4−2:サイコソーダと流行歌




 午前中に二コマだけ入っていた講義にとりあえず出席して、昼のチャイムを背にさっさと大学を出る。内容は不真面目になりすぎない程度に適当に聞いた。別に特別興味があるわけでもないし、単位が取れればそれでいい。
 大学から電車に乗って、直接バイト先である球場へ向かう。今日はポ球だけ。野球は他の地方に行ってるからなし。夜の仕事がないから楽だ。

 球場に着いて、いつも通り身なりを整える。制服を着て、インカムを右耳にねじ込み、タオルを首に巻く。サンバイザーには目印となる水色の花。立ち売り箱を提げ、背中にソーダのタンクを背負う。
 ものすごく重くて普通は動けないんだけど、タンクの上に乗ったダブランのおかげで大丈夫。サイコパワーで重さを軽減してくれる。
 バックヤードから出る前に、一度深呼吸をする。目をぎゅっと閉じて、両手で頬を軽く叩き、よし、と小さく声を出す。
 これで準備は完了。コンコースを通り抜け、スタンドに出る私の顔には、いつも通り明るい営業スマイルが貼り付いている。
 作った笑顔を浮かべたまま、客席に向かって手を上げ、私は明るい声で呼びかける。

「冷たいお飲み物、サイコソーダはいかがですかー?」

 客席に向かって声を上げると、すぐに何人かが手を上げて合図をしてくる。一番手前の席の人から素早く注文を取っていく。
 立ち売り箱に入ったお茶や無炭酸の飲み物もそこそこ売れるけど、サーバーから注がれる冷たいサイコソーダは大人気だ。一杯五百円という普通だったら見向きもしないような値段でも飛ぶように売れる。
 自分とポケモンの分、ふたつ頼む人がとても多い。ひとりあたり千円。
 指の間に細く折った千円札を挟んでいく。休む暇なんて全然ない。目標は一回の注文で一分以内だ。ただし接客は笑顔で丁寧に、世間話も織り交ぜて。
 今日も暑いですね。いつもありがとうございます。何度か見たことのあるお客さんには必ず覚えているアピールをする。そうやってリピーターを作る。固定客が出来れば売り上げが伸びる。
 この職場で働き始めて、三年。身体に染みついた動きを、淀みなく私は繰り返す。


 私が球場でドリンクの売り子のバイトを始めたのは、高校一年生の夏休みのことだった。
 部活とか面倒くさいし、成り行きで入ってしまった放送委員は休暇中活動することもない。かといってものすごくまじめに勉強ばっかりしたいわけでもない。ほどほどに勉強は出来たし、難関大学に入るために塾へ通うなんて気もさらさらない。
 だけどそうなると、とても暇だ。親は普通の会社員だから家で手伝う仕事があるわけでもなく、お小遣いは少し控え目だったけど不自由なほどでもない。かといって毎日遊び歩くほど潤沢なわけでもない。

 時間があるならバイトでもしようか、と思うのは自然の流れだった。何かないかな、とぼんやり探していた時、目についたのがポ球の試合での売り子だった。
 勤務地はヤマブキの中心部。夏休みの、昼間。ちょうど暇でしょうがない時に仕事が入れられる。応募条件は、ある程度ポケモンを扱えること。特に身軽なポケモンやエスパータイプなどを持っているのが望ましい、とあった。
 ちょうど、昔遠い地方に住むいとこからもらったタマゴから孵ったユニランが育ったダブランを持っていた。ポケモンの扱いにはそれなりに自信もあった。

 面接ではダブランの扱いについて感心されたし、とてもよく通る声をしてるね、と褒められた。
 ただちょっと、緊張してるのかな? 京橋キョウバシ 千鶴チヅルさん。と面接官のひとりが困ったように笑った。

「お客様に買っていただくためには、笑顔が大事だからね。ちょっと笑ってみてよ」

 そう言われて、私は、大きく深呼吸をしてから、輝くような笑顔を作って見せた。
 私が普段仏頂面なのは、笑えないからじゃなくて、わざわざ表情を変えるのが面倒くさいから。無駄なエネルギーを使いたくないからだ。
 だけど仕事とあらば笑顔ぐらい作ってみせる。たとえそれが「営業スマイル」と言われて馬鹿にされるものであったとしても。

