2−5:届く言葉




 裏口から出た瞬間、すみません、と声をかけられた。出待ちの人かな。珍しいなあ。そう思いながら振り返って、私は飛び上がった。
 声をかけてきた男性が着ているのは、緋色のウィンドブレーカー。「Magikarp」のロゴが入っている。
 突然すみません、と頭を下げながら、男性は名刺入れから名刺を取り出して私に差し出してきた。

「初めまして。モミジマジカープの球団広報、天満テンマ 好一コウイチといいます」

 球団のペットマークが入った赤い名刺に、「天満 好一」と名前が書かれている。一軍付球団広報、という肩書きを見て、私はあれ、と小さく声を上げた。

「テンマさんって……あの、温泉、じゃなかった、テンブロの?」

 あ、そうです、とテンマさんは照れ臭そうに頭を掻いた。いつも見てますと私が言うと、テンマさんはまた照れ臭そうに何度も頭を下げてきた。
 「テンブロ」、正式名称は「球団広報てんまくんのブログ テンブロ!」。ファンの間での通称は、名前が露天風呂っぽいからって理由で「温泉」。
 今シーズンの春季キャンプから球団の公式ホームページ上で始まったブログで、選手のベンチ裏や練習中の写真がほぼ毎日更新で掲載されている。
 テンマ広報は去年までマジカープに在籍していた投手で、去年のシーズンオフに戦力外通告を受けた後、球団広報として在籍することになった。選手に近い目線で撮られる写真はとても自然体で、マジカープのファンはほとんどの人が見ていると思う。


 よかったら、どこかで少しだけ話できませんかね、と言われたので、とりあえず近くのポケセンに入った。
 ロビーのいすに座るなり、このあと試合あるしあんまり時間はないから今日はとりあえず挨拶だけだけど、と前置きして、テンマさんは言った。

「実はトウカさんに、野球のCMに出てもらえないかな、と思って」

 へっ、と間抜けた声が出た。
 何でも、おとといの騒動の直後から、せっかくだからこの騒動に乗っかったらどうよ、という意見が、騒動の舞台になったレジギガスはじめ様々な球団の広報から出てきたらしい。おとといの夜中には十二球団の広報たちで通信会議をして、とりあえずマジカープファンらしいからお前行ってこいよ、というノリでテンマさんが派遣されたとか。
 ずいぶんフットワーク軽いですね、と言うと、それだけ球界全体が必死なんだよね、とテンマさんは苦笑いした。
 とりあえず昨日徹夜で作った資料があるから、とテンマさんは鞄を漁り、しばらくして絶望した顔をこちらに向け、すみません忘れました、と言ってきた。

「すみません……今度メールで送るんでアドレス教えてもらっていいですか……」
「あ、はい。お気遣いなく……」

 私はもらった名刺の裏側にアドレスを書く。テンマさんはもう一度すみませんと謝りながら新しい名刺を差し出し、ともかくとして、と話の続きを始めた。

「実は今年度初めぐらいから、ポ球の方ともずっと話し合いをしていて、年明けぐらいから野球とポ球合同でCM作ろうかってことになってたんだ」
「野球とポ球合同……ですか」
「うん。ポ球がこの国に入ってきて二十年、そろそろお互いに出来た溝を埋める努力をすべきなんじゃないかっていう話にはずっとなってたんだよ。それでとりあえず、歩み寄りの第一歩として、共同でCMを作ろうかってことになってて。それでキャスティングとかどうするよってなってた時に、一昨日の騒動があってさ」

 なるほど、と私はうなずいた。元々そういう話が合ったならフットワークの軽さもまあわからないでもない。軽すぎる気はするけど。


 ところで、さっきの大会の中継、見てましたよ、とテンマさんは突然話を変えてきた。

「トウカさん。僕がプロ入りした時の、最初の球団、知ってます?」
「えっ……マジカープ、じゃなかったんですっけ」

 二年目のオフに FA フリーエージェントの人的保証でマジカープに入ったんだよ。結局一軍ではほとんど投げてないから、さすがに知らないかな、とテンマさんは苦笑いした。

「七年前にプロ入りした時の、僕の最初の球団はね……コガネバファランツ、だよ」

 あっ、と私は息をのんだ。
 コガネバファランツ。その名を冠した球団は今、もうない。七年前の球団再編問題。その収束と共に、吸収合併され消えてしまった、紅色の球団。

「プロ入りしてすぐに例の問題が起こって、ルーキーイヤーの間ずっと振り回されてた。球場に行くと、スタンドにいつも観に来てくれる人たちがいた。二軍の試合だよ。それでも来てくれる人たちはいつもいたんだ。なくさないでくれ、このままでいてくれ、って泣きながら叫んでるファンの人がいっぱいいた」

