Inning4:スタンドの熱




 この人たちは一体、何が楽しくて球場に来ているのだろう。何度来ても、私にはわからない。


 日の長い時期。だいぶ西に傾いているのに未だじりじりと照りつける日光。まだ梅雨前だというのに、今日はやけに暑い。
 紫外線対策はやるだけ無駄だと初年度に判断して以来、焼けすぎてひりひりしない程度の日焼け止め以外は使わないことにしている。無駄に抗って、まだら模様になるのはもう勘弁だ。むしろ軽い小麦色になったくらいの方が、健康的に見えて売れ行きが上がるような気がしないでもない。
 ドリンクが入ったカップを満載した赤い立ち売り箱を抱え、笑顔を作り、通路から客席に向かって、手を上げて声を張り上げる。

「冷たいお飲み物はいかがですかー?」

 声をかけたブロックを見まわし、こちらにサインを送っている人がいないのを確認して、次のブロックへ向かう。
 客席にいるのはほとんどが酒の飲めるボーダーをとうの昔に超えた人たち。蒸し暑い空気の中でここの人たちが欲するのは、私が売り歩くお茶や炭酸飲料ではなく、前を歩く子の背負ったタンクから注がれる、キンキンに冷えた黄金色のアルコールに決まっている。
 ここはある程度持ち込みができる球場だし、わざわざイベント価格で買う人もそういない。ペットボトル一本より少ない量の飲料水をペットボトルの倍の値段で買うくらいならば、その三倍の値段だろうとかわいい女の子たちから注ぎたてのビールを買う方が楽しい、というのがわざわざ蒸し暑い休日、外に出てくる大人の意見だろう。
 赤い服を着た選手が練習を続けるグラウンドを背に、客席だけに顔を向け、声を上げる。あっちで何をしていようと、私には関係ない。手は上がらない。私はまた次のブロックへ歩いて行く。
 それにしても、暑い。昨日の夜、少し夜更かししすぎたのが悪かったのだろうか。汗がだらだらと止まらない。笛の音が聞こえる。暑い。暑い。

「危ない!!」

 目の前のお客さんが突然、私の服の裾を引っ張ってきた。バランスを崩してお客さんの上に背中から倒れ込む。
 私のいた辺りに、グラウンドから白いボールが勢いよく飛んできた。石のように硬いボールが、コンクリートの床に当たり、大きく弾んだ。周りから息を吐くのが聞こえ、危なかった、怖かった、という安堵の声が聞こえてきた。
 背筋がぞわっと冷たくなり、私は慌てて起き上がって、裾を引っ張ってきたお客さんに頭を下げた。

「も、申し訳ございません!」
「いやいや、当たらなくってよかったよ。大丈夫だった?」

 今日暑いからねえ、と、緋色のユニフォームを羽織った若い男性は笑った。
 この仕事を始めて何年も経つのに、暑さとだるさにやられて完全に油断してた。この競技で使われているボールはものすごく硬くて、当たったら大変なことになる。ケガじゃ済まないことだってあるのだ。この人が引っ張ってくれなかったら、どうなっていたことか。
 姉ちゃん、ボールには注意しなきゃ、ボールから目を離しちゃいけねえよ、警笛が鳴ったら気をつけなきゃ、と周りから次々と声をかけられ、私はまた申し訳ございません、と頭を下げた。
 赤い90番のユニフォームを纏った男性はまた笑って、せっかくだからウーロン茶ください、と言ってきた。


 バックヤードに戻ると、売り子仲間が話しかけてきた。

「チヅルちゃん、さっきボール当たりそうになったんだって? 駄目だよ気をつけなきゃ」
「うん、ちょっとぼうっとしてた」
「チヅちゃん今日ダブルヘッダーだっけ? 午前から働いてるよね。それじゃあ疲れるよねえ。今日暑いもん」

 ちょっと休憩しなよ、と言われ、そうする、と返して立ち売り箱を下ろし、パイプ椅子に身を沈める。水色の花をつけたサンバイザーをとり、机の上に置いた。タオルで額の汗をぬぐい、目を閉じる。
 十分、いや五分休んだらまた行こう。
 このバイトは歩合制だ。固定給はこの場所までの交通費程度にしかならない。二百五十円のドリンク。一杯あたりの給料は四十円。頑張って売って、一時間に二十。いや、二十出れば上出来すぎるくらいだ。十行けばまずまずだろう。自給四百、五時間休まず働いて二千円。売れなければお金が入らない。一杯でも多く売らなければ。
 ただでさえこの「野球」という奴は、「ポ球」と比べて段違いにノンアルコールが売れないんだから。


 球場という場所では、コンスタントに行われている競技がふたつある。ひとつは「ポ球」、もうひとつが「野球」だ。
 詳しい違いなんて私にはわからない。興味がないのだ。まあ簡単に分けるとポ球にはポケモンがいて、野球にはポケモンがいない、ってことくらい。