 とにかく面接はあっさり通り、私はヤマブキドームでドリンクの売り子をするようになった。
 やがて場所の近いタマムシ神宮球場でも同じく働くようになった。応募条件がそれなりに厳しいせいか、希望者は結構いるみたいだけれど働いている子は案外少ない。人手不足のようだ。何より私がエスパータイプを使うので、立ち売り箱とサーバーを同時に扱えるのが大きかった。シーズン中は長期休暇以外の土日にも出るようになった。
 そんな感じで働いていたのだけれど、ある日、もし夜も時間があるなら、野球の売り子をやってくれないか、と打診された。何でも、あまりに人気がなさ過ぎて人が足りなすぎるそうだ。
 いいですよ、と気軽に即答したのだけれど、私はこの返事を未だに後悔している。
 ポ球と比べて実入りが悪すぎる。全然売れない。売り子の仕事は歩合制なのだ。売れなければ何も残らない。ダブランもいないから仕事の合間のささやかな癒やしもない。客席には酔っ払いが多すぎてしょっちゅからまれる。
 正直、もう何度もやめようと思ったけれど、そのたびに泣きつかれて仕方なく続けている。

 まあそんな野球に比べれば、ポ球は天国だ。働けば働くほどお金が入る。大学に入ってから年間通して働けるようになって、ますます好調だ。まあ、野球の方もなんだかんだでシーズン通してやることになってしまったけれども。
 今日もスタンド内を動き回る。ああ、忙しいって幸せだ。


 鋭い打球音が球場に響いた。客席から歓声と悲鳴が上がる。右耳のインカムから警報音がする。
 振り返ると、防護用の電磁ネットを確実に超えそうな、大きなホームランが飛んできていた。
 私は素早くボールに向けて右手を挙げ、声を上げる。

「サイコキネシス!」

 サーバーの上でぽよぽよと転がっていたダブランの目が白く光を放つ。白球は急激にスピードを落とし、進行方向を変え、私の手の中にぽとりと落ちた。周りからわあっと歓声が上がる。
 電磁ネットで防げないホームランやファールボールから観客を守るのも、私たち売り子の仕事だ。これがあるからポ球の売り子はある程度ポケモンを扱えなければならない。だからポ球のドリンク売りは、外野の更に外を守るもうひとりの野手と表現されることもある。
 私は一礼してボールを近くの席に座っていた子供に渡し、仕事に戻ろうとした。

「――……キョウバシ、さん?」

 ボールを渡した子供の隣の席から、ふいに声が投げられる。私は驚いてそちらに向き直る。
 緩く巻いた長髪に、落ち着いた色合いの服。もらったボールを嬉しそうにいじくり回している子供を大人しく席に座らせようとしているその女性は、私の知っている顔だった。

赤羽アカバネ……先輩」

 私が驚きながらそう言うと、先輩は昔と変わらない、へらっとした笑顔を向けた。
 五年ぶりに顔を見る、ほんの一時期私の先輩だったその人は、子供を連れた大人の女性になっていた。



 仕事を上がったあと、喫茶店でアカバネ先輩と落ち合った。
 カウンターでアイスカフェオレを購入し、席に着く。先輩の膝の上では、くたびれ果てたらしい子供が寝息を立てている。

 久しぶりね、と先輩が明るい声で言う。どうも、と私は普段のトーンで返す。
 残念なことに私の笑顔は制服と同じで、仕事の時しか着けない。とはいえ昔先輩と会っていた時はもちろん素の状態だったので、これでいい。今日球場で会った時がイレギュラーだったのだ。
 キョウバシさん、あんなに明るく笑ってるなんてびっくりしちゃった、別人かと思ったわよ、と先輩はからからと笑う。私は無言でアイスカフェオレをすする。大した営業スマイルね、と先輩が少し意地悪そうに言う。私は無視してアイスカフェオレをすする。先輩が笑いながらため息をついた。

「キョウバシさん、結局トレーナーにはならなかったんだ」
「ええまあ、最初からそんなに真面目にやる気もなかったんで」
「もったいないなあ、キョウバシさん結構強かったのにね。ちゃんとトレーナーやってたら今頃有名人になってたんじゃない? リーグとか出てたりして」

