Inning9:背番号90




 日入りの直前。海と陸の温度が同じくらいになる頃、昼間吹き続けていた海風がぴたりと止み、水面は鏡のように平らに静まる。
 空気の流れが止まった三角州デルタに、強烈な西日が照り付ける。天から与えられた熱は背後を囲う山に抱かれて逃げる道を失い、頬を流れ落ちる汗を冷ましてくれる風は半刻以上吹くことはない。
 目に映る景色は溜まった熱気と湿度でぼんやりと歪み、ただ静かに、じっとりと、時が止まったような蒸し暑さが河口の街に滞り続ける。夕凪と呼ばれる、この地方の夏の風物詩。

 それがこの球場での、プレーボールの時間を迎えた合図。

 宵をとうに過ぎた頃合い。
 供給の途絶えた熱が徐々に勢力を落とし、うだるような蒸し暑さが解消され始めるころ、ようやく昼間とは反対方向からの風が吹きはじめる。籠った湿気と熱の残渣を山風が海へと運び、星空の下は乾いた大気で満たされる。
 過ごしやすくなった空気はしかし、カクテル光線の下に集った人々へ届くことはなく、まるでそこだけ未だ夕凪が続いているかのように、いやそれ以上に、時が経つほどに暑く、熱く、熱気が塗り重ねられていく。

 夜空の下での試合が終盤を迎え、スタジアムの熱狂が最高潮クライマックスを迎える頃。赤いランプが三つ点灯し、得点表スコアボードの八番目の下段に攻撃回イニングの最終得点が表示された時。

 それが、僕がマウンドへ向かうタイミング。


 投球前に、何らかのルーティーンをする投手は多い。ベースラインを左足でまたぐとか、まずプレートの真ん中を踏むとか、ロージンバッグを手のひらで二回バウンドさせるとか、些細な者から込み入ったものまで、やることは実にさまざまだ。
 一応、僕にもある。僕はリリーフピッチャーだから、マウンドには必ず自軍と相手のピッチャーが先に立っている。
 それまでの試合で踏まれ、削られ、傷ついた、グラウンドで一番高い場所。そこを僕の場所に変え、小心者の僕の心に忍び寄ってくる弱気を振り払うための、ちょっとした儀式。
 やることは単純だ。
 マウンドへ走っていき、そのてっぺんに立ち、目を閉じ、少し下を向き、右手を胸の真ん中に当て、ノックするように指先で軽く胸を叩く。
 その後大きく深呼吸をして、投球練習を始める。
 プロになって十数年。マウンドに立つ度繰り返してきた。


 四方から照明が向けられ、球場中の視線が集まるこの場所は、まるで演劇の舞台のよう。
 そうであるならば、スポットライトの当たるこの場所は、さながら独白を始める主人公の立ち位置というところだろうか。

 生まれ持っての性質による舞台上での適役は、背景の木か頭数をそろえるためだけのモブといったところか。
 いずれにせよ目立つ役をやるような柄じゃない。身体は動く方だと思うし、図体はそれなりに大きいけど、大人しくて、小心者で、すぐ弱気になる。
 投手としては不向きな性格。いやそもそも戦いに向かないのかもしれない。
 けれど、それでもこの場所に立っている限り、僕は主人公でいなければならない。

 そう、主人公でいなければならないのだ。僕はこうやって、幼いころからの夢舞台に立つことが出来るようになったのだから。





 紅葉を象徴とする街の中心から真っ直ぐ北へ、車で数時間。
 平均標高五百メートルの山が連なる高原の中、霧のたちこめる盆地の小さな町。
 その町はずれ、山と川と田んぼに囲まれたところに、僕が育った「家」があった。

 『特別児童養護施設 もみじの樹』。
 「携帯獣関係特別児童養護施設」、通称「特携トッケイ」と呼ばれるその施設は、トレーナー制度の広がりによって生まれた、僕みたいな「ひずみ」を集めた場所。
 親の顔も名前も、僕は知らない。知っているのは、生みの親はポケモントレーナーだったこと。それだけ。ただそれだけだ。
 施設長の話では、僕はとある年の冬の日の朝、毛布にくるまれて施設の前に置き去りにされていたらしい。ちょうど初雪の降った日だったそうだ。
 古びた毛布に挟まれたメモには名前や連絡先は何もなく、『私たちには無理です。すみません。』とだけ書かれていたとか。
 無責任なものだと思う。無理って何だ、無理って。身元も隠して雪の降るような寒い夜に生まれたばかりの子供を放置していくとかちょっと理解できない。

 そんな出生なものだから、長いこと大人とか親とかそういう生き物に信頼が置けなかった。そして、僕をそういう境遇に落とした、『ポケモン』というものを遠ざけていた。
 僕以外も大体はそんなもんだ。同じ施設にいた子はみんな大体似通った経験をしているから。

 『ポケモントレーナー』という文化が広がり、旅をする人が増え、そして何らかの「過ち」を犯して、僕たちみたいな子供が産まれる。
 トレーナー人口は年々増加し、それに比例して僕たちのような「歪」は増えた。
 その事実は誰もが知っていたけれども、それが世間に与えた影響なんてほとんど無と同じだった。
 歪は集められ、隠されて、目を背けられる。俺たちは悪くないんだ、問題なんて何も起こっていないんだと、トレーナー中心の世界は白を切る。

 年に何回か、トレーナーの協会だか何だか、そんな感じの人たちが施設に来る。
 僕たちにポケモンと仲良くしてほしいから。トレーナー関係はこの世界でもはやメイン産業となっていて、僕たちを何とかそっちの方へ引き戻そうとしているからだ。
 その人たちは例外なくポケモンとトレーナーを連れてくる。大体は、ぬいぐるみのような小さくてかわいいポケモン。
 そして僕たちに向かって口々に言う。

