2−2:「好き」と苦しさ




 座席について、スタメン発表で盛り上がり、試合を待つ。
 みっちりと両軍のファンで埋まった球場の中で、通路を挟んだ隣の席はふたつ並んでまだ空いている。仕事か何かなのだろうか、途中から入場することはまあそんなに珍しいことでもない。それにしても、通路の向こう側ということはレジギガスファンだと思うけど、今日みたいな日に最初から来られないなんてもったいないな。まあうちが勝つけど。

 相手の優勝がかかって燃えているのか、今日の先発投手はものすごく調子がいい。相手をあっさりと抑えていく。テンポがいいので試合運びも速い。さすがはモトマチ、うちのエース。この際こっちも凡打ばかりなのには目をつぶっておこう。気にしたら負けだ。多分。でもお願いだからそろそろ打ってほしい。
 六回裏もさくさくと相手打者を片付けていく。むふふ、いい感じいい感じ。もうすぐ七回、ラッキーセブン。ヤマブキドームではジェット風船を飛ばせないけど、みんなで球団歌を歌うのはとても楽しい。
 背すじを伸ばして備えていると、通路を挟んだ向かい側にようやく人が入ってきた。

「あら、ここだわね。もらったチケットだけど、やあねえ、ずいぶん端っこじゃない」
「野球って初めて来たけど、何だか人ばっかりねえ」
「もらったから来てやったけど、何が面白いのかしらねえ、本当」

 おばさん二人がそう大きな声で言いながら、空いていた席に座る。
 ううん、と思わず眉間を押さえた。申し訳ないけども、ちょっと興がそがれる。
 正直、珍しくはない。運営者だってなるべく席を埋めたいし、好きで席を取っていたけど、何かしらの理由で来られなくなって、人に譲ることもあると思う。それにしても、よりによって今日かー。私は小さくため息をついた。
 ひと通り野球への罵倒を言ってから、おばさんは鞄からボールを出した。

「さあミケちゃん、狭いところでえらかったでちゅねー」

 おばさんはそう言って、ボールからニャースを出した。周りの人たちが「えっ」という表情でおばさんを見る。野球でのルールを知らないのだろうか。それにしても周りの人たちが誰もポケモンを連れていないのを見て察したり出来ないのだろうか。
 少しいらいらが溜まってきていたのもあって、私はため息をついてから席を立ち、おばさんの近くに行って小声で言った。

「あの、すみません。野球の試合中は、ポケモン出さないようにしてもらえませんか?」
「何よ、こっちはわざわざこんな不人気スポーツなんか見てやってるのよ。わざわざ来てやってるんだから、うちのミケちゃんに見せてあげるくらいさせなさいよ」

 でもそういう決まりですから、と食い下がる。周囲の人たちが騒ぎに気づいて、次第に注目を集めている。しばらく押し問答しているうちに、おばさんのほうもヒートアップしてきた。

「何よ! 生意気な子だね! いい加減ほっといてちょうだい!」

 そう言うと、おばさんは思いっきり私を突き飛ばした。バランスを崩して、プラスチックの座席の背もたれにしこたま腰を打ちつけた。角が思いっきり刺さった。一瞬息が止まった。痛い。痛くて涙が出る。周りからざわざわと声が聞こえ、近くの席の人がおばさんを取り押さえていた。
 私は腰をさすりながら何とか身体を起こした。おばさんはまだ何やら喚いていたけれども、騒ぎを見たドリンク売りのお姉さんが警備員さんを連れてきて、騒ぐおばさんを事務所まで連れて行った。
 私は大きく息を吐いた。正直怖かったし、本気で痛かった。警備員さんを連れてきたドリンク売りのお姉さんが、私の足元に落ちていた赤い帽子を拾い、大丈夫ですか、と言いながら私に渡してきた。
 大丈夫です、と答えかけて、はっと今の状態に気がついた。目深にかぶっていた帽子が、今私の手元にある。

 ざわざわというささやき声。「あれってエンコウトウカ?」という声が耳にはいる。かしゃ、かしゃ、とあちこちからスマホのシャッター音がした。

 ばれた。見つかった。一気に血が凍ったような感覚が襲ってきた。
 はじかれるように立ち上がり、座席の下に置いていた荷物をひったくって、私は一目散に出口へ駆けだした。


 ドームを出て、ずっとボールに仕舞っていた相棒のドンカラスを出し、背に飛び乗って一直線に家へ向かう。明かりのついていない家の、二階のベランダに直接降り立ち、窓から自分の部屋へ入る。
 部屋の明かりをつけて、窓に鍵をかけ、カーテンを閉めて、何度も深呼吸をする。心臓が早鐘を打っている。何度も何度も深い呼吸を繰り返し、吸いすぎてむせた。少し落ち着いてから、一階に降り、台所の冷蔵庫からサイコソーダを一本取り出し、ふたを開けて一気にのどに流し込んだ。炭酸がのどを焼き、またむせた。
 部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。しばらく目を閉じて呼吸を整えてから、タブレットを手に取った。電源を入れ、つぶやきサイトへ飛ぶ。
 サイトへ着くなり、嫌な予感が的中していたことを悟った。