 ご冗談を、と言葉を流す。もちろん相手も本気じゃない。久々に会ったトレーナー時代の後輩を無意味によいしょしているだけだ。そんなことはわかりきっているので、真面目に相手はしない。
 氷ばかりになったグラスから目線を外し、先輩の腕の中でもぞもぞと動いている幼子を見る。

「先輩こそ、トレーナー辞めたんですね」
「ええ。もうずいぶん前にね」

 私、才能なかったから。先輩はそう言って苦笑いする。
 旅の途中で知り合った、同じくトレーナーをリタイアした人と結婚して、子供が出来て、今はそれなりに幸せに生活しているそうだ。


 中学に入って、長期休暇になって、他の大勢の人たちがそうしたように、私もポケモンを連れて旅に出た。それなりに効率はよかったから、バッジもそこそこの数は集められた。
 その時、旅の途中で知り合った先輩トレーナーが、アカバネさんだ。
 アカバネ先輩は私よりふたつ年上で、私より二年長く旅をしていて、私よりふたつ少ないバッジを持っていた。

 先輩は正直なところ、ポケモンバトルの才能があったとは言いがたく、タイプの相性すらきちんと覚えきれていない有様だった。
 それでも先輩はやたらと楽しそうに旅をしていた。

「私、ポケモンバトル好きなんだよねー。何で勝てないんだろうなあ」

 私もキョウバシさんみたいに才能が欲しかったなあ、とアカバネ先輩は度々、へらっと笑いながら言った。
 その都度私は、才能なんてないですよ、と先輩に返した。私がそれなりに勝てたのは才能があったからじゃなくて、そこそこ勝てる方法を覚えただけだ。先輩はバトルは好きだったみたいだけど、その辺の器用さは皆無だった。

 先輩と一緒にいたのは、中学一年の夏休みの後半と、冬休みと、春休み。翌年の夏にはもう、先輩と会うことはなかった。
 高校に入って旅を辞めたのか、それとも高校に行かずにトレーナーになって、どこか遠いところに行ったのか。その頃の私はその答えを知ることもなかったけれども、先輩は結局高校に行かずトレーナーになって、大成することなく辞めたらしい。
 まあこう言うのもあれだけど、珍しいことじゃない。トレーナーとして成功するなんて、努力と才能を兼ね備えたほんの一握りの人たちだけだ。


 先輩は、ところで、と先ほどまでより幾分落ち着いたような声で言った。

「キョウバシさんってさ、何で売り子の仕事やってるの? ポ球好きなの?」
「別に。これが収入の効率よかったからやってるだけです」

 私がそう言うと、先輩は何だかとっても不満そうな顔をした。ため息をついて、あのさあ、と怒ったような声を出す。

「売り子のバイトって結構人気あるんだよ? トレーナーの副収入とかでもさ。何よりポ球好きな人にとっては、いつも球場にいられるなんて最高の環境な訳じゃない?」
「そうですかね」
「そうだよ。それなのにさ、ポ球も特に好きじゃない、収入がいいからやってるだけ、とかさ、それってどうなの?」

 キョウバシさんは昔からそうだよ、と先輩は噛みつくように言う。

「バトル好きなの、って聞いたら、別に、っていうし、トレーナーになりたいの、って聞いたら、そんなことない、っていうし。それなのに好きな人よりずっといい成績残してさ。本当は馬鹿にしてるんでしょ? 才能ない奴が無駄な努力して、って嘲笑ってるんでしょ?」

 ひどく苛ついた顔で、アカバネ先輩は机を叩く。私はその拳をじっと見ていた。

「ねえ、好きな人にさ、失礼だと思わないの?」

 先輩の口から、ひどく棘のある言葉が次々と飛び出した。先輩の腕の中の子供が泣き出した。先輩ははっと気がついて、ごめんねごめんね、と腕の中の子供をあやした。
 ぐずる子供が落ち着くのをじっと待ってから、私はグラスに溜まった氷の溶けた水を飲んで、口を開いた。