「ポケモンは友達だよ」
「ポケモンは怖くないよ」
「みんなもポケモンと仲良くなろう」

 僕らに向けられた甘い言葉が、僕たちに届くことはほとんどなかった。
 当たり前だ。ポケモンと仲良くしろという人たちと、僕たちは住む世界がそもそも違うんだから。

 ある時、協会の人たちが連れてきたのは、何て言ったっけ、ピンク色で丸くて大きな目のポケモン。小さな女の子なんかが喜ぶと思ったのだろう。
 だけど、きっと彼らにとって一番のターゲットだったはずの、僕のふたつ下だったマイちゃんは、そのポケモンを見るなり大泣きした。
 協会の人が怖くないよ、かわいいよ、と言いながらそのポケモンを近づけてきたけど、マイちゃんは絶叫しながら逃げ回った。
 錯乱したマイちゃんは施設を飛び出して、目の前の道路で車にはねられた。幸い軽いけがで済んだのだけれど、マイちゃんはそれから何年も、丸いものを見るとその日を思いだして泣き叫ぶようになった。

「こんなに大人しくてかわいいのに」

 と、協会の人は不思議がっていた。
 協会の人は知らなかったのだろう。マイちゃんは三歳になった頃ここに連れてこられたのだけれど、一緒にいたいと泣き叫び縋りつくマイちゃんに一切目もくれず去って行った両親が、その腕に抱え慈しんでいたのがあの丸くてピンク色のポケモンだったってことは。

 ある程度成長してから捨てられた子の方が、心の傷は深くて大きかった。
 僕は産まれてすぐこの施設に来たから、マイちゃんみたいにポケモンに対する強烈なトラウマは残っていない。覚えていないから。協会の人が連れてくるポケモンを見て猛烈に気分が悪くなるとか、そういうことも幸いにしてなかった。
 それでも、ポケモンと仲良くしようと言われて、はいわかりました、と従うことは出来なかった。
 施設の子たちはみんな、僕みたいに強烈なトラウマがない子も含め、自分たちは特別だ、という思いを持っていた。もちろん悪い意味で。
 ほとんどの人は、ポケモンが嫌い・ポケモンが怖いという僕たちの感覚を理解できないらしい。この世界はポケモンに溢れていて、一緒にいるのが当たり前だから。戦後急速に拡大したポケモン文化はこの世界を覆い尽くし、そして僕たちみたいな歪は隔絶された。

 自分たちは、世の中が今の形を保つために棄てられた。この世界の人たちが、ポケモンと生きるために。

 もしこの世界に、ポケモンがいなければ。トレーナーという制度が存在しなければ。
 自分たちは「特別」な存在じゃなかったかもしれない。

 「特携」の子たちはみな例外なく、そう思っていた。



 学校でも、僕は浮いていた。
 そもそも子供って言うのは、自分たちと違うものを仲間外れにしたがるものだ。親もいない、家もない、そしてポケモンが好きじゃない僕は、露骨ないじめを受けることはなかったんだけど、何となく「仲間じゃない」という認識を持たれているような感じで、他の人たちと一線置かれているような感覚を持っていた。
 露骨ないじめがなかったのは多分当時の僕の故郷の環境のせいもあると思う。
 僕の故郷やその周辺地域では、少なくとも僕が子供のころは、カントーやジョウトほど、トレーナーとして旅に出ることが一般的ではなかった。
 特に僕の故郷は田舎だったせいもあって、特に年齢が高い人の中には保守的な人が多く、トレーナーなんて職に就けなかった人間がなるもの、無職と変わらないもの、恥ずかしいもの、という認識の人が少なからずいた。
 僕が中学にはいる直前ぐらいに発売されたあるゲームの影響で、少しずつ若いトレーナーは増えているみたいだけど、それでも今なお、世界的にもトレーナー産業の活発なこの国の中では特異なほど、トレーナー総人口は多くない。

 平穏で、静かで、刺激のない日々。何かを欲しがることもなく、大きな変化があるわけでもない。
 それが僕の日常だった。――あの日までは。


 それは僕が九歳、小学四年生の時のことだ。
 九歳の、秋。色づいた田んぼの稲が重く頭を垂れる、九月の終わりのこと。

 その夜、街は燃えていた。
 実際に炎が上がっていたわけじゃない。でもそれと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、緋色の熱気に包まれていた。

 後半戦を四位で折り返した緋色のチームは、夕凪の季節に怒涛の快進撃を見せ、一時期は一位との間に十五あったゲーム差を完全にひっくり返した。

 そしてあの夜。夕凪の残渣が残る球場で、とうとう歓喜の瞬間は訪れた。
 僕はそれを、特携のみんなと銭湯のテレビで観ていた。その時ばかりは誰も風呂に入らず、番頭も仕事を放棄し、大人たちも子供が遅い時間にいることを咎めることもなかった。

 ツーアウト満塁から、ストッパーが打者へ最後の一球を投げる。
 放たれたボールは投手の前で鋭く落ち、バットが空を切った。

 その瞬間、テレビの中からも、外からも、割れんばかりの歓声があがった。
 大人も子供も飛び上がり、抱き合い、胴上げまでして喜んでいる。

 そんな中、僕はじっとテレビの画面を見つめていた。
 嬉しくなかったわけじゃない。地元のチームが優勝したのだ。当然嬉しい。
 ただそれ以上に、やみくもに喜びを爆発させる以上に、僕は胸の奥に灯った緋色の炎に身体全体がのまれていくような感覚を覚えていた。

