4−1:スタンドの熱




 この人たちは一体、何が楽しくて球場に来ているのだろう。何度来ても、私にはわからない。


 日の長い時期。だいぶ西に傾いているのに未だじりじりと照りつける日光。まだ梅雨前だというのに、今日はやけに暑い。
 紫外線対策はやるだけ無駄だと初年度に判断して以来、焼けすぎてひりひりしない程度の日焼け止め以外は使わないことにしている。無駄に抗って、まだら模様になるのはもう勘弁だ。むしろ軽い小麦色になったくらいの方が、健康的に見えて売れ行きが上がるような気がしないでもない。
 ドリンクが入ったカップを満載した赤い立ち売り箱を抱え、笑顔を作り、通路から客席に向かって、手を上げて声を張り上げる。

「冷たいお飲み物はいかがですかー?」

 声をかけたブロックを見まわし、こちらにサインを送っている人がいないのを確認して、次のブロックへ向かう。
 客席にいるのはほとんどが酒の飲めるボーダーをとうの昔に超えた人たち。蒸し暑い空気の中でここの人たちが欲するのは、私が売り歩くお茶や炭酸飲料ではなく、前を歩く子の背負ったタンクから注がれる、キンキンに冷えた黄金色のアルコールに決まっている。
 ここはある程度持ち込みができる球場だし、わざわざイベント価格で買う人もそういない。ペットボトル一本より少ない量の飲料水をペットボトルの倍の値段で買うくらいならば、その三倍の値段だろうとかわいい女の子たちから注ぎたてのビールを買う方が楽しい、というのがわざわざ蒸し暑い休日、外に出てくる大人の意見だろう。
 赤い服を着た選手が練習を続けるグラウンドを背に、客席だけに顔を向け、声を上げる。あっちで何をしていようと、私には関係ない。手は上がらない。私はまた次のブロックへ歩いて行く。
 それにしても、暑い。昨日の夜、少し夜更かししすぎたのが悪かったのだろうか。汗がだらだらと止まらない。笛の音が聞こえる。暑い。暑い。

「危ない!!」

 目の前のお客さんが突然、私の服の裾を引っ張ってきた。バランスを崩してお客さんの上に背中から倒れ込む。
 私のいた辺りに、グラウンドから白いボールが勢いよく飛んできた。石のように硬いボールが、コンクリートの床に当たり、大きく弾んだ。周りから息を吐くのが聞こえ、危なかった、怖かった、という安堵の声が聞こえてきた。
 背筋がぞわっと冷たくなり、私は慌てて起き上がって、裾を引っ張ってきたお客さんに頭を下げた。

「も、申し訳ございません!」
「いやいや、当たらなくってよかったよ。大丈夫だった?」

 今日暑いからねえ、と、緋色のユニフォームを羽織った若い男性は笑った。
 この仕事を始めて何年も経つのに、暑さとだるさにやられて完全に油断してた。この競技で使われているボールはものすごく硬くて、当たったら大変なことになる。ケガじゃ済まないことだってあるのだ。この人が引っ張ってくれなかったら、どうなっていたことか。
 姉ちゃん、ボールには注意しなきゃ、ボールから目を離しちゃいけねえよ、警笛が鳴ったら気をつけなきゃ、と周りから次々と声をかけられ、私はまた申し訳ございません、と頭を下げた。
 赤い90番のユニフォームを纏った男性はまた笑って、せっかくだからウーロン茶ください、と言ってきた。


 バックヤードに戻ると、売り子仲間が話しかけてきた。

「チヅルちゃん、さっきボール当たりそうになったんだって? 駄目だよ気をつけなきゃ」
「うん、ちょっとぼうっとしてた」
「チヅちゃん今日ダブルヘッダーだっけ? 午前から働いてるよね。それじゃあ疲れるよねえ。今日暑いもん」