「先輩。売り子が一番見てるのって、何だと思いますか?」
「え? だって、球場にいるんでしょ?」
「そうです。球場にいます。球場で見ているのは、球場に来てくださっているお客様の顔だけです。グラウンドなんて目もくれません。私は今日のホームランを誰が打ったのかとか、それを打たれたのがどんな人だったかとか、そんなの知りません。私たちはいつも、グラウンドに背中を向けているんです」

 ひと息ついて、私は淡々と続ける。

「でも、よく知っているものもあります。Hブロック後方の通路側にいつも座っている人は、天気が良い日は奇数のイニングでサイコソーダを二杯頼んでくれます。野球で緋色のチームが来た時にレフトスタンドの中段通路の目の前にいつもいる90番の人は、試合の四十五分前に決まってウーロン茶を頼みます。球場で一度買っていただけたお客様の顔は忘れません。覚える努力をしているからです。
 努力するのはもちろん、私の収入に直結するからです。でもそれだけじゃありません。私が適切なタイミングで飲み物を売りに行くことで、球場に来たお客様は快適に試合を楽しむことが出来ます。ポ球や野球が好きだからといって、それだけではこの仕事は勤まりません」

 最後にもう一度間を開けて、トーンを変えず、きっぱりと言う。

「私はこの仕事に対して、出来ることは出来る限りやっています。好きとか嫌いとか関係ありません。それだけのことです」

 私は出来るだけ淡々とした口調で、声も抑えめに喋った。先輩がちょっとエキサイトしていたから、喫茶店の他のお客さんから少しだけ迷惑そうな視線を向けられていた。居心地がよろしくない。
 先輩は少しだけ呆気にとられた顔をして、それから小さくため息をついて、昔と変わらないへらっとした笑顔を向けた。

「そっかー。いやー、ごめんね。ちょっとひどいこと言っちゃったね。でもよかった」
「何がですか?」
「キョウバシさん、ちゃんと今の仕事、好きなんだね」

 好き、なんですかね。私は首を傾げた。それだけ語れるってことは、きっと好きなんだよ、と先輩は言う。まあ、嫌いじゃないですけどね、と目線をテーブルに落としながら私は言う。
 今日はごめんね、怒っちゃって、と先輩はまたうつらうつらし始めた子供を抱き上げ、またいつかどこかで会えると良いね、と言って喫茶店を出て行った。
 へらへらしたところも、少し自分勝手なところも、あの人は初めて会った時から変わらない。
 多分、私も変わってないのだろう。お互い、学生でもトレーナーでもなくなっただけで。


 トレーナーとしての旅は、長期休暇の度に続けた。
 だけど、中二の冬休みで辞めた。勝てなくなったから。私みたいに何となくトレーナーをやっている人より、上を目指して一生懸命やっている人の方が当然のように強くなった。
 私はそれ以上に頑張る意味を見いだせなかったから、辞めた。そしてトレーナーとして進むことを決めた人たちが旅に出るのに目もくれず、高校へ進学した。
 私の手元に残ったのは、書きかけのレポートと、ダブランと、いくつかのバッジだけ。

 それを後悔しているというわけではない。旅でかけがえのないものを見つけたからなんていう陳腐な台詞をいいたいわけではない。特に得たものはないけど、損をしたとも思っていない。ただそれだけのこと。
 まあ、旅をしてバッジをいくつか手に入れたからポ球で売り子のバイトが出来て、今の収入につながってるんだから、結果的にはプラスの方が多かったかもしれない。
 でも、仮に旅に出ずに他のことをやっていたとして、そうしていたら私は今頃売り子のバイトをせずにまた別のことをやって、それもまたそれなりに満足はしてたと思う。
 中学時代の長期休暇の大半が消えたことが結局プラスだったのか、それはわからない。部活か何かに青春を捧げていたかもしれないし、勉強してすごくいい大学に入ってたかもしれない。可能性の話だ。今の私はトレーナーを中途ですぱっと諦めて、球場で売り子をしている。
 大成功はしていないし、大失敗もしていない。自分の選択の結果、行き着くところに行き着いた。それだけの話だ。

 グラスをカウンターに返し、駅へ向かう。
 ポケットからイヤホンを引っ張り出す。流れてくるのは相変わらず、好きでも何でもない流行歌。
 好きでも何でもないのに、流される内に歌詞とメロディは染みついてしまった。





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