 画面の中で、緋色のユニフォームを纏った戦士達が、七色の紙テープに囲まれて宙を舞っている。
 それを見る老若男女が、みんな泣きながら笑っている。

 僕もいつか、あの中へ行きたい。
 身を焦がす熱気の中で、僕は強く、そう思った。


 炎の夜から数日後、僕は施設のリビングでくつろいでいた、施設長さんとその奥さんの所へ行った。
 僕は深々と頭を下げ、言った。

「野球をやりたいです」

 今まで特に何を欲しがるということもなかった僕の突然の申し出に、施設長さんは驚いた顔をした。
 奥さんと顔を見合わせ、野球かあ、と少し困った顔で言った。
 ユニフォーム、帽子、ヘルメット、グローブ、バット、スパイク、月々の会費、その他消耗品、エトセトラエトセトラ。野球は結構お金がかかる。
 正直、施設にはお金がない。国からの補助金と寄付金で何とかやっているのが現状だ。
 僕もそこは分かっていたので、施設長さんと奥さんの反応を見て、無茶言ってすみません、と頭を下げた。まあ、最初から駄目もとだったし。

 部屋に戻って、ベッドに寝転がる。
 じんわりと涙が浮かんできた。無理なことは分かっていたけれども、野球がやりたかった。テレビで見た緋色のヒーローたちみたいに、緑のグラウンドで、歓喜の輪に包まれてみたかった。



 放課後のグラウンドでは、生徒がみんな思い思いの遊びをしている。大縄跳び。ブランコ。タイヤ跳び。一番広い面積を使って、数十人のグループがキックベースをやっている。
 僕は教室の窓から、その様子をぼんやりと眺めていた。

 突然、僕の額を指で突いてきた人がいた。僕は驚いて立ち上がった。椅子が大きな音を立てて床に倒れた。
 僕の前に仁王立ちしていたのは、僕より頭ひとつ小さい男の子だった。その子は僕を見上げて言った。

「お前、野球やりたいんだってな」

 僕がぽかんとしていると、その子は父さんから聞いた、と付け加えた。僕が勢いに気圧されながらうなずくと、その子はふうん、と僕をにらむように見つめてきたあと、僕に背を向けた。

「野球やりたいんだったら、ついて来いよ」

 早足で歩く彼の後を、僕は慌ててランドセルを背負って追った。

 段原ダンバラ 霧人キリト、と彼は名乗った。隣のクラスの同学年の子だった。
 小走りになりながら彼の後を追う。僕より小さいのに、歩くスピードは僕よりずいぶん速い。

 田の畦道を抜け、川沿いの砂利道を歩き、小さな商店街を通り抜けると、住宅街から離れた野原の中にぽつんと、柵に囲まれたコンクリートの大きな建物があった。
 ダンバラに促されて建物に入る。フロア全体をぶち抜いた大部屋には、小さな檻や柵が至るところにおいてあり、そしてその中には、様々な種類のポケモンがひしめいていた。
 僕はちょっとたじろいた。突然大量のポケモンと対面させられて、とにかく困惑していた。
 ダンバラは嬉しそうに飛び込んでくるポケモンを抱えて、僕に向かって言った。

「こいつらの世話を手伝ってくれたら、父さんが野球のお金出してくれるってさ」

 どうする? といった様子でダンバラがこちらを見てきた。
 僕は戸惑った。野球はやりたい。でも、ポケモンの世話なんて。
 やりたくなければ別にいいんだけど、とダンバラが追い撃ちをかけてきた。
 それでも僕はどうしても、足がすくんで動けなかった。怖いとか嫌いとかじゃなく、どうすればいいのかわからなかった。

 その時、僕のすぐ足元で鳴き声がした。見ると、額に小判を乗せた小さな猫が、僕の右足にしがみついて、にゃあんと弱々しい声を上げていた。
 僕は驚いて一瞬振り払おうとしたけれども、僕を見上げる潤んだ眼を見て、何となく施設の年下の子たちを思い出し、振り払えなかった。
 ダンバラは小さく首を傾げ、そいつ、なかなか人に懐かないんだよな、と言った。

 で、どうする? とダンバラは聞いてきた。
 僕はしばらく足元の子猫と見つめ合ってから、そっとしゃがんで恐々抱え上げ、やる、と言った。


 週に何度か、ダンバラのところに行って、ポケモンの世話をするようになった。
 最初はおっかなびっくりだったけど、何となくここのポケモンは平気だな、と思えたのが不思議だった。

 このポケモンたちは、トレーナーに捨てられた奴らなんだ、とダンバラが言った。
 環境の変化や、金銭面の問題。あるいは進化後が気に入らないとか、事故で飼えなくなったとか、もしくは単なる気まぐれ。様々な理由で捨てられるポケモンがいる。
 トレーナーに逃がされたポケモンは業者が元の生息地に戻したり、あるいはどこかに引き渡したりするようだが、ある程度育てられて強くなりすぎていたり、野生に存在しない技などを持っていたり、いろいろな事情で野生に帰すこともできないポケモンがいるそうだ。

 ダンバラのお父さんはそういうポケモンを引き取って、他のトレーナーに譲り渡す仲介役をやっているらしい。
 僕の話は、特携の施設長さんから聞いたと言った。ポケモンが好きではない、どっちかと言うと苦手な僕が、何となく共感を覚えた理由はそれだった。
 特携の僕たちと、ここにいるポケモンたちは同じだった。