 結局合併は止められなかったけどね。あの時のファンを思うと、未だに胸が痛いよ、とテンマさんは悲しげな表情を見せた。

「だからね、あの悲劇をもう繰り返しちゃいけないって思うんだ。僕たちはファンのために、応援してくれる人たちのために、頑張らなきゃいけない」

 そのためなら出来ることなら何だってやるし、広報の仕事をはみ出したことだって、フットワークが軽すぎることだって、何だって頑張るさ、とテンマさんは笑った。
 私は言葉に詰まった。紅色のファンを思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。

 好きだと言いたいのに、伝えたいのに、その相手はもういない。

「さっきの中継を見て、他の球団の広報さんたちからもゴーサインをもらったよ。みんな、トウカさんならきっと任せられる、って」
「何で私、なんですか?」

 簡単だよ、とテンマさんは笑った。

「苦しい立場だろうけど。厳しい野次も飛んでいたのに。それでも君はちゃんと勝負に勝って。それで、あんなに大勢の人たちの前で、堂々と」

「『野球が好きだ』って、言ってくれたから」

 テンマさんは私の手を取ると、満面の笑みで、ありがとう、と言ってきた。
 私は何だか言葉に出来ない不思議な気分になった。嬉しい、というか、感無量、というか、とにかく胸がいっぱいで、何だか泣きそうになった。

 テンマさんは腕時計を見て、僕はそろそろ球場に戻らなきゃ、と言ってきた。
 CMの件、よかったら考えてみてね、と言い残して、テンマさんはヤマブキドームへタクシーを走らせた。


 ポケセンのロビーで、スマホの電源を入れる。
 検索サイトで自分の名前を入れると、またネット掲示板のスレッドが引っかかった。
 おとといと同じような罵倒の中に、少しだけ紛れ込んでいる書き込みがあった。

『実は俺もトレーナーだけど野球好きなんだよな』
『野球好きなんだけど今まで隠してたから、実はちょっと嬉しかった』

『ああやって言ってくれたから、これからは俺も堂々と野球観に行けるかな』

 ああ、と息をつく。
 もしも少しでも、刻まれた溝が埋まるなら。口を閉ざす必要のなくなる人がひとりでも出るのなら。
 私が全てを打ち明けたことも、これから大会で心ない誹謗中傷を受けたとしても、それも全部無駄じゃなかったといえるかもしれない。

 スマホの時計が五時前を示していた。
 ああ、いけない。このままじゃ遅刻しちゃう。シャワーは浴びたかったけど、まあしょうがないか。
 私は鞄を持って、私が行くべき場所へ向かう。



 歩道橋を渡り、青と黄色のビルの間を通るレンガ道のアーケードを歩き、屋根が途切れたところで顔を上げると、銀色のドームが見えてくる。
 ヤマブキドーム。この国で一番最初に出来た屋内型野球場であり、ヤマブキを保護地域とする球団、昨日リーグ優勝を決めた、ヤマブキレジギガスの本拠地。

 そしてここは、私が「野球」を知った場所。

 通路を通り、緋色のユニフォームを着た人たちが集まっている場所に向かう。
 とんとん、と肩を叩かれた。振り返ると、見知った顔。

「やあ、トウカさん」
「こんにちはアカシさん」

 やっぱり、今日は来たんだ。アカシさんが安心したような笑顔を見せる。ご心配おかけしました、と軽く頭を下げる。
 昨日来なくてよかったね、目の前で胴上げ見る羽目にならなくて、とアカシさんが意地悪そうな顔を見せる。優勝シーンなんてどこの球団でもそうそう見られるもんじゃないから見たかったですよ、と負けじと悔しげな顔を返す。
 まあでも、優勝チームは決まっても、Aクラスに残るためには勝っていかなきゃいけませんからね、と私は言う。全くその通りだよ、とアカシさんはうなずく。

 今日はしっかり、ビジター外野取れましたよ! とチケットホルダーに入れたチケットを見せる。するとアカシさんは、僕も今日だけは奇跡的に取れた、とチケットを見せてきた。
 二枚のチケットに刻印された列番号を観て、ふたりして顔を見合わせて、笑う。隣り合った列数、同じ番号。前後の席だ。

 私は鞄の中から、つばの長い緋色の帽子を取り出し、目深に被る。もう顔を隠さなくてもいい。だけどやっぱり、これを被ると落ち着く。
 にわかにビジター応援席が盛り上がる。大変、早く席に行かないと、とアカシさんと笑い合う。

「さ、CSクライマックスシリーズに向けて、精いっぱい応援スクワットするとしますか!」

 緋色のユニフォームを羽織り、私は弾んだ足取りで自分の席へ向かった。





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