1−4:赤い帽子の女の子




 スマホのアラームで目が覚めた時には、何だか体中がだるくて熱っぽく、ひどくのどが渇いていた。
 僕はがんがんと痛む頭を抱えてベッドから起き上がり、鞄の横ポケットに刺さっていたペットボトルのぬるいスポーツドリンクを一気飲みした。ひどく甘ったるく、のどの奥がべたべたとした。スタジアムはひどく暑かったし、熱中症なのかもしれない。
 とはいえ、バイトに行かなければ。ただでさえ少ない収入を、これ以上減らすわけにはいかない。

 そう、減らすわけにはいかないのだ。ポケモンバトルの方も、僕の戦績は相変わらず勝率七割位を漂っている。
 わかっている。ここからもうひと踏ん張りしてもっと勝率を伸ばさなければ、大会上位に進むのは難しい。大会はほとんどがトーナメント制。負けたらそこで終わりだ。「ムラっけ」が発動して一回戦で負けたりしたら、そこで終わり。それが続けば、もはやトレーナとしてはやっていけない。

 あの日深夜のコンビニで出会った女の子は、時折テレビの中継にも映っている。「エンコウ トウカ」という名のトレーナーを知らない人は今やほとんどいないだろう。
 豪快で派手なバトルスタイルと、それなりに整った外見はテレビ映えするようで、何かのCMにも使われていたと思う。色々な大会で優勝している彼女は、今や立派なスターだ。勝率十割をキープし続けるのは、並大抵の努力ではないだろう。
 一度はバトルフィールドを挟んで向かい合っていたのに、随分遠い存在に思えた。
 あの日、僕はコンビニのカウンターの中にいて、彼女は店の外でサインの要求に応えていた。あの時にはとっくに、僕と彼女の立ち位置は決まっていたのだろう。
 スマホで時間を確認する。もうすぐ夜明けのコンビニバイト。ため息が漏れるばかりだった。

 もういっそ、すっぱり諦めて、辞めてしまった方がいいのだろうか。
 応援も、トレーナーも、何もかも、全て。


「……ねえ、店員さん」

 突然客に話しかけられた。何だなんだと見てみると、ちょうど思い返していたあの女の子、エンコウ トウカがレジ前にいた。
 あ、すみませんいらっしゃいませ、と僕が慌てていると、彼女は笑顔で僕に言ってきた。

「ねえ、あなたも野球好きなの?」

 突然の質問に僕が面くらっていると、彼女は僕のスマホを指差した。正確に言うと、スマホにぶら下がっている、ヘルメットとユニフォームのミニチュアのストラップを指差した。

「そのストラップ、マジカープでしょ? カープファン?」
「あ、えっと、はい……」
「わー! やっぱり! こんなところで同志に会うなんて思ってなかった!」

 彼女はそう言うと、鞄から長財布を取り出し、僕に見せてきた。
 赤い革製の長財布。隅っこにしっかりと「Magikarp」の刻印が入っていた。


 ようやく空が白んできたくらいの時間帯、僕とトウカさんはポケモンセンターのロビーで向かい合って座っていた。彼女は有名人なので、部屋の隅の目立たない席を選んだ。
 廃棄処分になるコンビニスイーツ(本当は持ち出しちゃいけないんだけど)と缶コーヒーで、早朝の茶会が始まった。

 「モトヤス アカシ」さん、だったよね? とトウカさんは最初に言ってきた。トウカさんは以前僕と対戦した時、大会のパンフレットで僕がモミジの街出身のことを知って、それで僕のことを覚えていたらしい。前に深夜のコンビニで客と店員として出会った時も相当驚いたとか。同じ球団のファンだとは思わなかったけど、とトウカさんは笑った。まさか名前まで覚えられているとは思わなかったから、僕もそれなりに驚いた。
 彼女はカントー、ヤマブキの生まれで、僕の故郷とは縁もゆかりもないそうだ。だけど小さい頃、知り合いに連れられて野球場へ行き、それですっかりはまってしまったらしい。今も時折緋色のユニフォームを羽織って、球場に足を運ぶそうだ。
 タマムシとかクチバだと内野席も結構行くよ、バックネット裏とか、と彼女は言った。バックネット裏ってSS席じゃないか。一番安い外野席ばかりの僕とはそもそもの経済観念が違うような気がする。そう言えば彼女の使っている赤い長財布、グラブと同じ革を使った球団が出してるグッズのひとつだけど、あれも確かそこそこいい値段だった記憶がある。僕の中からほんのり嫉妬のような感情が湧き出てきたのを感じ取ったのか、でもやっぱり思いっきり応援したいから外野が多いかな、とトウカさんは慌てて言った。