「トレーナーは嫌いだ」

 吐き捨てるように、ダンバラは言った。

「自分の都合で育てて、いらないからって勝手に捨てる。自分勝手だ。大嫌いだ」

 ダンバラはポケモンが大好きで、トレーナーが大嫌いだった。



 ダンバラのお父さんから支援を受けて、僕は地元のリトルリーグに入団できた。小学四年生の新年開けたばかりの頃だ。

 監督は割と身体が大きめの僕を見て、ピッチャーとキャッチャーどっちがいい、と聞いていた。
 ふ、とマジカープが優勝したときの光景を思い出し、ピッチャーがいいです、と僕は答えた。

 与えられた背番号は0だった。曰く、空き番号がこれしかない、と。安全ピンで留める使いまわしのゼッケン番号を新しく作るのも面倒だから、というごく単純で適当な理由だった。
 監督に挨拶をして、ダンバラにいろいろ説明を受けながらグラウンドへ向かっていると、僕より頭一つ小さいダンバラと同じか少し小さいくらいの男の子がこちらへ駆け寄ってきた。

「キリちゃん、その人は?」
「新入り。俺たちと同い年で、ピッチャー志望」

 ピッチャー! とそいつは嬉しそうに飛び跳ねた。
 ダンバラの方を見ると、うちのキャッチャーだよ、と言ってきた。
 背番号9のそいつは、僕が思い描いていたがっちりどっしりとしたキャッチャー像とは違い、細くて、小さくて、なよなよしていた。
 そいつは底抜けに明るい笑顔を僕に向けて、右手をこっちに差し出してきた。

「俺は太田オオタ カエデ。よろしくな! えーっと……」
「……ショウリ。本川ホンカワ 鯉勝ショウリ
「ショウリな! 今日から俺たち、バッテリーだ!」

 差し出された手を握ると、カエデは僕にとびっきりの笑顔を向けた。


 カエデは一年くらい前にこの町へ引っ越して来たらしい。
 ここに来る前はジョウトのとある町に三年ほど住んでいて、その頃から野球はやっていたそうだ。
 親は二人とも元トレーナーで、旅の途中で出会って結婚したらしい。今は旅トレーナーは引退して、全国でトレーナーを目指す子供への指導をしているそうだ。
 それもあって、カエデは数年ごとにいろいろな地方の町を転々としているとか。

 カエデの家には両親のポケモンがたくさんおり、カエデ自身もポケモンを持っているのだと言った。
 前に住んでいた地方では十歳くらいで旅に出る子供も最近ではそんなに珍しくなく、そういう子は旅のレポートが学校の授業の単位がわりになるらしい。そうでなければ、夏冬春の長期休暇に旅に出る子が多かったとか。

 カエデも旅に出るのか? と僕は聞いた。
 『トレーナー』という言葉を聞く度、僕は心の奥がじくりと痛んだ。特携の他の子ほど「ポケモン」というものにトラウマはなかったけれど、「トレーナー」というものに恐怖感にも似た嫌悪感を持っていることを僕は改めて自覚した。
 カエデは困ったように眉を寄せ、首をひねった。

「正直なところさ、悩んでるんだよな。トレーナーにはなりたいし、ここに来る前はそのつもりだったんだよ。でもさ……」

 そこまで言うとぱっと顔を輝かせ、眼をキラキラさせて、弾んだ声で続けた。

「この前街の方に出ててさ、そこで見たんだよ、マジカープが優勝するの! その場にいた人たちがみんなものすごい喜んでてさ、すごかったんだ。あんなの初めてだよ」
「うん、僕も見てた。本当に……すごかったよな」
「すごかった。それでさ、俺、胴上げ見ながら思ったんだよね。ああ、俺もいつかこの中に入りたいな、って」

 カエデは頬を染め、興奮した様子でまくし立てた。

「キャッチャーとして、抑えの投手と最初に抱き合ってさ、飛び込んできたピッチャーをしっかり持ち上げるんだよ。で、集まってきたみんなにもみくちゃにされるんだ。そのあと監督とピッチャーを胴上げするんだ。背番号と同じ回数上げてやる。五十回でも、百回でも」

 遠くを見るような眼で楽しそうにそう語り、カエデは傍らに転がっていた軟球を拾い上げた。

「俺、ポケモンが好きだし、トレーナーにも憧れてる。でも、もっともっと野球が上手くなりたい。もっともっと上手くなって、プロに入って、球場の真ん中であの感動を味わってみたいんだ」

 カエデは立ち上がり、軟球を放り投げた。ボールは土のグラウンドで何回か小さくバウンドして、少しだけ転がって止まった。
 軟球の行方を見守ってから、ショウリは? とカエデが聞いてきた。
 僕はカエデを見上げて、僕も同じだ、と言った。カエデは嬉しそうに笑った。

「それじゃあ、俺達、同じチームになれるといいな! 俺がキャッチャーで、お前はクローザー! それで、一緒に優勝するんだ!」
「そうなるとすごいな……。でもさ、ドラフト会議ってくじ引きだから、僕たちが願っても同じチームになれるとは限らないんじゃないかな?」
「うーん、ショウリって夢がないなー。でもそっか……うーん……。あ! そうだ!」

 カエデが何かひらめいたように、また僕の隣に座って言った。

「もし俺達が二人ともプロになって、でも違うチームになったらさ、背番号を同じにしようぜ!」
「背番号を?」
「ああ! それで、ショウリが優勝したら、俺と同じ背番号が胴上げされるじゃん? 俺が優勝したら、ショウリと同じ背番号が胴上げの輪の真ん中にいるじゃん? そうしたらさ、ちょっとは一緒に優勝した気分にならない?」
「……それって結局優勝はしてないけど……まあ、何となく気持ちはわかる、かな」
「だよな! よっしゃ! じゃあ、約束!」

