4−3:好き、嫌い、どうでもいい




 今日も変わらず、球場で仕事をする。
 相変わらず野球では売れない。だけど今日はいつもより出が良い。
 優勝が決まるかもしれない大一番だからだ。ホームもビジターも客席は盛り上がっている。声を上げればのどが渇く。だから飲み物が売れる。私にとってもとてもいい循環だ。

 いつも通りドリンクを売っていると、緋色の集団の後ろに差し掛かったところで、急に声をかけられた。

「すいません! 警備の人呼んでもらえませんか!」

 慌てた表情で私にそう言ってきたのは、球場でよく見る緋色の90番を着た人だった。指さす方を見ると、スタンドで何やら若い女性とおばさんが言い争いをしているようだった。どうやらおばさんの膝の上にポケモンがいるようで、それで揉めているらしかった。
 すぐ呼んできます、とバックヤードに走り、警備員さんを連れて急いで戻ってくる。
 ちょうどその時、おばさんが若い女性を突き飛ばした。女の子は座席に腰を打ち付け、痛そうにうずくまった。
 周りの人たちがすぐにおばさんを取り押さえ、警備員さんがそのまま連行していった。私は女の子の方に駆け寄った。近くに転がっている帽子を拾い、大丈夫ですか、と声をかけた。
 声をかけながら、あれ、この子、球場でよく見る人だな、と思った。
 女の子は私から帽子を受け取るなり、はっとした表情になって周りを見回した。女の子の顔から血の気が引いていくのがわかった。女の子はぱっと立ち上がり、ごめんなさい、と小声で言いながら荷物を持って、スタンドから逃げるように走り去ってしまった。

 見覚えのある人だ。この緋色のチームが来た時には必ずと言っていいほど見る。
 周りの人たちがざわざわとしている。「あれってエンコウトウカだよね?」という声が聞こえる。「トレーナーが何でこんなところにいるんだろう?」「野球好きなの?」「何で?」という声も聞こえる。
 野球でもポ球でも働いていると、スタンドのお客さんたちの言葉は自然と耳に入る。その中で、ポ球と野球に軋轢があることも何となく理解はしていた。

「野球なんてポケモン嫌いが見るスポーツだよ」
「最近何でもポケモンポケモン、ポ球を喜んで観る奴の気が知れないね」

 そんな言葉を聞いたのは一度や二度じゃない。そんな言葉を言っているのが、ごく一部の人であることも知ってはいるのだけれども。
 それでも少しでも有名なトレーナーであるのならば、そういう偏見を持たれることもあるのだろう。私みたいに、途中で投げ捨てた人じゃないのだから。


 次の日の試合では、客席であの女の人を見ることはなかった。
 控え室のモニターで、黒とオレンジのチームが優勝する場面を観ていた。オレンジ色の紙テープが客席からグラウンドへ投げ込まれる。ホームチームの優勝だ。詰めかけた大勢の観客が盛り上がるのも当然だろう。
 狭い座席に押し込められた緋色のファンたちが、悔しそうな表情をしながらその様子を写真に撮っていた。監督へのインタビューに、緋色の座席からも拍手が起こる。
 不思議な光景だな、と私はぼんやりとモニターを眺めながら思った。


 熱狂の夜を過ぎ、次の日も試合がある。試合があるということは、もちろん私の仕事もある。
 早めに着いた控え室でテレビを点けると、バトルの大会の決勝戦が中継されていた。おととい観たあの人が、バトルフィールドに立っていた。
 あーこの人、トウカさん。大変だよねえ、と同じくテレビをのぞき込んだ売り子仲間が言った。
 バトルの様子をぼんやりと眺める。この人は、本当にポケモンとポケモンバトルが好きなんだな、と思った。
 そうでなければ、ハイレベルな大会で相手を圧倒して勝ち残れたりはしないし、勝ったあとに自分の手持ちに対してあんなに嬉しそうな笑顔を向けたりは出来ない。

