2−1:試合前のざわめき日中はまだまだうだるような暑さだけど、日が沈む頃には少しばかり過ごしやすい気温になってきた、九月の半ば。いつの間にやらだいぶ短くなった陽が、ビル街の向こう側へ傾きかけている。 黒とオレンジの帽子を被った人でごった返す駅。少し大きめのつばの長い赤い帽子を目深に被り、赤いトートバッグを提げて、人の流れに乗って駅からの道を歩く。 歩道橋を渡り、青と黄色のビルの間を通るレンガ道のアーケードを歩き、屋根が途切れたところで顔を上げると、銀色のドームが見えてくる。 ヤマブキドーム。この国で一番最初に出来た屋内型野球場であり、ヤマブキを保護地域とする球団、ヤマブキレジギガスの本拠地。 そしてここは、私が「野球」を知った場所。 入り口で手荷物検査を受けて、チケットをもぎってもらい、回転扉をくぐる。気圧で耳が少しだけつんとする。 チケットに書かれた席へ向かう。今日はレフト側の、外野に一番近い場所にある内野ビジター席。この球場でのビジター席はレフト側外野の一部と、その近くの内野が少し。そんなに広くないけどこの球場は人気があるから、すぐに席が埋まってなかなかチケットがとれない。 本当は今日は外野席の気分だったけど、しょうがない。席が取れただけでも十分ラッキーだ。 座席を見つけて荷物を置く。今日はビジター席の一番外側。レジギガスのレフト側内野席と通路を挟んですぐ隣の場所だ。端っこだけど、席を立ちやすいから通路側の席はありがたい。特にひとりだと。 バッグを漁って緋色のユニフォームを引っ張り出す。今日は一番お気に入りの選手、 スタメン発表まではまだしばらく時間がある。このままぼんやり練習を眺めてるのもいいけど、ちょっと小腹がすいたかも。どうしようかな、と思っていると、スマホが振動してメッセージの到来を告げた。中を確認して、貴重品とチケットの半券が入ったチケットホルダーを首から提げ、コンコースへ向かった。 二階コンコースには通路端にピクニックシートや新聞紙がずらりと並んでいる。立ち見の人たちだ。座席のチケットがとれなかったり、財布が厳しかったり、この席を選択した理由はいろいろあるだろう。試合中ずっと立ちっぱなしだけれども、何せたった千円で試合が観られる。ありがたいことだ。私も何度もお世話になった。 緋色の服の人たちでごった返すビジター席後ろ辺りをうろうろしていると、私に向かって手を振ってくる知った顔があった。私も軽く手を上げて応え、小走りで駆け寄る。 「アカシさん、こんにちは!」 「やあ、トウカさん。姿が見えたものだから」 この人は 深夜のコンビニで働いているところに私がたまたま客として行って、ひと月くらい前に偶然にも同じ球団のファンだってことが判明。それ以前にも時々カントーの球場で顔を見ていたけど。何せ野球ファンは減る一方、その上贔屓の本拠地じゃないところなものだから、球場にいるファンの顔ぶれはかなり固定されている。少し席を見渡せば何となく見覚えのある顔がそこかしこ。そういうわけで、特に申し合わせることもなく球場で会うことも多いのだ。 トウカさんは今日も全身コーディネートだねえ、いいなあ限定Tシャツ、とアカシさんが笑う。アカシさんは緋色のユニフォームにカンフーバットという基本スタイルで、頭にはタオルを巻いている。ユニフォームの数字は90。初めて球場で会った時から一貫して、 「席、とれたんだ? うらやましいなあ。僕は駄目だったよ、チケット争奪戦まるで勝てないや」 「私もギリギリでしたよ。今日辺りもしかしたら混み合うんじゃないかな、って思ってちょっと早めに動いてたんですけど」 「さすが、いい読みだったね。何せ……今日決まるかも、だしね。レジギガスの優勝」 そう言ってアカシさんは客席を見渡す。ドームを埋め尽くすオレンジ色のユニフォームの人々が、普段より数倍盛り上がっていて、ドーム内には独特の熱気が漂っている。 金曜、週末、ナイターゲーム。一位を独走しているヤマブキレジギガスの優勝マジックは、一。今日レジギガスが勝つか、二位のアサガネエレクティヴィアズが負けたら、リーグ優勝が決定。そんな大一番なのだから、盛り上がるのも無理はない。ただでさえレジギガスは人気球団で、この球場はこの国で一番人が集まるのだし。 ただなあ、とアカシさんは苦笑いしながら言った。 「そういう日なんだから、今日ぐらい解放すれば良いのにな……最上階」 アカシさんはそう言って、内野の最上段スタンドを見上げた。そこは座席全面に、大きな布の広告がかけられている。実質、最上階の席をなくした状態。本来なら四万六千人入るらしいこのドームの収容人数は、今は三万人にも満たない状態にされている。 上の席にシートがかけられるのは野球の時だけ。このドームで「ポ球」の試合がある時はあの場所も全面開放されて、ドーム内は人でみっちり埋まる。 そうやっていろいろなところが削減されているけれど、このドームだけの問題じゃない。というか、この国で一番人が来るはずのヤマブキドームですらこの状態なのだから、他の球場は推して量るべしってところ。 