 それから私に大いに関わることとして、ポ球は基本的に観客席でのアルコールの提供が禁止されている。全体の年齢層が低めなのと、観客席にポケモンを持ちこめるので、酔ってケンカでも始めたらえらいことなるからだそうだ。
 『携帯獣取り扱いに関する法律 第三章第一節第四十七条』。『酒気を帯びている状態で、ポケモンを用いたバトル・移動をしてはならない』。違反したら五年以下の懲役または百万円以下の罰金。飲酒バトルは法律で禁止されてるし、取り締まりも最近特に厳しい。
 会社としても厄介なことになりそうなものは最初から排除しておきたいだろう。酒を飲みたいなら一部の球場に設置されているスポーツバーとかレストラン的なところに行くしかない。結構高いらしいけど。
 競技を見ながら楽しくお酒を飲みたい人には残念だろうけども、私としてはそちらの方が随分と好都合だ。私がバイトとして契約している会社はソフトドリンクしか提供していない。つまり、ポ球の試合では他の企業や売り子さんたちとイーブンに戦えるポテンシャルがある。

 しかし、この野球という奴が問題だ。まず客が少ない。ポ球の半分くらいしかいない。その上年齢層が圧倒的に高い。未成年者がポ球の二、三割くらいしかいない気がする。
 そして何より、ポケモンがいない野球ではアルコール、特にビールの販売が大々的に許可されているのだ。観客席に行けば、それぞれの企業のビールサーバーを背負った売り子たちが客席を歩きまわっている。これがまた一杯七百円とかするのによく売れるのだ。
 まあ、気持ちはわからないでもない。暑い中屋外で飲むビールは最高だろう。しかも注ぎたてを、かわいい女の子たちから渡してもらえるとなれば払う価値があるのもまあわかる。わかるのだけれども、私としては大打撃だ。
 ソフトドリンクはとにかく売れない。本当に売れない。ビールの半分も売れない。ビールの会社は三社くらいあって、ソフトドリンクは私の働いているところくらいなのに、全然売れない。

 一応言っておくけど、私はポ球をやっている時はトップクラスの売り上げを誇っている。
 多い時には一時間に六、七十は行く。時給換算で三千円超えることだって珍しくない。今日もこの野球の前に同じ球場でポ球をやっていたんだけど、十時から三時まで働いて三百は軽く超えた。このバイトを始めてかれこれ数年、積み上げたノウハウはそれなりに役に立っている。
 しかし野球は駄目だ。売れない。売る地盤がない。同じ時間働いてもポ球の五分の一も売れない。
 そういう意味で、野球は好きじゃない。でも、ポ球が好きなのかといえば、別にそういうわけでもない。

 はっきり言って、興味がない。
 ポ球にしろ、野球にしろ、球場に詰めかける人たちというのは、一体何が楽しくて来ているのだろう。何年経っても、何度来ても、私にはわからない。


 業務を終えて、諸々の片付けをして、球場を出る。朝からあんなに暑かったのに、さすがに夜遅くになったら冷える。
 朝脱ぎ捨てて以来放置していた長袖の上着を羽織って、胸ポケットからイヤホンを引っ張り出し、耳にねじ込む。適当に曲を流す。数ヶ月前に流行した曲がやたらハイテンションで再生される。この曲もいい加減飽きたな。別に好きなわけでもないし。
 明日も早いし、さっさと帰って、寝よう。強制的に耳の中に叩きつけられるヒットソングを聞き流しながら、地下鉄の駅まで早足で歩いた。





 午前中に二コマだけ入っていた講義にとりあえず出席して、昼のチャイムを背にさっさと大学を出る。内容は不真面目になりすぎない程度に適当に聞いた。別に特別興味があるわけでもないし、単位が取れればそれでいい。
 大学から電車に乗って、直接バイト先である球場へ向かう。今日はポ球だけ。野球は他の地方に行ってるからなし。夜の仕事がないから楽だ。

 球場に着いて、いつも通り身なりを整える。制服を着て、インカムを右耳にねじ込み、タオルを首に巻く。サンバイザーには目印となる水色の花。立ち売り箱を提げ、背中にソーダのタンクを背負う。
 ものすごく重くて普通は動けないんだけど、タンクの上に乗ったダブランのおかげで大丈夫。サイコパワーで重さを軽減してくれる。
 バックヤードから出る前に、一度深呼吸をする。目をぎゅっと閉じて、両手で頬を軽く叩き、よし、と小さく声を出す。
 これで準備は完了。コンコースを通り抜け、スタンドに出る私の顔には、いつも通り明るい営業スマイルが貼り付いている。
 作った笑顔を浮かべたまま、客席に向かって手を上げ、私は明るい声で呼びかける。