 何でも今シーズン球場のビジター席で僕らしき姿を何度か見かけたことがあるらしく、もしかして、とは思っていたらしい。さっきレジの中にいる僕のスマホのストラップを見て、疑惑が確信に変わったとか。確かに、ビジター席は大体の球場で狭いし、そもそも野球ファンの絶対数が多くない。何回か通ってみると、観客席は見知った顔だらけと言っても差し支えないくらいになる。それにしても、球場で何度かニアミスしていたとは全く気付かなかった。
 見覚えない? と言いつつ、トウカさんは鞄から球団のマークがあしらわれた、年季の入った赤いキャップを取り出した。普通のキャップより少しつばが長めの帽子を、目を覆わないぎりぎりの位置まで深く被る。
 その姿を見て、あ、と声が出た。確かに何回か、球場の通路とかコンコースとかで見たことがある気がする。ひとりで来ている若い女の子は珍しいし、顔は見えないけど何だか楽しそうだったという印象があって何となく記憶の片隅に残っていた。
 意外だな、君みたいな子はみんなポ球の方が好きなんだと思ってた、と僕が言うと、トウカさんは困ったようにはにかんだ。

「ううん、私、バトルは観るのもやるのも大好きなんだけど、競技はいまいち、こう、ねぇ。まあ、好みの領域だけど。でも人と人のガチンコ勝負の方が私は面白いなあ」

 なるほど、こういう好みの人もいるのか。実力のある若いトレーナーはみんな、何でもかんでもポケモンが混ざっていればいいのかと思ってた。
 トウカさんは二塁手セカンド紙屋町カミヤチョウが最近のお気に入りらしい。中堅手センター八丁堀ハッチョウボリ遊撃手ショート新天地シンテンチと共にチームを引っ張る、若手注目の星だ。でも三塁手サード段原ダンバラが見始めた頃から一番好きだな、送りバントを決める時なんか渋くて素敵! ととろけた表情で語る。幸せそうな様子を見て、若い女の子だなあ、と何だか微笑ましい気持ちになった。
 アカシさんはいっつもホンカワのユニ着てるけど、ファンなの? と聞かれたので、少しためらってからうなずくと、私も好き! と顔を輝かせて言ってきた。

「私ね、ポ球より断然野球が好きになったの、あの選手の影響もあるの!」

 はて、と僕は首をひねった。知らないの? とトウカさんは驚いた表情を見せた。

「今から……七年前だっけ。私まだ八歳かそこらだったけど。あったじゃない、合併騒動」

 ああ、と僕は首を縦に振った。ちょうど僕が、故郷を飛び出した位の頃のことだ。


 野球は一度、消滅しそうになったことがある。


 イッシュ地方から入ってきたポ球は、あっという間にこの国の国民の心をつかみ、瞬く間に浸透した。
 ポ球は独自にポケモン・リーグ、通称「ポ・リーグ」(運営団体としては響きがイマイチという理由で「Pリーグ」という呼び方を浸透させたかったようだが、もはや定着している)を設立し、各地に球団を持つようになった。とあるデータによれば、ポ球の広がりにより、野球は観客動員が五十パーセント以上減少、球界全体の経済損失は量り知れないという。
 球団によってはこれ以上の運営が困難となり、球団の譲渡や合併が巻き起こることとなった。

 そのような混乱の中で持ち上がった話が、従来の『野球』リーグの廃止と、『ポ球』への路線変更。全ての球団でポケモンを用いるという、『リーグ一本化』である。
 この案が成立すれば、人間だけで行われる「プロ野球」は事実上消滅。そしておそらく、二度と復活することはない。そんな状況に、本当にあともう一歩のところでなるところだった。

 そんな中、反対の声を上げたのが、野球を愛するファンと選手会である。合併を強行しようとする野球連盟に対し、選手会長を筆頭に、抗い、話し合い、激しいバトルを繰り広げた。連盟のお偉方に毅然として立ち向かっていた選手会長の姿は、僕も覚えている。
 結果として合併は起こらず、「野球」と「ポ球」はそれぞれ独立して存在することとなり、その象徴のように野球からはポケモン要素が締め出され、今に至る。

「でもね、ファンの中にも、選手の中にも、ポ・リーグへの合併やむなしって声もあったのね。そりゃそうよね、だって収入がなかったら自分たちの年俸もなくなるし、観客が来ないのは辛いもの。そうしたら選手が離れて、レベルが下がる。レベルが下がると面白くなくなるから、観客がますます来なくなる。そうやって、ゆっくり死んでいくだろう、って」

 だけどね、と彼女は目を輝かせた。

「そんな時、ホンカワさんの言った言葉がね、すごく、すごく素敵だったの! ばらけそうだったみんなの気持ちが、それでまとまったところもあるんだ!」

 そんなことあったっけ、と僕は眉を寄せた。何せ騒動があった時、僕はちょうど野球から離れつつある頃だった。だから騒動の概要は知っていても、詳しいことは知らない。というか、どうしてそこであの選手が出てくるんだ。そう思っていると、あの時選手会の役員のひとりだったんだよ、と言われた。なるほど。
 とにかく、ぐだぐだ説明するより見ればいいよ、とトウカさんはタブレットを操作し始めたが、その途端、あ、と彼女の表情が固まった。

「ごめん、今日朝からテレビに呼ばれてたんだった……。本当ごめん、今すぐ行かなきゃ」

 用事が終わったらURL送るから、夜になるけど、と彼女は僕の連絡先を強奪し、ポケモンセンターの外へ走って行った。
 今夜ナイターあるけどそれまでに間に合うのかな、あの子も今夜野球観るのかな、などと僕は思いつつ、夜までしばらく睡眠をとることにした。





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