 ちょっと休憩しなよ、と言われ、そうする、と返して立ち売り箱を下ろし、パイプ椅子に身を沈める。水色の花をつけたサンバイザーをとり、机の上に置いた。タオルで額の汗をぬぐい、目を閉じる。
 十分、いや五分休んだらまた行こう。
 このバイトは歩合制だ。固定給はこの場所までの交通費程度にしかならない。二百五十円のドリンク。一杯あたりの給料は四十円。頑張って売って、一時間に二十。いや、二十出れば上出来すぎるくらいだ。十行けばまずまずだろう。自給四百、五時間休まず働いて二千円。売れなければお金が入らない。一杯でも多く売らなければ。
 ただでさえこの「野球」という奴は、「ポ球」と比べて段違いにノンアルコールが売れないんだから。


 球場という場所では、コンスタントに行われている競技がふたつある。ひとつは「ポ球」、もうひとつが「野球」だ。
 詳しい違いなんて私にはわからない。興味がないのだ。まあ簡単に分けるとポ球にはポケモンがいて、野球にはポケモンがいない、ってことくらい。

 それから私に大いに関わることとして、ポ球は基本的に観客席でのアルコールの提供が禁止されている。全体の年齢層が低めなのと、観客席にポケモンを持ちこめるので、酔ってケンカでも始めたらえらいことなるからだそうだ。
 『携帯獣取り扱いに関する法律 第三章第一節第四十七条』。『酒気を帯びている状態で、ポケモンを用いたバトル・移動をしてはならない』。違反したら五年以下の懲役または百万円以下の罰金。飲酒バトルは法律で禁止されてるし、取り締まりも最近特に厳しい。
 会社としても厄介なことになりそうなものは最初から排除しておきたいだろう。酒を飲みたいなら一部の球場に設置されているスポーツバーとかレストラン的なところに行くしかない。結構高いらしいけど。
 競技を見ながら楽しくお酒を飲みたい人には残念だろうけども、私としてはそちらの方が随分と好都合だ。私がバイトとして契約している会社はソフトドリンクしか提供していない。つまり、ポ球の試合では他の企業や売り子さんたちとイーブンに戦えるポテンシャルがある。

 しかし、この野球という奴が問題だ。まず客が少ない。ポ球の半分くらいしかいない。その上年齢層が圧倒的に高い。未成年者がポ球の二、三割くらいしかいない気がする。
 そして何より、ポケモンがいない野球ではアルコール、特にビールの販売が大々的に許可されているのだ。観客席に行けば、それぞれの企業のビールサーバーを背負った売り子たちが客席を歩きまわっている。これがまた一杯七百円とかするのによく売れるのだ。
 まあ、気持ちはわからないでもない。暑い中屋外で飲むビールは最高だろう。しかも注ぎたてを、かわいい女の子たちから渡してもらえるとなれば払う価値があるのもまあわかる。わかるのだけれども、私としては大打撃だ。
 ソフトドリンクはとにかく売れない。本当に売れない。ビールの半分も売れない。ビールの会社は三社くらいあって、ソフトドリンクは私の働いているところくらいなのに、全然売れない。

 一応言っておくけど、私はポ球をやっている時はトップクラスの売り上げを誇っている。
 多い時には一時間に六、七十は行く。時給換算で三千円超えることだって珍しくない。今日もこの野球の前に同じ球場でポ球をやっていたんだけど、十時から三時まで働いて三百は軽く超えた。このバイトを始めてかれこれ数年、積み上げたノウハウはそれなりに役に立っている。
 しかし野球は駄目だ。売れない。売る地盤がない。同じ時間働いてもポ球の五分の一も売れない。
 そういう意味で、野球は好きじゃない。でも、ポ球が好きなのかといえば、別にそういうわけでもない。

 はっきり言って、興味がない。
 ポ球にしろ、野球にしろ、球場に詰めかける人たちというのは、一体何が楽しくて来ているのだろう。何年経っても、何度来ても、私にはわからない。


 業務を終えて、諸々の片付けをして、球場を出る。朝からあんなに暑かったのに、さすがに夜遅くになったら冷える。
 朝脱ぎ捨てて以来放置していた長袖の上着を羽織って、胸ポケットからイヤホンを引っ張り出し、耳にねじ込む。適当に曲を流す。数ヶ月前に流行した曲がやたらハイテンションで再生される。この曲もいい加減飽きたな。別に好きなわけでもないし。
 明日も早いし、さっさと帰って、寝よう。強制的に耳の中に叩きつけられるヒットソングを聞き流しながら、地下鉄の駅まで早足で歩いた。





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