「冷たいお飲み物、サイコソーダはいかがですかー?」

 客席に向かって声を上げると、すぐに何人かが手を上げて合図をしてくる。一番手前の席の人から素早く注文を取っていく。
 立ち売り箱に入ったお茶や無炭酸の飲み物もそこそこ売れるけど、サーバーから注がれる冷たいサイコソーダは大人気だ。一杯五百円という普通だったら見向きもしないような値段でも飛ぶように売れる。
 自分とポケモンの分、ふたつ頼む人がとても多い。ひとりあたり千円。
 指の間に細く折った千円札を挟んでいく。休む暇なんて全然ない。目標は一回の注文で一分以内だ。ただし接客は笑顔で丁寧に、世間話も織り交ぜて。
 今日も暑いですね。いつもありがとうございます。何度か見たことのあるお客さんには必ず覚えているアピールをする。そうやってリピーターを作る。固定客が出来れば売り上げが伸びる。
 この職場で働き始めて、三年。身体に染みついた動きを、淀みなく私は繰り返す。


 私が球場でドリンクの売り子のバイトを始めたのは、高校一年生の夏休みのことだった。
 部活とか面倒くさいし、成り行きで入ってしまった放送委員は休暇中活動することもない。かといってものすごくまじめに勉強ばっかりしたいわけでもない。ほどほどに勉強は出来たし、難関大学に入るために塾へ通うなんて気もさらさらない。
 だけどそうなると、とても暇だ。親は普通の会社員だから家で手伝う仕事があるわけでもなく、お小遣いは少し控え目だったけど不自由なほどでもない。かといって毎日遊び歩くほど潤沢なわけでもない。

 時間があるならバイトでもしようか、と思うのは自然の流れだった。何かないかな、とぼんやり探していた時、目についたのがポ球の試合での売り子だった。
 勤務地はヤマブキの中心部。夏休みの、昼間。ちょうど暇でしょうがない時に仕事が入れられる。応募条件は、ある程度ポケモンを扱えること。特に身軽なポケモンやエスパータイプなどを持っているのが望ましい、とあった。
 ちょうど、昔遠い地方に住むいとこからもらったタマゴから孵ったユニランが育ったダブランを持っていた。ポケモンの扱いにはそれなりに自信もあった。

 面接ではダブランの扱いについて感心されたし、とてもよく通る声をしてるね、と褒められた。
 ただちょっと、緊張してるのかな? 京橋キョウバシ 千鶴チヅルさん。と面接官のひとりが困ったように笑った。

「お客様に買っていただくためには、笑顔が大事だからね。ちょっと笑ってみてよ」

 そう言われて、私は、大きく深呼吸をしてから、輝くような笑顔を作って見せた。
 私が普段仏頂面なのは、笑えないからじゃなくて、わざわざ表情を変えるのが面倒くさいから。無駄なエネルギーを使いたくないからだ。
 だけど仕事とあらば笑顔ぐらい作ってみせる。たとえそれが「営業スマイル」と言われて馬鹿にされるものであったとしても。

 とにかく面接はあっさり通り、私はヤマブキドームでドリンクの売り子をするようになった。
 やがて場所の近いタマムシ神宮球場でも同じく働くようになった。応募条件がそれなりに厳しいせいか、希望者は結構いるみたいだけれど働いている子は案外少ない。人手不足のようだ。何より私がエスパータイプを使うので、立ち売り箱とサーバーを同時に扱えるのが大きかった。シーズン中は長期休暇以外の土日にも出るようになった。
 そんな感じで働いていたのだけれど、ある日、もし夜も時間があるなら、野球の売り子をやってくれないか、と打診された。何でも、あまりに人気がなさ過ぎて人が足りなすぎるそうだ。
 いいですよ、と気軽に即答したのだけれど、私はこの返事を未だに後悔している。
 ポ球と比べて実入りが悪すぎる。全然売れない。売り子の仕事は歩合制なのだ。売れなければ何も残らない。ダブランもいないから仕事の合間のささやかな癒やしもない。客席には酔っ払いが多すぎてしょっちゅからまれる。
 正直、もう何度もやめようと思ったけれど、そのたびに泣きつかれて仕方なく続けている。

 まあそんな野球に比べれば、ポ球は天国だ。働けば働くほどお金が入る。大学に入ってから年間通して働けるようになって、ますます好調だ。まあ、野球の方もなんだかんだでシーズン通してやることになってしまったけれども。
 今日もスタンド内を動き回る。ああ、忙しいって幸せだ。


 鋭い打球音が球場に響いた。客席から歓声と悲鳴が上がる。右耳のインカムから警報音がする。
 振り返ると、防護用の電磁ネットを確実に超えそうな、大きなホームランが飛んできていた。
 私は素早くボールに向けて右手を挙げ、声を上げる。

「サイコキネシス!」

 サーバーの上でぽよぽよと転がっていたダブランの目が白く光を放つ。白球は急激にスピードを落とし、進行方向を変え、私の手の中にぽとりと落ちた。周りからわあっと歓声が上がる。
 電磁ネットで防げないホームランやファールボールから観客を守るのも、私たち売り子の仕事だ。これがあるからポ球の売り子はある程度ポケモンを扱えなければならない。だからポ球のドリンク売りは、外野の更に外を守るもうひとりの野手と表現されることもある。
 私は一礼してボールを近くの席に座っていた子供に渡し、仕事に戻ろうとした。

