2−3:帽子の記憶




 気がつくと、セピア色の景色の中にいた。
 リビングに、小さな頃の私が立っていた。多分、まだ小学校に入ったばかりの頃。
 家の中は真っ暗で、お父さんも、お母さんもいない。いない理由は、知ってる。ふたりとも、トレーナーだから。

 私の家に家族三人がちゃんと揃うのは、一年の間で片手で数えられるくらいしかない。お父さんもお母さんもトレーナーで、いつも全国のあちこちを飛び回ってる。
 冷蔵庫を開けると、みっちりと詰まった飲料水のペットボトルとレトルト食品。月に何度か、定期便で家に届く。少なくておいしくもない安価なインスタントのごはんを、いつも自分で温めて、ひとりで食べる。この頃の私はまだ自分のポケモンを持っていなくて、家の中は本当に私だけだった。
 家ではいつもひとりぼっち。このくらいの年になる頃には、もうそれにも慣れていた。


 ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴った。お母さん? と思って走っていって、勢いよくドアを開けた。
 立っていたのは、ご近所のお兄さん。カイにい、と私は呼んでいた。カイにいはポケモンの扱いがとても上手で、私はよく遊んでもらったり、ポケモンバトルを教えてもらったりした。今のトレーナーとしての私の基礎はきっと、家にいなかったお父さんお母さんじゃなくて、カイにいに教えてもらったことだと思う。
 お父さんかお母さんはいる? とカイにいは聞いてきた。私は首を横に振って、まだしばらく帰らないと思う、と言った。そうやって口に出すと、何だか急に寂しくなって、涙がこぼれそうになった。
 すると、カイにいは大きな手で私の頭を撫でて、笑顔でこう言ってきた。

「トウカちゃん。今から、俺とちょっと遊びに行こうか」

 大きな手提げカバンを持ったカイにいに連れられて、地下鉄に乗った。
 駅を出て、目の前にあったのは大きなショッピングモールと、遊園地。ジェットコースターに乗る人の歓声が聞こえてきて、観覧車がゆっくりと回り続けていた。
 遊園地で遊べると思って私は飛び上がって喜んだ。でもカイにいは、今日はここじゃないんだ、と言って、私を更に奥へ引っ張って行った。

 私の目の前に現れたのは、銀色と白の大きな傘みたいなドーム。
 黒とオレンジの服を着た人が、たくさん歩きまわっていた。何があるの? と私はカイにいに聞いた。

「トウカちゃんは、『野球』を観たことあるかな?」

 私は首を横に振った。『ポ球』はある? とカイにいは更に聞いてきた。私は少し悩んで、あるにはあるけど、と言った。
 ポ球はテレビでもよく中継されていて、それを見たことは何度かあった。だけど、私にとってポ球はあまり面白いものに感じられなかった。
 私は小さい頃からポケモンバトルが大好きで、バトルのポケモンが全力を出して戦っている感じとか、それを指示しているトレーナーのかっこよさとか、その辺が好きだったからか、コンテストやミュージカルにはあまり魅力を感じなかった。それと同じ感じで、ポ球もあまり面白いと思えなかった。嫌いじゃないけど、何か違う、そんな感じ。
 カイにいはそんな私の反応を見て、きっと気に入ってもらえるよ、と笑った。

 回転扉をくぐって、カイにいに連れられて行った場所には、外ではあまり見なかった真っ赤な服を着た人たちが集まっていた。
 この人たちは何で赤いの? と聞くと、俺らはコイキングだからだよ、と言ってきた。

「俺たちはコイキング。これからどんどん強くなる。上限のない、未来ある強さを持ってるんだ」

 そう言ってカイにいは、私には大きすぎるつばの長い真っ赤な帽子を被せてくれた。


 試合が始まって、周りの緋色のユニフォームの人達と一緒に、見よう見まねで応援をした。メガホンを打ち鳴らして、歌を歌ったり、立ったり座ったり、大きな声で声援を送った。野球のヤの字も知らないのに、突然応援席に連れて来られてとても戸惑った。だけどカイにいは、私に野球のルールや応援の仕方をとても丁寧に教えてくれた。
 そうしているうち、だんだんみんなで声を合わせて応援するのが楽しくなってきた。カイにいがいろいろ教えてくれるから、どんどん野球の見方もわかってきた。見方がわかると、ますます応援が楽しくなった。
 黒い方の打者が放った鋭い打球を、三塁の選手が飛びついてキャッチした。あの人誰、と聞くと、ルーキーのダンバラだよ、とカイにいが返した。すごくかっこよくて一気にファンになった。
 テレビでポ球を観ていた時と全く違い、私は野球を心の底から楽しいと思った。人しかいないその世界が、その勝負が、私にはとても輝いて見えた。

 九回裏、私たちが応援していたチームがほんの一点リードしていた。カイにいは私にオペラグラスを渡して、言った。

「マウンドを見てごらん。『90』の背番号を背負った選手がいるだろう? 彼は俺らの『守護神』だ。彼が出てきたら、俺たちは勝てるんだよ」

 オペラグラスをのぞくと、緋色のユニフォームに白い文字で「HONKAWA 90」と書かれている選手が見えた。ショウリ、頑張れ、とカイにいが声を上げた。
 その選手はすごく速い球と、すごく落ちる球をぽんぽんと投げた。あっという間に電光掲示板に赤い丸がひとつ、ふたつと点灯し、そして最後にバッターが大きな空振りをして、みっつ目が点いた。
 赤い服を来た人達が喜んで立ち上がった。私も、カイにいも、一緒に喜んだ。
 歓喜に湧くスタンドの赤い集団と、誇らしげにベンチに戻る、赤い90番の背番号が、私の心に焼き付いた。



 そこで目が覚めた。時計を見ると、朝の六時半だった。
 随分久しぶりに、小さい頃のことを思い出した。
 私が初めて野球に出会った時のこと。カイにい、今どうしているんだろう。あの後すぐにカイにいは遠くに引っ越してしまって、それ以来音沙汰がない。私はまだ小さかったから、何をやっていた人なのか、それもわからない。今思い返せば、名字すら、いや本名すら、私は覚えていない。
 ただ確かなのは、カイにいは私に野球を教えてくれた人ってこと。

 机の上に置いていた、つばの長い赤い帽子が目に入る。
 私はそれを手に取って、頭に被る。いつの間にかぴったりになった帽子。ぐっと目深に被ると、優しい大きな手が頭をぽんぽんと撫でてくれるような気がした。
 私は軽く笑う。いつからかこの帽子は、私のお守りになってたみたい。

 カーテンを勢いよく開いて、窓を開ける。朝の日差しと風が部屋に入ってくる。大きく伸びをして、深呼吸し、よし、と私は気合いを入れた。





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