 そう言って、カエデは僕に右手の小指を差し出してきた。僕がそれに自分の小指を絡めると、カエデは右手を激しく上下に振りながら、テンション高く言った。

「俺も、ショウリも、いつか絶対プロになる! それで、違うチームになったら、俺達は同じ背番号を背負うんだ!」

 指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、という定型の歌を、カエデは調子を外しながら大きな声で歌った。僕もそれに合わせて歌った。
 夕焼けの中に、二人分の声が溶けていった。



 プロの選手になりたい、という大いなる野望を抱いていた僕とカエデだったが、二人揃ってリトルリーグに所属している間の実力はというと、正直なところ二人とも将来の夢がそれで本当に大丈夫かと不安になるような残念なものだった。

 カエデはというと、絶望的に肩が弱かった。何せ、ホームから二塁まで送球が届いたためしがなかった。それどころか、一塁でさえ届くかどうか怪しかった。
 二塁へ送るために立ち上がって投げたボールが、山なりに弧を描いてマウンドに立つ僕のすぐ後ろに落ち、そのままマウンドと二塁の間で力なく静止したときは、さすがに監督も頭を抱えていた。

 僕は小学生にしては球速はそれなりに出る方だったと思うけれども、それはそれはひどいノーコンだった。
 投げても投げても、ちっともストライクゾーンに入らない。まるであさっての方向へボールを放り投げたり、勢い余って自分の足元にボールを叩きつけたり、ワンバウンドどころかツーバウンドくらいで何とか捕手の足元まで転がることもしばしばだった。練習試合で、相手が一度もバットを振らずに五点ぐらい取られたこともあった。
 そして何より、僕はメンタルが弱すぎた。
 打たれたらどうしよう。点を取られたらどうしよう。僕のせいで負けたらどうしよう。
 そんな考えが頭に浮かんでくると、どうしてもそれを振り払えず、ただでさえ駄目な制球がさらに駄目になり、四球や死球を連発して自滅するのが常だった。

 本当に、僕たち二人には才能のようなものは欠落していたと思う。同じチームでサードをやっていたダンバラの方が、ピッチャーもキャッチャーもよっぽど上手くやれた。

 ただ、そんな才能のない僕たちだったけれど、二人でバッテリーを組んだときは例外的なくらい安定していた。
 僕が弱気になりそうになると、カエデはすぐに僕のところへ来て声をかけてくれた。

「大丈夫大丈夫、俺のところめがけて思いっきり放ればそれでいいから!」

 大丈夫大丈夫。カエデはいつもそう言って、僕の胸を拳で軽く叩いてきた。
 そうされると僕は不思議と落ち着いて、心を支配してくる弱気がどこかへ消え去っていった。
 そういう時は僕はいつも、自分の実力以上の力が出せるような気がした。

 僕とカエデは、最高のバッテリーだった。



 カエデとバッテリーを組んで、一年と少しが過ぎた。
 小学六年生になった春、新年度初めての練習にグラウンドへ行くと、そこにカエデの姿はなかった。

 その日の最初のミーティングで、カエデは親の仕事の都合で遠くの地方へ引っ越したと、監督が教えてくれた。



 やがて時は過ぎ、僕は中学生になった。中学は隣町の、私立の中高一貫の学校を選んだ。
 理由は正直なところとても単純で、その学校は成績がよかったら特待生として、中学・高校共に授業料を免除してくれる上に、返済不要の奨学金もかなり出るからだった。
 僕は幸いにも勉強は出来る方だったので――これでも元々勉強は嫌いじゃなかったのだ――何とか努力して授業料全額免除と奨学金を勝ち取った。
 授業料免除が目当てだったのだけれど、この学校は最近では珍しくなったガチガチの進学校で、ポケモンに関する授業はほとんどなく、学校へのポケモンの持ち込みも、長期休暇中の旅も原則認めていなかった。
 それを狙っていたわけじゃないけれど、結果的に僕にとっては心を乱される要素の少ない環境だったかもしれないとは思う。

 部活は野球部に入った。部費やその他経費は新聞配達で補った。時々ダンバラの家の手伝いもしていた。
 ただ、ダンバラは僕とは別の、家から遠い寮制の学校へ進んでいたから、顔を合わせることはなかった。

 部費を稼ぐための新聞配達で下半身が鍛えられたせいか、制球力が飛躍的に伸びた。ついでに背も伸びた。
 それでも相変わらず、メンタル面は豆腐並だった。
 マウンドに立つと、いつも足が震えた。ピンチになるとすぐパニックに陥った。ただでさえ制球がよくなかったから、ほぼ毎回テンパっていた。
 そして失点して、自信を失い、次にマウンドに立つときは更に弱気になる。そんな悪循環に取り込まれていた。
 おまえ投手向いてないんじゃないか? とあらゆる人に何度も言われた。

 ある日、マウンドに上がった時、僕はいつも通り恐怖に震えていた。
 ふと、自分が無意識に手を胸に当てていることに気がついた。
 弱気になった時カエデがいつもそうしてくれたように、自分の胸を軽く叩き、大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせた。

 そうやって深呼吸をすると、身体の震えが止まり、耳の奥で小さく金属音のような耳鳴りがした。
 夕凪の時のように空気が静まっている感覚を覚えた。弱気が消え、集中力が研ぎ澄まされていた。
 その日の登板はこれまでになく安定していて、監督やチームメイトにどうしたのかと驚かれ、人が替わったんじゃないかと疑われるほどだった。