「――……キョウバシ、さん?」

 ボールを渡した子供の隣の席から、ふいに声が投げられる。私は驚いてそちらに向き直る。
 緩く巻いた長髪に、落ち着いた色合いの服。もらったボールを嬉しそうにいじくり回している子供を大人しく席に座らせようとしているその女性は、私の知っている顔だった。

赤羽アカバネ……先輩」

 私が驚きながらそう言うと、先輩は昔と変わらない、へらっとした笑顔を向けた。
 五年ぶりに顔を見る、ほんの一時期私の先輩だったその人は、子供を連れた大人の女性になっていた。



 仕事を上がったあと、喫茶店でアカバネ先輩と落ち合った。
 カウンターでアイスカフェオレを購入し、席に着く。先輩の膝の上では、くたびれ果てたらしい子供が寝息を立てている。

 久しぶりね、と先輩が明るい声で言う。どうも、と私は普段のトーンで返す。
 残念なことに私の笑顔は制服と同じで、仕事の時しか着けない。とはいえ昔先輩と会っていた時はもちろん素の状態だったので、これでいい。今日球場で会った時がイレギュラーだったのだ。
 キョウバシさん、あんなに明るく笑ってるなんてびっくりしちゃった、別人かと思ったわよ、と先輩はからからと笑う。私は無言でアイスカフェオレをすする。大した営業スマイルね、と先輩が少し意地悪そうに言う。私は無視してアイスカフェオレをすする。先輩が笑いながらため息をついた。

「キョウバシさん、結局トレーナーにはならなかったんだ」
「ええまあ、最初からそんなに真面目にやる気もなかったんで」
「もったいないなあ、キョウバシさん結構強かったのにね。ちゃんとトレーナーやってたら今頃有名人になってたんじゃない? リーグとか出てたりして」

 ご冗談を、と言葉を流す。もちろん相手も本気じゃない。久々に会ったトレーナー時代の後輩を無意味によいしょしているだけだ。そんなことはわかりきっているので、真面目に相手はしない。
 氷ばかりになったグラスから目線を外し、先輩の腕の中でもぞもぞと動いている幼子を見る。

「先輩こそ、トレーナー辞めたんですね」
「ええ。もうずいぶん前にね」

 私、才能なかったから。先輩はそう言って苦笑いする。
 旅の途中で知り合った、同じくトレーナーをリタイアした人と結婚して、子供が出来て、今はそれなりに幸せに生活しているそうだ。


 中学に入って、長期休暇になって、他の大勢の人たちがそうしたように、私もポケモンを連れて旅に出た。それなりに効率はよかったから、バッジもそこそこの数は集められた。
 その時、旅の途中で知り合った先輩トレーナーが、アカバネさんだ。
 アカバネ先輩は私よりふたつ年上で、私より二年長く旅をしていて、私よりふたつ少ないバッジを持っていた。

 先輩は正直なところ、ポケモンバトルの才能があったとは言いがたく、タイプの相性すらきちんと覚えきれていない有様だった。
 それでも先輩はやたらと楽しそうに旅をしていた。

「私、ポケモンバトル好きなんだよねー。何で勝てないんだろうなあ」

 私もキョウバシさんみたいに才能が欲しかったなあ、とアカバネ先輩は度々、へらっと笑いながら言った。
 その都度私は、才能なんてないですよ、と先輩に返した。私がそれなりに勝てたのは才能があったからじゃなくて、そこそこ勝てる方法を覚えただけだ。先輩はバトルは好きだったみたいだけど、その辺の器用さは皆無だった。

 先輩と一緒にいたのは、中学一年の夏休みの後半と、冬休みと、春休み。翌年の夏にはもう、先輩と会うことはなかった。
 高校に入って旅を辞めたのか、それとも高校に行かずにトレーナーになって、どこか遠いところに行ったのか。その頃の私はその答えを知ることもなかったけれども、先輩は結局高校に行かずトレーナーになって、大成することなく辞めたらしい。
 まあこう言うのもあれだけど、珍しいことじゃない。トレーナーとして成功するなんて、努力と才能を兼ね備えたほんの一握りの人たちだけだ。


 先輩は、ところで、と先ほどまでより幾分落ち着いたような声で言った。

「キョウバシさんってさ、何で売り子の仕事やってるの? ポ球好きなの?」
「別に。これが収入の効率よかったからやってるだけです」

 私がそう言うと、先輩は何だかとっても不満そうな顔をした。ため息をついて、あのさあ、と怒ったような声を出す。

「売り子のバイトって結構人気あるんだよ? トレーナーの副収入とかでもさ。何よりポ球好きな人にとっては、いつも球場にいられるなんて最高の環境な訳じゃない?」
「そうですかね」
「そうだよ。それなのにさ、ポ球も特に好きじゃない、収入がいいからやってるだけ、とかさ、それってどうなの?」

