1−3:揺らぐ足許それからというもの、赤い球団がカントー地方へ来る時、緋色のユニフォームを纏って、タマムシやヤマブキ、クチバなどカントーの球場を巡る日々が続いた。 昼間はトレーナーとしてポケモンバトル、夜は野球観戦、試合のない日はコンビニでバイト、というのが僕の生活パターンになった。 僕が同じ背番号を羽織ったあの投手も、何度か登板した。 彼は今もっぱら ただ、彼が登板する度、球場がざわめいて、時には口汚いヤジも飛ぶ。 理由は僕もわかっている。彼は少々、僕と同じ、特性「ムラっけ」の投手なのだ。最終的には抑えても、その前にランナーを出すことが多い。失点することもある。それ故に、彼は「試合を壊す」だの「胃薬必須」だのとなじられることが多いのだ。特に故障前はその傾向が強かったようで、そのイメージが未だに払拭できないのだろう。 しかし、投手というのは損な役回りだと常々思う。バッターは三割打てば一流と呼ばれて賞賛される。ピッチャーは七割抑えても詰られる。 プロの勝負の世界だ。勝った負けたもあるだろう。それなのに、味方のはずのファンに罵倒されるのはどういうことか。彼のユニフォームを纏って球場に来る度、試合の流れとは関係のないもやもやが僕の中に漂うのだった。 オールスターによる少しの休みを挟んで、ペナントレースは後半戦に突入した。 試合開始一時間前。タマムシ神宮球場の外野自由席で、綿雲がぽつりぽつりと浮かんだ真っ青な空を見上げる。蒸し暑い南風が汗に濡れた額を撫でる。被った赤い帽子の中で頭が蒸される。禿げそうだ。夏場のデーゲーム辛い。 ぼんやりと見たバックスクリーンの液晶画面で、球場内にあるアイス屋のCMが流れる。いいなあ、アイス食べたい。チョコミント食べたい。いやここってチョコミント売ってたっけ。球場内の店舗って種類そんなにないんだよね。バニラとソーダのはじける飴が入った奴とか、その辺はあったと思うけど、チョコミントってあったっけ。いや、というより、やっぱアイスいいわ。蒸し暑過ぎてクリーム系食べたくない。 サンバイザーに水色の花をつけた、ソフトドリンクの売り子さんが通路を歩いているのを見つけた。手を上げて呼び止め、ウーロン茶を買う。 売り子さんは首から提げている立ち売り箱から赤いカップを取り上げ、カップの周りの水滴をタオルで拭いながら、いつもありがとうございますと言ってきた。そういえばこの子よく見る気がする。ここでも、ヤマブキドームの方でも。両方でバイトしているのだろうか。しかし顔を覚えられているとは思わなかった。そもそも僕がソフトドリンクばかり買ってるからだろうか。大体の人は球場来ればビールだし。僕はアルコールからっきしだからいつもウーロン茶だけど。お金もないし。 皆さん暑いうちから熱心ですねえ、と僕より五つ六つ若そうな売り子さんが言う。半袖の制服からのぞく腕はこんがりと日焼けしていて、暑い中大変なのはそっちだろうに、と心の中でつぶやいた。 キンキンに冷えたウーロン茶が手渡される。これだよこれ。ストローで中身をすすると、氷で冷やされた液体が脳みそをクールダウンしてくれるようだった。ああ、何か元気出てきた。カレーだ。カレー食べたい。カレーじゃなくてもいいや。米食いたい。いややっぱ肉だ。決まらない。とりあえずコンコース行こう。試合前に腹ごしらえだ。 傍から見れば数秒真顔で固まっていたように見えたかもしれないが、その実割と高揚した気分で僕は席を立った。 試合は今日はお互い序盤から良く打ち、良く点が入る。追って追われてのシーソーゲームだ。 六回表に何とか三点勝ち越し、その裏に二点入れられて、七回表は無得点、一点リードで迎えた七回裏。ホームチームのラッキーセブンの大合唱が終わり、こちらはピッチャー交代となった。 背番号90がマウンドへ上がる。やった、よし頑張れ、と少しだけ口元が緩んだその時、僕の背後から大声が響いてきた。 「ホンカワぁーお前試合ぶち壊すんじゃねーぞこらぁー!!」 驚いて振り返ると、後ろの列の二つ隣りの席に座っている、スーツを着たサラリーマン風の中年男性が、ビールの入った紙コップを片手に大声を張り上げている。隣に座った同僚と思われる男性が制止するが、止める気配はない。 僕は高揚していた気分も吹き飛んで、苦い顔でため息をついた。あんなのはヤジじゃない。単なる中傷だ。聞きたくもない。 試合の方は、最初のバッターをショートゴロに打ち取ったものの、次の打者にセンター前のヒットを打たれて塁に出し、更に次の打者にフォアボールを出して、ワンアウト一、二塁となった。 