 それから毎回、マウンドに立つ時、その「儀式」をやるようになった。


 高校生になった。内部進学で一貫の高校に入った。特待生として更に三年分の授業料免除と奨学金も勝ち取った。

 部活はもちろん野球部に入った。僕はずっと楽しみにしているものがあった。
 それは夏休みに行われる、高校生の野球選手権大会、通称「コウシエン」だった。
 各地の予選を勝ち抜いてきた強豪校によって行われるその大会は、もはや夏の風物詩といっても過言ではなく、その舞台に立つことは僕たち高校球児共通の夢だった。


 ところが、高校に入っていくばくもしないうち、信じられないニュースが飛び込んできた。

「今年の夏のコウシエンは、中止。そして少なくとも今後数年、春夏共に大会は行われない」

 まさに青天の霹靂だった。高校での目標が、一瞬にして消えうせてしまった。
 理由は高校球児の、もとい「高校生」の減少だった。

 数年前発売されたとあるゲームの後押しもあり、トレーナーとして旅を始める若い世代がどんどん増えていた。
 特に元々トレーナー産業が盛んなカントーやジョウトでは、高校以上の教育を受ける人間が一気に減少し、五十年前は一学年十クラス以上あったのに、今では二クラス程度で収まってしまうくらいの人数しか集まらない学校なんかもあった。当然の如く高校の数自体も減った。

 そしてそれに伴い、野球部に入部する生徒が減った。
 高校生自体が減ったうえに、野球以外の――僕の母校には存在しなかったけれども――ポケモンバトル部みたいなポケモン絡みの部活に入部する子が増えたからだ。

 こうして高校球児は減少し、地域によっては予選に参加できる学校が片手で数えられる程度しかないところも出現しはじめたそうだ。
 大会の規模と、それにかかる費用や効果。それらが噛み合わなくなり、大会スポンサーが出資を渋るようになった。
 その結果、運営が困難となり、大会は始まる前に中止が決定してしまった。


 当然、僕たち高校球児は大会の開催を求めた。
 コウシエンは僕たちの夢舞台であり、予選も含めてプロの球団へ自分をアピールする最大の機会でもあった。
 しかし、僕たちの願い虚しく、大会が行われることはなかった。


 コウシエンが少しルールを変えて再開するのは、僕が高校を卒業した次の年のことだった。



 僕は大学へ進学した。高卒でのプロ入りは諦めた。あまりにも実力が足りなさすぎた。
 特携を出て、大学の寮に入った。大学では地理学を専攻した。奨学金を取って、学費は一部免除をもらい、バイトをして補った。
 忙しかったが、もちろん野球部には入った。夢のためにそこは譲れなかった。譲るわけには行かなかった。

 才能のない僕も幼少期から必死で努力を積み重ねてきた。
 そして大学三年の秋、とうとうエースピッチャーの座を掴んだ。
 大学野球の大会の地区予選で、僕の大学の野球部を創部初の本選出場へ導いた。……まあ、本選は一回戦敗退だったけど。
 でも、何も得られなかったわけじゃなかった。いや、僕は何より大事な「再会」をした。



 本選はカントーのタマムシ神宮球場で行われたが、練習やその他で、周辺の大学のグラウンドを借りていた。
 冬も近づいてきた晩秋の午後。
 借りていたグラウンドを整備し、荷物を抱えて広い大学校内を抜け、チームメイトと共に駐車場で帰りのバスが来るのを待っているところだった。

「……ショウリ? お前、もしかしてショウリか?」

 突然名前を呼ばれ、僕は驚いた。
 声のした方を見るとそこには、細くて、小さくて、なよなよした、この学校のものではないウィンドブレーカーを着た男が立っていた。

「か……カエデ?」

 十年ぶりの再会だった。大人になったカエデは、昔と変わらない輝くような笑顔をその顔に浮かべていた。
 チームメイトの一人が、カエデを見て、驚いたような声を上げた。

「えっ……オオタカエデ!? ポ球の!?」

 本当だ、オオタだ、とあっという間にカエデの周りには人だかりができた。
 サインの要求に笑顔で答ながら、カエデは少し申し訳なさそうな顔で僕に言った。

「ごめんな……俺、プロ野球選手にはなれなかったんだ」


 サインや写真撮影のリクエストにあらかた答えてから、カエデはちょっと話でもしようと誘ってきた。僕はチームメイトと別行動をとらせてもらって、カエデに着いていった。
 ゆっくり歩きながら、カエデはこれまでのいきさつを話した。

 引っ越していった後、次の町でもカエデは相変わらず野球のキャッチャーをやっていたけれども、結局どれだけ努力しても、肩の弱さは克服できなかった。
 中学に入ってからは他の捕手志望もたくさん現れ、カエデは試合で控え捕手にすらなれない日々が続いていた。

 そんな時、カエデが出会ったのはポケモン野球、通称ポ球だ。
 ちょうど僕たちが中学に進学した年にイッシュから流入してきたその競技は、トレーナーのようにポケモンを扱え、更に野球も出来るという、カエデにとってはまさに夢のようなスポーツだった。
 カエデは中学二年生で学校の野球部を辞め、町にできたばかりのポ球のジュニアチームに加入した。
 そこでカエデは「指令捕手コマンドキャッチャー」として天性とも言える才能を見せた。自分の身体能力では野球選手として大成できそうにもなかったが、配球を読み、ポケモンに的確な指示を出す力は天才的だった。
 高校では新設のポ球部を第一回大会から全国へ導き、第一回から三回まで全ての大会でベストエイトに入った。
 それがポ球のプロリーグの目に留まり、高校卒業すぐにドラフト一位でプロポ球選手となった。今はもうプロに入って三年経つ。