 キョウバシさんは昔からそうだよ、と先輩は噛みつくように言う。

「バトル好きなの、って聞いたら、別に、っていうし、トレーナーになりたいの、って聞いたら、そんなことない、っていうし。それなのに好きな人よりずっといい成績残してさ。本当は馬鹿にしてるんでしょ? 才能ない奴が無駄な努力して、って嘲笑ってるんでしょ?」

 ひどく苛ついた顔で、アカバネ先輩は机を叩く。私はその拳をじっと見ていた。

「ねえ、好きな人にさ、失礼だと思わないの?」

 先輩の口から、ひどく棘のある言葉が次々と飛び出した。先輩の腕の中の子供が泣き出した。先輩ははっと気がついて、ごめんねごめんね、と腕の中の子供をあやした。
 ぐずる子供が落ち着くのをじっと待ってから、私はグラスに溜まった氷の溶けた水を飲んで、口を開いた。

「先輩。売り子が一番見てるのって、何だと思いますか?」
「え? だって、球場にいるんでしょ?」
「そうです。球場にいます。球場で見ているのは、球場に来てくださっているお客様の顔だけです。グラウンドなんて目もくれません。私は今日のホームランを誰が打ったのかとか、それを打たれたのがどんな人だったかとか、そんなの知りません。私たちはいつも、グラウンドに背中を向けているんです」

 ひと息ついて、私は淡々と続ける。

「でも、よく知っているものもあります。Hブロック後方の通路側にいつも座っている人は、天気が良い日は奇数のイニングでサイコソーダを二杯頼んでくれます。野球で緋色のチームが来た時にレフトスタンドの中段通路の目の前にいつもいる90番の人は、試合の四十五分前に決まってウーロン茶を頼みます。球場で一度買っていただけたお客様の顔は忘れません。覚える努力をしているからです。
 努力するのはもちろん、私の収入に直結するからです。でもそれだけじゃありません。私が適切なタイミングで飲み物を売りに行くことで、球場に来たお客様は快適に試合を楽しむことが出来ます。ポ球や野球が好きだからといって、それだけではこの仕事は勤まりません」

 最後にもう一度間を開けて、トーンを変えず、きっぱりと言う。

「私はこの仕事に対して、出来ることは出来る限りやっています。好きとか嫌いとか関係ありません。それだけのことです」

 私は出来るだけ淡々とした口調で、声も抑えめに喋った。先輩がちょっとエキサイトしていたから、喫茶店の他のお客さんから少しだけ迷惑そうな視線を向けられていた。居心地がよろしくない。
 先輩は少しだけ呆気にとられた顔をして、それから小さくため息をついて、昔と変わらないへらっとした笑顔を向けた。

「そっかー。いやー、ごめんね。ちょっとひどいこと言っちゃったね。でもよかった」
「何がですか?」
「キョウバシさん、ちゃんと今の仕事、好きなんだね」

 好き、なんですかね。私は首を傾げた。それだけ語れるってことは、きっと好きなんだよ、と先輩は言う。まあ、嫌いじゃないですけどね、と目線をテーブルに落としながら私は言う。
 今日はごめんね、怒っちゃって、と先輩はまたうつらうつらし始めた子供を抱き上げ、またいつかどこかで会えると良いね、と言って喫茶店を出て行った。
 へらへらしたところも、少し自分勝手なところも、あの人は初めて会った時から変わらない。
 多分、私も変わってないのだろう。お互い、学生でもトレーナーでもなくなっただけで。


 トレーナーとしての旅は、長期休暇の度に続けた。
 だけど、中二の冬休みで辞めた。勝てなくなったから。私みたいに何となくトレーナーをやっている人より、上を目指して一生懸命やっている人の方が当然のように強くなった。
 私はそれ以上に頑張る意味を見いだせなかったから、辞めた。そしてトレーナーとして進むことを決めた人たちが旅に出るのに目もくれず、高校へ進学した。
 私の手元に残ったのは、書きかけのレポートと、ダブランと、いくつかのバッジだけ。

 それを後悔しているというわけではない。旅でかけがえのないものを見つけたからなんていう陳腐な台詞をいいたいわけではない。特に得たものはないけど、損をしたとも思っていない。ただそれだけのこと。
 まあ、旅をしてバッジをいくつか手に入れたからポ球で売り子のバイトが出来て、今の収入につながってるんだから、結果的にはプラスの方が多かったかもしれない。
 でも、仮に旅に出ずに他のことをやっていたとして、そうしていたら私は今頃売り子のバイトをせずにまた別のことをやって、それもまたそれなりに満足はしてたと思う。
 中学時代の長期休暇の大半が消えたことが結局プラスだったのか、それはわからない。部活か何かに青春を捧げていたかもしれないし、勉強してすごくいい大学に入ってたかもしれない。可能性の話だ。今の私はトレーナーを中途ですぱっと諦めて、球場で売り子をしている。
 大成功はしていないし、大失敗もしていない。自分の選択の結果、行き着くところに行き着いた。それだけの話だ。

 グラスをカウンターに返し、駅へ向かう。
 ポケットからイヤホンを引っ張り出す。流れてくるのは相変わらず、好きでも何でもない流行歌。
 好きでも何でもないのに、流される内に歌詞とメロディは染みついてしまった。