「まあ、優勝決まりそうだからって削ってた席をいきなり増やすのもチケット売る方としては難しいでしょうけどね」 「そうだろうね。ああ、野球の試合の時にこのドームが人でいっぱいになるの、一度くらいは見てみたいなあ」 壮観だろうね、とアカシさんはまた笑う。私もアカシさんもポ球は見ないから、このドームが完全に埋め尽くされた状態は見たことがない。 通路に人が増えてきた。時計を見る。スタメン発表まではまだしばらく時間がある。 どっかでお茶でもどうかな。私がちょうど同じことを考えていた時、アカシさんが先に提案してきた。 階段を降りた先の一階コンコースには、試合前に飲食物や応援グッズを買う人たちが溢れている。 お弁当やファストフードの店を通り過ぎ、コンコースの一角にある立ち飲みカフェの、一番奥の目立たない席へ行く。私があまり衆目にさらされない場所を選んでくれるアカシさんの心遣いに感謝し、アイスココアを注文した。 アイスコーヒーにガムシロップをふたつ入れながら、で、何かあったの? とアカシさんが聞いてきた。ポカンと顔を見上げると、何か元気なかったから、余計なお世話だったかな、とアカシさんはアイスコーヒーをかき混ぜながら苦笑いした。からからという氷の音を聞きながら、大したことじゃないんですけどね、と苦笑いを返した。 「アカシさんの地元って、トレーナー少ないんですっけ?」 「そうだね。僕の高校時代の同級生なんかだと、地元を出てトレーナーになったのは僕ともうひとりかふたりかそこらじゃないかな。ポケモンを持ってる奴自体はもっとたくさんいたけどね」 「へえ、そうなんだ。私の周りだと、同年代だったら三割くらいは私みたいに学校に行かずに旅に出てるかな。残りの四割が長期休暇だけ旅に出るか旅に出ないトレーナーで、あとはポケモン持ってるけどトレーナーじゃなくて、ほんの数パーセントだけポケモンも持ってない、って感じ」 「へー、話には聞いてたけど、やっぱりかなり多いんだね、トレーナーの数。僕の地元じゃ考えられないな。って言っても、僕もこっちに来てもう七年たってるから、今の子たちはもうちょっと旅に出る子が多いかも」 「やっぱり、野球ファン多いんですか?」 「そうだねえ、何ていうか、好きとか嫌いとか言う以前に生活の一部みたいな感じではあるかな」 「……羨ましいですね、それ」 私は小さくため息をつき、無意識に帽子のつばを下げた。アカシさんが辺りを見回してから、何かあったの、と小声で聞いてきた。私は頭を振って、本当に大したことじゃないんです、とまた苦笑いを返す。 「……この前、雑誌の取材受けたんです。ポケモンジャーナル」 「ああ、『このトレーナーにピントレンズ!』のコーナーかな。すごいね」 「それです。で、インタビューの時に聞かれたんです。『ポケモンバトル以外に好きなことってありますか?』って」 それで、と私はストローでココアの入っていたグラスの中身をかき混ぜつつ、ため息交じりに言った。 「野球です、って答えたら、インタビュアーの人、ぽかんとしちゃって。で、『ポ球じゃなくて?』『野球ですか?』『何で?』ってすごく何度も聞かれたんです」 「あー……うん、なるほど、それは……ねえ」 「はい。正直、ちょっと、やっちゃったなあ、って思って」 そう言って、私は大きなため息をついた。 「野球」と「ポ球」の間には、とても深い溝がある。 原因は七年前起こった、野球とポ球の合併騒動。細かい事情は省くけれども、結果として、野球とポ球は別々の存在となり、野球からはポケモンの要素のほとんどが排除されることとなった。野球はポケモンの介入を拒み、ポ球は自分達を拒んだ野球をよく思っていない。 私が球場に来る時、大きめの帽子を目深に被っているのは、そのせい。私はちょっと名の知れたトレーナーで、ポケモンと常に一緒におり、ポケモン持つ人々の模範として生活しなければならない立場。そんな私が、ポケモンを排除する方針である野球を好んでいるのは、あまり知られるとトラブルになりかねない。だから、あくまでお忍び的な感じで球場を訪れている。 実際、野球ファンにはポケモンをあまり好いていない人がそれなりにいる。野球場は、ポケモン嫌いな人が落ち着ける場所でもある。私や彼は、この場所ではどちらかというと少数派だ。彼の方は球団の本拠地の出身で、しかもトレーナー文化がまだカントーほど根付いていない土地らしい。だから、私みたいにカントー出身のトレーナーで、野球大好き、っていうのはもっと稀だ。 「野球を見るのは頑固者とひねくれ者とポケモン嫌い」、などというとっても失礼な冗談が、平然とまかり通っているのが実情だ。 「有名になるって、面倒くさいですね」 贅沢な悩みですかね、と私は小さくため息をついた。アカシさんは複雑そうな笑顔を私に向けた。 時計を見た。そろそろスタメン発表の時間だね、とアカシさんが言った。今日も頑張りましょうね、と軽く笑って拳を合わせ、スタンドへ戻った。 |