が沈んでいた。 俺はのっそりと起き上がって、ノートパソコンを開いた。インターネットのブラウザを開いてみても、今までと何ら変わりはない。 俺はふらりと、いつものコミュニティのチャットをのぞいてみた。 閲覧者は俺だけで、入室者は一人だけ。『ミラージュ』さんという、このコミュニティで小説を投稿している一人だ。確か、俺と同い年のトレーナーさんだったかな。 入室すると、ミラージュさんはいきなり、「ちょうどよかった」と書きこんできた。 「トレインさんに伝えたいことがあるの」 「何ですか?」 「実は、私の使ってないサブアドレスから、いつの間にかトレインさん宛てにメールが送られていたみたいなの」 「えっ?」 ミラージュさんの書き込みに俺は仰天した。 俺宛てに、メール? ミラージュさんのサブアドレスから? 「もし必要なら、スクリーンショットをアップするけど」 「お願いします」 ミラージュさんがアップしたメールのスクリーンショットを見ると、間違いなくそれは、俺に届いたヨーヨーさんからのメールだった。 ヨーヨーさんのメールは、ミラージュさんのパソコンから送られていた。これは間違いないことのようだった。 「これは確かに俺のところに来ていたメールです」 「おかしいわね。私、このアドレスはずっと使ってないのに」 「ミラージュさんじゃないんですね?」 「違うわよ。トレインさん、私がいつも使ってるアドレス知ってるでしょ?」 確かにそうだ。ミラージュさんとは何度かメールのやり取りをしたことがあるから、ヨーヨーさんのものと違うのは分かる。 でも、じゃあ誰が? やっぱりハルが? でも、そんなわけ……。 ……いや、待てよ。 まさか、そうだ、もしかして……! うん。もしそうなら、全部納得できる。 俺はすぐにチャットに書き込んだ。 「……ミラージュさん、あの、明日何か用事がありますか?」 「明日ですか? 特にないです」 「ミラージュさん、どこにお住まいでしたっけ」 尋ねると、ミラージュさんはそっと教えてくれた。 電車でおよそ二時間といったところか。不可能な距離じゃない。 「あの、もしよかったら、明日お会いできませんか?」 「明日ですか? うーんそうですね、まあ、いいですよ」 「ありがとうございます。それで、その時に……」 駅近くのビルの前に着いたのは、約束した時間の三分前だった。 辺りにそれらしき人はいない。俺が先に着いたみたいだ。 俺は待ち合わせの目印にしていたビルのそばに立ち、ガラス張りの壁をじっと見つめた。今日は人がいないようで、中は暗い。まるで鏡のように、ガラスに俺の姿が映っている。 足音が聞こえてきた。ビルのガラスに映る俺の後ろに、白い服の影が見えた。 「あの、トレインさん、ですか?」 「ミラージュさん、ですね。……急な呼び出しですみません。でも、どうしても確かめたくて」 「いいえ、構いません。言われた通り、連れてきました」 「ありがとうございます」 俺は顔をうつむけて、しゃべり始めた。 「俺の幼馴染に、ハル……陽世という女の子がいました。そいつはトレーナーだったんですが、四年前、事故で死にました」 「……」 「俺、最初はメールを送ってきたのは、ハルだと思ったんです。文体も、名前も、ハルでした。他にはいないと思ったんです」 「……」 「でも違った。いたんです、他にも。ハルのことを知っていて、俺のことも知っていて、ハルの文章を真似できる奴が」 それで、ミラージュさん。 続ける俺の声は、間違いなく、震えていた。 「教えてください。あなたのサーナイトは、元々……ハルのポケモン、ですよね?」 俺は顔を上げた。 俺の目の前には、黒いワンピースを着た女性と、白い服をまとった、緑髪のポケモンの姿が立っていた。 ハルが一番最初に出会ったポケモンは、ラルトスだった。それからずっと、キルリア、サーナイトと進化してからも、彼女はハルの一番のパートナーだった。 重い荷物運びや道を塞ぐ瓦礫の撤去。中学生女子にはきつい仕事も、エスパータイプのサーナイトがいればとても楽だと、旅から帰ったハルはよく言っていた。 ハルの手持ちの中で一番、ハルの近くにいたのが、彼女だった。 ミラージュさんは、小さくため息をついた。 「……私は三年前、事情でトレーナーをなくしたポケモンを引き取りに、施設へ行きました。この子とは、そこで会いました」 「やっぱり、そうだったんですね」 俺はふっと全身から力が抜ける感じがした。 トレーナーが亡くなった時、手持ちのポケモンは、大抵の場合は遺族に引き取られる。 しかし、遺族がポケモンを扱う資格を持っていなかったり、経済的な事情やその他何らかの理由でそのポケモンを引き取れなかったりした場合、ポケモンは施設を介して、他のトレーナーにもらわれていく。そういう制度があることは俺も知っていた。 ミラージュさんはため息交じりに続けた。 「親のトレーナーさんは、事故で亡くなってしまったと聞きました。