 今日も変わらず、球場で仕事をする。
 相変わらず野球では売れない。だけど今日はいつもより出が良い。
 優勝が決まるかもしれない大一番だからだ。ホームもビジターも客席は盛り上がっている。声を上げればのどが渇く。だから飲み物が売れる。私にとってもとてもいい循環だ。

 いつも通りドリンクを売っていると、緋色の集団の後ろに差し掛かったところで、急に声をかけられた。

「すいません! 警備の人呼んでもらえませんか!」

 慌てた表情で私にそう言ってきたのは、球場でよく見る緋色の90番を着た人だった。指さす方を見ると、スタンドで何やら若い女性とおばさんが言い争いをしているようだった。どうやらおばさんの膝の上にポケモンがいるようで、それで揉めているらしかった。
 すぐ呼んできます、とバックヤードに走り、警備員さんを連れて急いで戻ってくる。
 ちょうどその時、おばさんが若い女性を突き飛ばした。女の子は座席に腰を打ち付け、痛そうにうずくまった。
 周りの人たちがすぐにおばさんを取り押さえ、警備員さんがそのまま連行していった。私は女の子の方に駆け寄った。近くに転がっている帽子を拾い、大丈夫ですか、と声をかけた。
 声をかけながら、あれ、この子、球場でよく見る人だな、と思った。
 女の子は私から帽子を受け取るなり、はっとした表情になって周りを見回した。女の子の顔から血の気が引いていくのがわかった。女の子はぱっと立ち上がり、ごめんなさい、と小声で言いながら荷物を持って、スタンドから逃げるように走り去ってしまった。

 見覚えのある人だ。この緋色のチームが来た時には必ずと言っていいほど見る。
 周りの人たちがざわざわとしている。「あれってエンコウトウカだよね?」という声が聞こえる。「トレーナーが何でこんなところにいるんだろう?」「野球好きなの?」「何で?」という声も聞こえる。
 野球でもポ球でも働いていると、スタンドのお客さんたちの言葉は自然と耳に入る。その中で、ポ球と野球に軋轢があることも何となく理解はしていた。

「野球なんてポケモン嫌いが見るスポーツだよ」
「最近何でもポケモンポケモン、ポ球を喜んで観る奴の気が知れないね」

 そんな言葉を聞いたのは一度や二度じゃない。そんな言葉を言っているのが、ごく一部の人であることも知ってはいるのだけれども。
 それでも少しでも有名なトレーナーであるのならば、そういう偏見を持たれることもあるのだろう。私みたいに、途中で投げ捨てた人じゃないのだから。


 次の日の試合では、客席であの女の人を見ることはなかった。
 控え室のモニターで、黒とオレンジのチームが優勝する場面を観ていた。オレンジ色の紙テープが客席からグラウンドへ投げ込まれる。ホームチームの優勝だ。詰めかけた大勢の観客が盛り上がるのも当然だろう。
 狭い座席に押し込められた緋色のファンたちが、悔しそうな表情をしながらその様子を写真に撮っていた。監督へのインタビューに、緋色の座席からも拍手が起こる。
 不思議な光景だな、と私はぼんやりとモニターを眺めながら思った。


 熱狂の夜を過ぎ、次の日も試合がある。試合があるということは、もちろん私の仕事もある。
 早めに着いた控え室でテレビを点けると、バトルの大会の決勝戦が中継されていた。おととい観たあの人が、バトルフィールドに立っていた。
 あーこの人、トウカさん。大変だよねえ、と同じくテレビをのぞき込んだ売り子仲間が言った。
 バトルの様子をぼんやりと眺める。この人は、本当にポケモンとポケモンバトルが好きなんだな、と思った。
 そうでなければ、ハイレベルな大会で相手を圧倒して勝ち残れたりはしないし、勝ったあとに自分の手持ちに対してあんなに嬉しそうな笑顔を向けたりは出来ない。

 危なげなく優勝した彼女は、インタビューの席で、とても堂々と、笑顔で、はっきりと言った。


『私はポケモンが好きです。ポケモンバトルが大好きです。そして、野球を見るのも、大好きです。私はこれからもトレーナーとして、バトルを続けます。そして、球場にも行きます。嘘はつかない。ごまかしたりもしない。ただ、堂々と言い続けます』

『好きなものに、好きだと言い続けます』


 臆することなく答える年下の女の子は、とてもかっこよく輝いて見えた。
 周りに流されない、強い意志。後ろ指を指される覚悟。

 ああ、この人は。この人は、これほどまでに、譲れないほど、好きなものがあるんだ。
 そう思うと、自分のことがとても残念に思えてきて、胸の奥がずきりと痛んだ。



 小さな頃から、ただただ流されて生きてきた。

 何となく、何の根拠もなく、ポケモントレーナーになると思っていた。
 適当に小学校を出て、中学校を出て、高校に入って、長期休暇はポケモンを連れて旅に出て、高校を出たらそのまま適当にあちこちを回って、何となくいい人を見つけて、結婚して、子供が出来て、適当にパートとかやりながら主婦でもして、そんな感じで年を取っていくんだと、特に深く考えることもなく思っていた。
 周りはみんな、そんな感じだったから。大人も子供も、テレビや本の中の登場人物も、みんなそういう人生だったから。だから自分も、何となくそうなんだろうと思っていた。