「ごめんな。お前には真っ先に報告したかったんだけど、お前の気持ち考えると……どうしても言えなくて」

 人間のポ球選手は、野球選手よりポケモントレーナーに近い。だから『トレーナー』というものに複雑な感情を抱いている僕に、報告するのがどうしてもためらわれたのだという。
 本当にごめんな、と言うカエデの頭を、僕は軽く小突いた。

「馬鹿だな。早く言ってくれよ。トレーナーがどうこうより、どういう形であれお前がプロになったってことの方がよっぽど嬉しいに決まってるじゃないか」

 進む道の先は少し変わったけど、それは僕にとってはあまり関わりたいと思う世界ではないかもしれないけど、それでも大事な幼なじみが、ユニフォームを着てプロのグラウンドに立っている。その事実は僕にとって嬉しい以外の何物でもなかった。
 もっと早く言ってくれれば、とは思ったけれども、それは無意識のうちにポケモンやポ球に関する情報をシャットアウトしていた僕の責任でもあるから何とも言えない。
 カエデは照れたように笑って、もう一回ごめんな、と言ってきた。


 目的地は僕たちが使わせてもらっていたグラウンドだった。この大学の学生と思われる選手と、ポケモンが何匹か、グラウンドでアップしていた。
 カエデは今日、この大学のポ球部に指導に来たらしい。何せポ球はこの国にはまだまだ来たばかりのスポーツなので、プレー人口を増やそうとポ球の協会が率先して大学や高校にプロ選手を派遣しているらしい。野球ではプロアマ規定がどうたらとかでプロの指導を受けるのは難しいのだが、ポ球はその辺は割と緩いようだ。
 カエデがグラウンドに現れると、グラウンドにいた選手たちが即座に整列してカエデを出迎えた。カエデは短い挨拶をして、早速始めようか、と笑って言った。
 ショウリも嫌じゃなかったら見学していきなよ、と言われたので、少しだけ見てみることにした。

 ベンチでウィンドブレーカーを脱いだカエデの背中には、『OHTA 90』という文字が躍っていた。

「背番号……90?」
「そう。プロ入りしたときに提示された背番号の中に90があったんだ。ほら、リトルリーグでさ、俺の背番号が9で、ショウリが0だっただろ? 両方をくっつけて90。だからさ、あ、俺がつけるべき背番号はこれだ、って思って」

 いい番号だろ? とカエデは笑って言った。
 自分のことまで考えてくれたことを嬉しく思いながらも、僕はカエデの背中を軽く叩いて言った。

「こんな大きな番号じゃ、回数分胴上げできないじゃないか」
「あ、そりゃそうだ。09にしときゃよかったな」

 何だそれ、と僕は笑った。



 大学四年の時、ドラフト会議でまさかの一位指名をもらった。
 僕を指名した球団は、僕が幼い頃から憧れつづけてきた、僕の故郷の緋色の球団。単独指名だった。
 球団と相思相愛であることがわかって、しかも自分が思っていたよりずっとずっといい順位で指名してもらって、嬉しさと驚きとが半分半分だった。

 特携の施設長さんや、後輩や、かつて同じ家で過ごしたみんなから、数えきれないほどのお祝いの言葉をもらった。
 大学時代思ったような成績が出せなかったというダンバラは、社会人野球に進むという。すぐに行くからそっちで待ってろ、というメッセージを送ってきた。
 カエデは誰よりも喜んでくれた。これでやっと二人とも夢のスタートラインに立てたと、僕よりもぼろぼろ泣いていた。


 球団と契約を結ぶ日、いくつかの背番号を提示された。
 球団としてはぜひこれを与えたいんだけど、と薦められたのは、かつて抑えの大投手が着けていた、あの日見た胴上げ投手が着けていた番号もあった。

 でも、僕は実はそれどころじゃなかった。
 球団の提示した空き番号に、あの数字があったからだ。

 僕がその番号がいいと言うと、球団の人は驚いて、こんな大きな番号、普通はコーチや控え選手が着けるものだと言ってきた。
 それでもその番号がいいと言うと、球団は仕方がないなといった様子でその背番号を僕に譲ってくれた。

 こうして僕は「背番号90」となった。


 プロ入りしてすぐ、抑えクローザーを打診された。その当時球団に絶対的な抑えがいなかったことと、僕の持ち玉が直球ストレートとフォークしかなく決め球に欠けること、そして僕のメンタルが長続きしないのを見抜かれたせいだ。
 一応先発でも何回か登板したけど、やっぱり長いイニングは厳しいだろうと判断され、すぐに中継ぎセットアッパーに転向となり、そしてシーズン後半からは抑えに抜擢された。
 相変わらず小心者の僕に、重大な責任のかかる抑えが向いているとは言いがたかったけど、そんな僕に任せてくれた監督やコーチの信頼を裏切るわけにはいかなかった。
 下位に低迷していたチームの台所事情もあっただろうけれども、抑えは後続リリーフの中で一番の選手が投げる場所。そこを任されたからには、何が何でも期待に応えるしかない。
 ルーキーイヤーからとにかく必死で投げた。弱気を気合いで振り払い、最終回のマウンドで白球を投げ続けた。