同い年の女の子だったって聞いて、いてもたってもいられなかったんです」 ハルが死んだ後、俺はハルの手持ちのポケモンがどこに行ったのか知らなかった。だからきっと、誰かにもらわれていったんだろうな、とは思っていた。 まさか、こうやって再会するとは夢にも思わなかったけれども。 今回の騒動のそもそものきっかけは、ミラージュさんがサーナイトに、俺のサイトの小説を読んで教えたことだった。 サーナイトは知能が高く、人の言葉も大方理解するらしい。何より、意識をシンクロし、感情を読み取る力のあるサーナイトは、ミラージュさんの心を介してより深く感じ取ることができたのだろう。そしてその話の内容から、ミラージュさんの言う『トレイン』が俺であること、ハルの幼馴染だった『テッちゃん』であることも理解したのだろう。 それからサーナイトは、努力してキーボードの打ち方を覚えた。俺がこのことに気がついたのも、いつぞやのチャットで、ミラージュさんが「サーナイトがキーボードの打ち方を覚えた」って言っていたのを思い出したからだ。 そして文字の書き方を覚えたサーナイトは、ハルがいつも打っていたメールを真似して、俺にメールを書いた。 サーナイトが本当にきちんと言葉を理解していたかはわからないけれど。 ハルがどんな気持ちの時に、その文字を書いていたか。 ハルがどんな思いを込めて、その文章を打っていたか。 それは誰よりも、彼女がわかっている。 ミラージュさんが声をかけてきた。 「トレインさん。この子、何か伝えたいことがあるみたい。聞いてあげてくれませんか?」 「もちろん、いいですよ」 ミラージュさんはカバンからノートパソコンを取り出して、サーナイトに渡した。サーナイトは少しためらいがちにパソコンを開き、たどたどしい動きでキーボードを押した。 打ち終わって、画面を俺に向けた。やっぱり、無駄に顔文字が多い。 『テッちゃん、お久しぶりです。』 「うん、久しぶり」 ハルは、生き物がそんなに好きではない俺の前では、手持ちのポケモンを出すことはあまりなかった。だけど、このサーナイトはハルの一番のパートナーなのだから、さすがにお互い面識はある。 サーナイトはまたかちかちとキーボードを叩いた。 『最後まで、伝えられなかった言葉があるの。 何度も何度も、書いては消して、書いては消して。でも、伝えられなかった。 だから、私が代わりに伝えます。』 「……うん」 ずっと忘れられなかったんだ。 ハルがいない世界に、俺は耐えられなかったんだ。 だから俺は小説を書きはじめた。ハルと一緒に過ごした時間。ハルが話してくれたこと。楽しかったあの頃。あの時ああすればよかった。もしこうなっていれば。ハルならきっとこうしたはずだ。記憶。思い出。俺の勝手な想像。叶わぬ願い。それを全部詰め込んで、ハルをモデルに作りあげた主人公に押し付けた。 俺がキーボードを叩けば、ハルはパソコンの画面の中で冒険を続けていた。ハルが今でもそこにいる気がした。 ただの逃避にすぎないってことはわかっていた。目の前にいるのは俺の願望を押しつけられた鏡映しのキャラクター。単なる妄想だ。幻影を追いかけているだけなんだ。 もしハルが今ここにいたら、全くもう、何て未練たらしい男なの、と呆れていたことだろう。 でもどうしても、忘れられなかった。 俺はずっと、後悔していた。 いつも一緒だったのに、生まれる前から一緒だったのに、最後まで伝えられなかった。 たったひとことだけ、伝えられなかったんだ。 サーナイトは俺に画面を向けた。 顔文字は、ひとつも入っていなかった。 『テッちゃん、いつもありがとう。 テッちゃん、大好きだよ。』 ああ、参ったな。 名前以外、一語一句違わないなんて。 目の奥がじわりと熱くなった。堪えようと思っても、次から次からあふれてくる。 それなのに、言いたい言葉が、喉の奥から出てこない。届ける先を失って、飛びだすあてが見つからない。 俺の言葉は、伝えられないんだ。 もう、ハルはいないんだ。 ひとしきり泣いて、俺はようやく落ち着いた。ミラージュさんはじっと待ってくれるどころか、俺に濡らしたハンカチを貸してくれた。すみません、とありがたく受け取った。 サーナイトはそっと頭をなでてくれていた。赤い瞳が濡れているのは、感情をシンクロする能力によるものなのだろうか。 ミラージュさんが明るく笑って、俺に言った。 「さ、トレインさん。笑って笑って。そう言えばもうすぐお昼時ですよ。お昼、ご一緒にどうですか?」 「はい、ありがとうございます」 ハンカチで涙をぬぐって、俺は無理やり笑顔を作った。 この辺りなら、おいしいお店たくさんありますよ、と地元民のミラージュさんが言った。 「トレインさん、何か食べたいもの、あります?」 ミラージュさんが尋ねてきた。俺は軽く笑って言った。 「オムライスが食べたいです。薄焼き卵で包むのじゃなくて、オムレツが上に乗っているタイプの」 +++++++++The end |