 ある日のことだった。進路希望の紙を配られた。先生は言った。

「自分の好きなもの、将来やりたいことをよく考えて、進路を選びなさい。あとで後悔しないように、しっかり考えなさい」

 本を読むのが好きな子は、小説家になりたいと言った。子供と遊ぶのが好きな子は、保育士になりたいと言った。とにかく安定した生活をしたいと希望する子は、公務員になりたいと言った。そのためにもっと勉強したい、だから大学まで行きたいのだと。
 着飾るのが好きな子は、コーディネーターになりたいと言った。ポケモンバトルが大好きな子は、トレーナーになりたいと言った。だから早く旅に出たい、たくさんのポケモンと触れ合いたいのだと。

「チヅルちゃんは、何が好きなの?」

 そう聞かれて、私は何も答えられなかった。みんなが語る「将来の夢」みたいなものを、私は全く持ったことがなかった。
 トレーナーになると思っていたけど、各地のジムを制覇したいとか、大会で優勝したいとか、そういうことは全然考えてなかった。じゃあミュージカルとかコンテストとか、そういうことがしたかったのかと言われるとそうでもない。
 そもそも自分はポケモンが好きなのかと考えると、そうでもない、と答えざるを得なかった。別に嫌いなわけじゃない。ピカチュウとかプリンとか、今仕事の相方であるダブランとか、かわいいと思う。だけどそんなポケモンを育てたいか、ずっと一緒にいたいか、と言われると別にそういうわけでもない。
 興味がない。そう、興味がなかった。
 トレーナーになりたいと思っていたわけじゃなくて、なるんだろうなと思っていた。流されて生きていれば、自然とそうなっているのだろうと。何も考えていなかった。

 高校に入って、ひょんなきっかけからポ球の試合での売り子のバイトを始めて、野球の方でもやるようになっていた。流されるまま何となく入った大学でも必要最低限の講義だけ取ってあとは球場にいる。
 売り子の仕事は嫌いじゃない。多分、先輩の言うとおり、それなりにこの仕事を気に入ってやっているのだと思う。だけど結局のところ、生涯続けるわけでもなし、私にとっては実入りのいいバイト以上の何物でもないのだ。

 私は、何かが好きだと思ったことがなかった。
 何かに夢中になることも、何かを必死で求めることも。


(でも、私が特別なわけじゃない)

 私は目をつぶって考える。誰も聞いていないのに言い訳をする。自分自身を言いくるめる。
 この世界の人がみんな、何かしらに熱中できるわけじゃない。好きなことがあっても、全員がそれを出来るわけじゃない。将来の夢なんて子供の戯言だ。予定していた通りの人生を歩ける人がどれだけいるのか。
 白紙の進路希望でも、何かに熱中しなくても、何かしら適当にやっていればそこそこ生きていける。世界は冷淡だけど冷酷じゃない。
 だけど。だから。だからこそ。

(球場に来る人たちは)

 シーズン中はほとんど毎日行く場所。ほとんど毎日会う人たち。とても、とても不思議だった。

(どうしてあんなに熱心なんだろう)

 オレンジ、緑、青、黒、紺、臙脂、黄、灰、白、それに赤。纏っている色は色々。だけどどこも、誰も、みんな変わらない。喉が嗄れるまで大声を上げて、いいことがあれば跳びあがって、大の大人がぼろぼろ泣いて。自分自身のことより、よっぽどよっぽど喜んで、怒って、悲しんでいる。
 グラウンドにいる人たちが勝っても、負けても、スタンドにいる人たちの人生が大きく変わることなんてきっとない。だって、関係のないことだから。人を一生懸命応援して、何か得になることなんてない。返ってくるものなんて何もない。
 それなのに。

(何でみんな、あんなに楽しそうなんだろう)

 酒を飲んで暴言に近いヤジを飛ばしている人も、贔屓のチームが目を覆いたくなるような惨敗を喫した時も、それでもなぜか、みんな楽しそうだ。

(何で、野球を選んだんだろう)

 昔はともかく、今は自然に流されていたらきっとファンにはならない。表に出ないから。流されていたらポ球のファンになるだろう。
 かと言って、ポ球が出来る前からのファンばかりかというとそういうわけでもない。私と同じくらいの人も、私より若い子もたくさんいる。全員ポケモンが嫌いなのかと思ったら、そういうわけでもないらしい。野球とポ球両方のスタンドで顔を見る人もそれなりの人数いる。昼間にポケモンと一緒に声を上げていた人が、夜にひとりでビールを煽っている姿を見るのもしょっちゅうだ。
 今回あの人は特に有名だから槍玉に挙げられたみたいだけど、スタンドでお客様の顔を見続けていた私は、批判の声がごく一部の人たちによるものだっていうことも知っている。