 危なげなく優勝した彼女は、インタビューの席で、とても堂々と、笑顔で、はっきりと言った。


『私はポケモンが好きです。ポケモンバトルが大好きです。そして、野球を見るのも、大好きです。私はこれからもトレーナーとして、バトルを続けます。そして、球場にも行きます。嘘はつかない。ごまかしたりもしない。ただ、堂々と言い続けます』

『好きなものに、好きだと言い続けます』


 臆することなく答える年下の女の子は、とてもかっこよく輝いて見えた。
 周りに流されない、強い意志。後ろ指を指される覚悟。

 ああ、この人は。この人は、これほどまでに、譲れないほど、好きなものがあるんだ。
 そう思うと、自分のことがとても残念に思えてきて、胸の奥がずきりと痛んだ。



 小さな頃から、ただただ流されて生きてきた。

 何となく、何の根拠もなく、ポケモントレーナーになると思っていた。
 適当に小学校を出て、中学校を出て、高校に入って、長期休暇はポケモンを連れて旅に出て、高校を出たらそのまま適当にあちこちを回って、何となくいい人を見つけて、結婚して、子供が出来て、適当にパートとかやりながら主婦でもして、そんな感じで年を取っていくんだと、特に深く考えることもなく思っていた。
 周りはみんな、そんな感じだったから。大人も子供も、テレビや本の中の登場人物も、みんなそういう人生だったから。だから自分も、何となくそうなんだろうと思っていた。

 ある日のことだった。進路希望の紙を配られた。先生は言った。

「自分の好きなもの、将来やりたいことをよく考えて、進路を選びなさい。あとで後悔しないように、しっかり考えなさい」

 本を読むのが好きな子は、小説家になりたいと言った。子供と遊ぶのが好きな子は、保育士になりたいと言った。とにかく安定した生活をしたいと希望する子は、公務員になりたいと言った。そのためにもっと勉強したい、だから大学まで行きたいのだと。
 着飾るのが好きな子は、コーディネーターになりたいと言った。ポケモンバトルが大好きな子は、トレーナーになりたいと言った。だから早く旅に出たい、たくさんのポケモンと触れ合いたいのだと。

「チヅルちゃんは、何が好きなの?」

 そう聞かれて、私は何も答えられなかった。みんなが語る「将来の夢」みたいなものを、私は全く持ったことがなかった。
 トレーナーになると思っていたけど、各地のジムを制覇したいとか、大会で優勝したいとか、そういうことは全然考えてなかった。じゃあミュージカルとかコンテストとか、そういうことがしたかったのかと言われるとそうでもない。
 そもそも自分はポケモンが好きなのかと考えると、そうでもない、と答えざるを得なかった。別に嫌いなわけじゃない。ピカチュウとかプリンとか、今仕事の相方であるダブランとか、かわいいと思う。だけどそんなポケモンを育てたいか、ずっと一緒にいたいか、と言われると別にそういうわけでもない。
 興味がない。そう、興味がなかった。
 トレーナーになりたいと思っていたわけじゃなくて、なるんだろうなと思っていた。流されて生きていれば、自然とそうなっているのだろうと。何も考えていなかった。

 高校に入って、ひょんなきっかけからポ球の試合での売り子のバイトを始めて、野球の方でもやるようになっていた。流されるまま何となく入った大学でも必要最低限の講義だけ取ってあとは球場にいる。
 売り子の仕事は嫌いじゃない。多分、先輩の言うとおり、それなりにこの仕事を気に入ってやっているのだと思う。だけど結局のところ、生涯続けるわけでもなし、私にとっては実入りのいいバイト以上の何物でもないのだ。

 私は、何かが好きだと思ったことがなかった。
 何かに夢中になることも、何かを必死で求めることも。


(でも、私が特別なわけじゃない)

 私は目をつぶって考える。誰も聞いていないのに言い訳をする。自分自身を言いくるめる。
 この世界の人がみんな、何かしらに熱中できるわけじゃない。好きなことがあっても、全員がそれを出来るわけじゃない。将来の夢なんて子供の戯言だ。予定していた通りの人生を歩ける人がどれだけいるのか。
 白紙の進路希望でも、何かに熱中しなくても、何かしら適当にやっていればそこそこ生きていける。世界は冷淡だけど冷酷じゃない。
 だけど。だから。だからこそ。