「何やっとんならぁーホンカワー! 早う 例の男性の声が耳に刺さる。辺り一帯がどんよりとした空気になっているような気がする。気持ち悪くなってきた。 次のバッターに送りバントを決められ、ツーアウト二、三塁。一打逆転の大ピンチ。その場面で再び四球を許し、二死満塁となった。 「えー加減にせえやホンカワ!! 力ないんじゃけ早よ野球辞めてポ球でもやれーや!!」 後ろの男性がそう言った時、隣の同僚と思われる人が男性を制止して、少し小さめの声で言った。 「馬鹿、ホンカワがポ球やるわけないだろ。あいつポケモン嫌いなんだから」 頭が痛い。吐き気がする。視界がぐらぐら揺れているような感覚が襲う。 僕はスマホだけを持って、席を立った。周りの人が、ちょっとだけ同情するような目で僕と僕の着ているユニフォームを見てきた気がした。 コンコースの人気のない、壁際にしゃがみ込む。二、三回深呼吸をして、スマホを起動し、ウェブ百科事典のあの投手の項目に目を通してみる。便利な世の中になったものだと思う。怖いところもあるが。 画面をスクロールして経歴の項目をたどっていると、ある言葉が僕の目に飛び込んできた。 『特別児童養護施設 もみじの樹』。 特別、と濁して書いてあるが、この施設に入る子供の境遇はみんな同じ。 『携帯獣関係特別児童養護施設』、通称『 ここにいるのはみんな、親がトレーナーとして旅立ち、取り残された子供たちだ。 職業トレーナーとして旅立つ若者が増えたことで、様々な社会問題が浮上してきた。 その中のひとつが、家庭を持ったトレーナーが、家を棄てて旅に戻るというものだった。 旅のトレーナーがその先で恋人を作り、再びどこかへ行く場合。行きずりの関係で子供が出来て、誰の子とも言いだせず育てるのを放棄した場合。両親ともに旅のトレーナーだったのが、子供を棄てて再び旅に出る場合。幼い子供を持った若い親が、家庭を棄てて旅に出る場合。 いくつかパターンはあるが、いずれにせよ旅に子供は邪魔だから、と棄てられる子が後を絶たない。特携はそうやって棄てられた子たちが集められる。 特携が出来た理由としては、トレーナーの親に捨てられた子たちにポケモンを忌み嫌う子供が大勢いたからだ。 まあそりゃ当然だとは思う。政府としてはトレーナー産業を推奨したい、しかし現状ではトレーナーのあり方を批判されかねない。だからそういう子たちを収容して世間的には保護してますよとアピールしつつ、ポケモンやトレーナーがトラウマになっている子を何とかしよう、という感じだ。 実際のところ、その活動が上手くいっているとは僕は思えないけれども。 なるほど、と僕は思った。全ての物事が繋がったような気がした。彼がポケモン関係の授業がほとんどない進学校を選んだのも、ポ球ではなくポケモンが関わらない野球を選んだのも。 彼はポケモンが嫌いなのだ。トレーナーが嫌いなのだ。だからポケモンから隔絶されている『野球』を選んだのだ。 それに気付くと、僕は何ともいたたまれない気持ちで、胸が張り裂けそうになった。罪悪感のようなものが溢れてきた。僕はトレーナーだ。割といい年をした。僕が勝手に彼に親近感を持って、勝手に応援していたけど、きっと彼は僕みたいな人間が、一番嫌いなのだろう。 スタンドからまばらな拍手が聞こえてきた。コンコースのモニターを見ると、ベンチに下がる緋色の集団と、汗をぬぐいながらマウンドを降りるホンカワ投手が映っていた。 得点は七回裏が始まったところから変わっていない。結局何とか抑えきったようだ。 それでも、スタンドから彼への暴言は止まないだろう。チームへの愛という言い訳で装飾された一方的な中傷が、彼とは無関係なはずの僕の心まで抉る。 だけど、それも僕が勝手に同調しているだけだ。 ファンである資格など、僕にはないのかもしれない。 しばらく起き上がれなかった。頭の中が空っぽになってしまったようだった。 今日だけのことじゃない。今までずっと澱のようにたまっていたももやもやが、一気に爆発してしまったようだ。叫びたいような、暴れたいような、大声で泣きたいような。 何も考えられず、脳内は真っ白でぐるぐるしている。吐き気がする。頭が痛い。めまいがする。 ふと気がつくと八回裏が終わっていて、後続の投手が打ち込まれ逆転されていた。 僕はスタンドに戻り、座席の下に押し込んだ荷物を引っ張りだすと、ふわふわとした頭のまま残りの観戦を放棄して球場を後にした。 意識がぼんやりとしたままポケモンセンターへ戻り、宿舎の二段ベッドに倒れ込むと夜まで気絶するように寝た。 |