『ヤマブキドームに来てるんだけど、トレーナーのエンコウトウカが他の観客と揉め事起こしてた』

 その言葉と一緒に、赤い帽子を手に持つ私の写真がタイムラインに大量に流れてきた。
 私はすぐにつぶやきサイトから出た。頭がぐらぐらする。かぶりを振り、検索サイトで自分の名前を入れてみる。ネット掲示板のスレッドが引っ掛かる。

『エンコウトウカって野球好きなん? ポ球じゃなくて?』
『ばっかお前、ポ球はナイターやってないだろ。ってか写真見ればすぐわかる』
『上から下までがっつりグッズ装備してる件』
『野球ってあれだろ、めっちゃポケモン排除してる奴だろ』
『ショックだわ……トウカさん結構好きだったのに』
『あんだけ大会で優勝してるのに、野球好きとかマジでないわー』

『野球が好きってことは、あいつ、ポケモン嫌いだったんだな』

 ああ。ああ。違う。違う。そうじゃない。そうじゃないの。私はポケモンが好きで、バトルが好きで、でも野球が大好きっていう、それだけなの。
 でも、それを主張しても、きっと伝わらない。それだけ広くて深い溝が、野球とポケモンの間には出来ている。理解してたのに。わかってたから、何とか回避しようと思ってたのに。
 後悔しても、もう遅い。情報はネットの波に乗って速やかに拡散され、誤解と勘違いを巻き込んで、とうに手の着けようがなくなってしまった。
 頭が痛い。吐き気がする。聞きたくない声から逃げるように、私はベッドの上で耳をふさいで丸くなった。


 気がつくと、カーテンの隙間から陽が差し込んでいた。
 壁に掛けられた時計を見る。昼の十時。いつのまにか寝ていたらしい。

 スマホを手に取り、小さくため息をついて、電源を入れる。なるべく薄目で画面を見る。少なくとも、やたらと大量のメッセージが届いたりはしていないみたいだ。少し安心して、スケジュールを開く。
 明日は前から出る予定だった大会。調整は上々。負ける気はしない。そっちについて心配は全くない。
 あとは、と鞄の中の赤いチケットホルダーを見る。中に入っている二枚のチケットを見て、自然とため息が出た。

 ちょうどその時、スマホが振動してメールの到来を告げた。中身を読んで、じゃあ一時頃に、と返事をし、シャワーを浴びに浴室へ向かった。


 タマムシシティのポケモンセンターのロビーに行くと、一番奥の人目につかない席にアカシさんが座っていた。私が来たことに気付くと、アカシさんは真っ先に「大丈夫だった?」と聞いてきた。

「昨日、僕のいたところからもトウカさん見えたから……ケガとかしてない?」
「大丈夫、大丈夫です。本当に。ちょっと腰を打ったけど、平気です」

 アカシさんはちょっとだけ安心したような顔をした。そうだ、とアカシさんは無理に笑ったような顔で言った。

「昨日、あの後八回、ダンバラがヒットを打って、その後何とモトマチがまさかまさかのホームラン! そのまま二点を守りきって自援護完投完封勝利だったよ!」
「本当!? さすがうちのエース!」
「九回裏にちょっと危ない場面があったけど、抜けるかと思った辺りをカミヤチョウが見事なブロック!」
「やっほう! 残カミ!」

 残念そこはカミヤチョウだ、と華麗な守備をふたりで称える。でも、そこで少し沈黙。一瞬気まずい空気が流れた後、私が先に口を開いた。

「アカシさん、今日のナイター、行かれますか?」
「あー、うん、一応ね。今日も立ち見だけど」
「じゃあ、これどうぞ」

 私は鞄の中からチケットホルダーを取り出した。赤いチケットホルダーの中から今日の日付の外野ビジター席のチケットを取り出し、アカシさんに渡す。アカシさんは目を丸くして、チケットと私を交互に見る。もう行けそうにないんで、と言うと、アカシさんは事情を察して申し訳なさそうな顔になった。
 有名になるって、面倒くさいですね。昨日球場で言った言葉が、口をついて出た。

「私、ポケモン大好きなんです」

 ぽろりと、目から涙がこぼれ出た。

「ポケモン大好きで、バトルが大好きで、誰より頑張って、努力して、やっと今みたいに勝てるようになったんです。地位とか、名誉とか、お金とか、そんなのどうでもよかった。ポケモンバトルが大好きで、誰より強くなりたかった。それだけだった。ただ、それだけだったの」

 ぼろぼろと、とめどなく涙がこぼれ出る。

「わかんない。もう、どうすればいいのか、私わかんないよ」

 私もモミジの街に生まれたかった。野球が当たり前のところに生まれたかった。そうしたら、こんな思いもしなくてすんだかもしれない。野球が好き、マジカープが好きって言っても、まあしょうがないよね、って済まされたかもしれない。

 ただ好きなだけなのに、何でこんなに苦しまなきゃならないんだろう。

 わたわたしながら慰めてくれるアカシさんには申し訳なかったけど、流れ出した涙はなかなか止まらなかった。


 そのあとは記憶がいまいちはっきりしないけど、少なくとも夕方には家に帰っていた。ベッドに寝転がって、うたた寝したり起きたりを繰り返していた。

 夜遅くにスマホを点けると、ヤマブキレジギガスがリーグ優勝したというニュースが目に入った。
 私はスマホの電源を落として、そのままふて寝した。





←前   小説本棚   次→