 それでも、上に立つ人だからこそ、そういう声もよく届くだろう。
 「好きだ」という一言が、この世界と自分にどれくらい影響を与えるのか、あの人はきっと知っている。
 だからこそ、すごいと思う。私とは全然違うと思う。私にはあんなことはできない。リスクなんて背負えない。


 先輩と話したみたいに、好きって気持ちだけが全てだとは思っていない。好きだからという気持ちだけでなんとかなるほど、この世界は優しくないとも思っている。
 だけど、だからこそ、胸を張って『好きだ』って言って、それを貫くために必死になれる人たちが輝いて見えて、うらやましくてしょうがない。

 私は譲れないほど好きなものはない。リスクを負ってまでやりたいことはない。
 だから無理だと思ったらすぐ辞める。努力を避けて、辛いことから逃げて、ただただ、どこに行き着くのかもわからない世間の流れに流され続けている。

 こうやってだらけ続けてきたツケは、いつか払わなければならないのかもしれない。
 流され続ける私はいつか、どうしようもない袋小路に押し込められて、取り返しのつかない失敗をしそうな気がする。
 そんな漠然とした恐怖感を感じることもあるけれど、じゃあどうやって流れに逆らえばいいのか、私はその手がかりすら知らない。

 私には、何もないんだろうか。
 何か夢中になれるものがないと、駄目なんだろうか。


 シーズンが終わって、球場でのバイトがない冬の間も、そんなことをぐるぐると考えていた。
 結局何の答えも得られず、私はただただいつものように、時間の流れに流されるばかりだった。

 年末の音楽番組を観て、流れていた曲を音楽プレーヤーに入れようとした。
 入らなかった。容量がいっぱいだった。
 曲目リストを見る。多分聞けばわかるけど、タイトルがわからない曲ばかり。
 そこにあったのは単なる何年か分の流行曲一覧であって、私にとってただただ聞き流すBGM以上の何物でもなかった。

 もう、いいか。私は無造作にプレーヤーに詰め込まれたデータを、全部消した。





 まだ風が冷たい二月の終わり。
 今日から暖かいホウエンの方以外でもオープン戦が始まる。私の仕事も今日からだ。
 毎年と同じように、準備を整える。まだちょっと寒いから、ポットにホットコーヒーも準備しておこう。

 立ち売り箱にドリンクを詰め込み、外野中央、バックネット裏からコンコースを出る。
 オオスバメ色とコイキング色の合流地点。去年の同じ時期よりほんの少しだけ増えたような気がする、スタンドの人の山。

 試合開始まで三十分。真昼の太陽が照っているのにまだ少し肌寒い空気を、弾き飛ばすような大歓声。
 拾いきれない大勢の声が、耳をつんざいて脳みそへ突き刺さってくる。でも、不思議と不快感はない。
 全身に押し寄せる、くすぐったいような熱気。浮き立つような高揚感。全身を包み込む、熱いけど優しい、心地よい感覚。


 ああ、わかった。私にも、やっとわかった。ここにいる人たちが、こんなに夢中になっている理由。
 自分の事のように喜んで、心の底から怒って、一緒になって哀しんで、側にいるだけで楽しくなる。
 そんな存在に対して、自分たちへの見返りも度外視して、ただただ一方的に贈られる、この暑苦しい気持ち。


 愛だ。これって、愛だ。


 ここに来ている人たちはみんな、伝えに来てるんだ。
 『あなたが好きだ』って、声を嗄らして叫んでるんだ。

 トランペットの音色と共に響いてくる、グラウンドへのラブコール。純度百パーセントの愛の塊。
 それぞれ少しずつ形は違って、時に歪んで、捻くれて、あらぬ方向へ向かうこともある。
 だけども、ここにいる人たちはみんな、選んだ。それぞれのきっかけなんて私が知る由もない。だけどみんな、無数の選択肢の中から、ここを選んだ。

 自分はこれが好きだ。自分はこれを愛してるんだ。胸張ってそう言えるものを、見つけられたんだ。


 身体が痺れるような、不思議な感覚。私じゃない誰かに向けられた声援に、背中を押されたような気がした。
 無理に頑張らなくてもいい。流れに身を任せていてもいい。ただ時々、間違えないように舵を切ることさえ出切れば。
 焦らなくていい。今できることをやればいい。いいじゃないか、何にも夢中になれなくたって。

 この世界は冷淡だけど、冷酷じゃないんだから。
 好きになれるものを見つけた時に、それを愛せば、それでいい。


 私は目をぎゅっと閉じて、頬を軽く叩いた。笑顔を作る。口角が、自然と上がったような気がした。
 大きく深呼吸をして、よし、と小さくつぶやき、右腕を高々と挙げて熱気の渦へ声を張り上げる。


「冷たいお飲み物はいかがですかー?」


 火傷しそうな熱い愛が溢れかえったスタンドの中で、今年も私の戦いが幕を開けた。





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