(球場に来る人たちは)

 シーズン中はほとんど毎日行く場所。ほとんど毎日会う人たち。とても、とても不思議だった。

(どうしてあんなに熱心なんだろう)

 オレンジ、緑、青、黒、紺、臙脂、黄、灰、白、それに赤。纏っている色は色々。だけどどこも、誰も、みんな変わらない。喉が嗄れるまで大声を上げて、いいことがあれば跳びあがって、大の大人がぼろぼろ泣いて。自分自身のことより、よっぽどよっぽど喜んで、怒って、悲しんでいる。
 グラウンドにいる人たちが勝っても、負けても、スタンドにいる人たちの人生が大きく変わることなんてきっとない。だって、関係のないことだから。人を一生懸命応援して、何か得になることなんてない。返ってくるものなんて何もない。
 それなのに。

(何でみんな、あんなに楽しそうなんだろう)

 酒を飲んで暴言に近いヤジを飛ばしている人も、贔屓のチームが目を覆いたくなるような惨敗を喫した時も、それでもなぜか、みんな楽しそうだ。

(何で、野球を選んだんだろう)

 昔はともかく、今は自然に流されていたらきっとファンにはならない。表に出ないから。流されていたらポ球のファンになるだろう。
 かと言って、ポ球が出来る前からのファンばかりかというとそういうわけでもない。私と同じくらいの人も、私より若い子もたくさんいる。全員ポケモンが嫌いなのかと思ったら、そういうわけでもないらしい。野球とポ球両方のスタンドで顔を見る人もそれなりの人数いる。昼間にポケモンと一緒に声を上げていた人が、夜にひとりでビールを煽っている姿を見るのもしょっちゅうだ。
 今回あの人は特に有名だから槍玉に挙げられたみたいだけど、スタンドでお客様の顔を見続けていた私は、批判の声がごく一部の人たちによるものだっていうことも知っている。

 それでも、上に立つ人だからこそ、そういう声もよく届くだろう。
 「好きだ」という一言が、この世界と自分にどれくらい影響を与えるのか、あの人はきっと知っている。
 だからこそ、すごいと思う。私とは全然違うと思う。私にはあんなことはできない。リスクなんて背負えない。


 先輩と話したみたいに、好きって気持ちだけが全てだとは思っていない。好きだからという気持ちだけでなんとかなるほど、この世界は優しくないとも思っている。
 だけど、だからこそ、胸を張って『好きだ』って言って、それを貫くために必死になれる人たちが輝いて見えて、うらやましくてしょうがない。

 私は譲れないほど好きなものはない。リスクを負ってまでやりたいことはない。
 だから無理だと思ったらすぐ辞める。努力を避けて、辛いことから逃げて、ただただ、どこに行き着くのかもわからない世間の流れに流され続けている。

 こうやってだらけ続けてきたツケは、いつか払わなければならないのかもしれない。
 流され続ける私はいつか、どうしようもない袋小路に押し込められて、取り返しのつかない失敗をしそうな気がする。
 そんな漠然とした恐怖感を感じることもあるけれど、じゃあどうやって流れに逆らえばいいのか、私はその手がかりすら知らない。

 私には、何もないんだろうか。
 何か夢中になれるものがないと、駄目なんだろうか。


 シーズンが終わって、球場でのバイトがない冬の間も、そんなことをぐるぐると考えていた。
 結局何の答えも得られず、私はただただいつものように、時間の流れに流されるばかりだった。

 年末の音楽番組を観て、流れていた曲を音楽プレーヤーに入れようとした。
 入らなかった。容量がいっぱいだった。
 曲目リストを見る。多分聞けばわかるけど、タイトルがわからない曲ばかり。
 そこにあったのは単なる何年か分の流行曲一覧であって、私にとってただただ聞き流すBGM以上の何物でもなかった。

 もう、いいか。私は無造作にプレーヤーに詰め込まれたデータを、全部消した。





←前   小説本棚   次→