 気がついたら初年度が終わっていて、僕は「守護神」と呼ばれるようになっていた。
 たまにセーブも失敗したし、ランナーは出しまくるし、むらっ気があって安定感に欠けるし、タイトルはとれなかったし、チームも下位に沈んでいたけれども、それでもファンは僕を必要だ、チームに来てくれてありがとうと言ってくれた。
 野次や中傷もたくさん聞こえたけど、それを気にする余裕もないほど、必死だったし、夢中だった。夢舞台に自分が立っている現実を、飲み込むのに必死だったのかもしれない。とにかく、必死だった。

 その年のオフ、社会人野球に入っていたダンバラが、チームに加入してきた。
 お前の後輩なんて気持ち悪いな、などと軽口を叩いてきたが、プロの、しかも同じチームに入れたことはお互いにとってこの上ない喜びだった。

 変わらずポ球で活躍していたカエデは、お前たちだけ同じチームなんてずるいぞ、俺も入れろよ、などと言ってきた。
 そっちで優勝したらこっちに来いよ、球拾いでな、などとダンバラが言い、三人で笑い合った。


 オフにもうひとつの再会があった。
 久しぶりに地元に戻って、昔とてもお世話になったダンバラのお父さんのところへ行った時のことだ。
 相変わらずポケモンがたくさんいるその建物に、僕もとてもよく知っている顔があった。
 僕と同じ特携で、僕の二つ下だった、ポケモンがとても苦手だった、ポケモンを見てパニックを起こしていた、マイちゃんだ。

 マイちゃんは今、大学に行きながらダンバラのお父さんのやっている施設で働いているのだと言った。

「ポケモンには、まだ苦手意識はあるの。でも、だから余計にかな。トレーナーの人には、自分のポケモンも、子供も、大事にしてもらいたいなって。そのために、私からちょっとずつ歩み寄ってみようかな、って」

 小さな頃ポケモンを怖がってパニックを起こしていたマイちゃんが、まだ少しぎこちない様子ではあったけど、捨てられたポケモンを撫でてあやしている姿は、僕にとっては何だか不思議で、でもなぜか少しだけ嬉しかった。



 そして、僕にとって二回目のシーズンが幕を開けた。
 ダンバラは開幕から三塁サードのレギュラーに定着した。僕より後のプロ入りだったけど、元々僕より断然センスがある。早々に攻守で活躍し、あっという間に人気者になった。
 僕はというと、二年目のジンクスとかいうのに怯えながら、それを振り払うように必死で投げた。抑えとして、チームの最後の砦として、歯を食いしばって投げ続けた。


 前半戦が終わりに差し掛かったある夜、ヤマブキドームでのビジターの試合が終わった後のことだ。
 ホテルでようやく一息ついていると、携帯電話が振動した。
 画面を見るとカエデだった。シーズン中に電話をかけてくるのは珍しかったので、少し驚いた。
 電話に出ると、カエデはいつも通りの明るい元気な声で話しかけてきた。

「よー、おつかれ! 今日ヤマブキドーム行ったぜ! やったなショウリ! ナイスセーブ!」
「何だ、来てたのか。試合前に言ってくれればよかったのに」
「悪い悪い。急に思い立ったから。近所の子と一緒にビジター席行ってたんだ」

 近所の子? と聞き返すと、カエデの家のはす向かいに家を構えている、トレーナー夫婦の子供らしい。
 めっちゃかわいいんだぜトウカちゃん、とまるで姪っ子でも紹介するような浮かれた声でカエデが言う。
 そうかいそうかい、と半ば聞き流すように聞いていると、カエデは少しの間黙って、落ち着いたトーンの、しかし優しさのこもった声で言った。

「あの子、お前に何か似てるからさ。両親トレーナーで、おうちにひとりぼっちさ」

 少し沈黙して、そうか、と小さく答えた。ほんのり沈んだ空気を吹き飛ばすように、電話の向こうでカエデが笑った。

「まあお前と違って、あの子はポケモン大好きでトレーナー志望みたいだけど!」
「……楽しんでもらえたか?」
「かなり気に入ってたと思うぜ! ま、あの子はお前じゃなくってキリちゃんに一目惚れしちまったみたいだけど」

 何だそれ、と笑うと、カエデも電話の向こうで大声で笑った。

「やー、俺が引っ越す前にトウカちゃんに野球を教えられて良かったなー。トウカちゃんだったら絶対野球好きになってくれると思ってたんだよなー」
「……なあ」
「ん?」
「何で、『ポ球』じゃなくて『野球』なんだ? お前……ポ球の選手なのに」

 僕がそう聞くと、カエデはしばらく悩んでいるようなうなり声を上げて、俺は専門家じゃないから確証は持てないんだけど、と前置きしてからしゃべり始めた。

「トウカちゃんはさ、人を見る子なんだよね。バトルを観戦する時も、ポケモン以上にトレーナーを見てる。

 ……無意識に、親を、追いかけてると思うんだ。トウカちゃんの両親はさ、それなりに実力のあるトレーナーなんだよ。テレビにも時々出てる。
 トウカちゃんは小さい頃から……いや、今も充分小さいんだけど。もっと小さい頃から、親のバトルを見るのが大好きでさ。テレビに映る親の姿を、いつも必死に見てたんだ。録画もして何度もな。
 ……寂しかったんだと思う。家ではいつもひとりぼっち。一番身近な親って存在は、テレビに映ってるトレーナー。

 そうやってるうちに、バトルを観る時トレーナーの方を観る癖がついちゃったんだろうな。
 トウカちゃんはトレーナーになりたいって言ってるんだけど、それはあんまりよくない。トレーナーとしてはポケモンを見ないといけないし。トウカちゃんにとっても、ポケモンにとっても、他の人たちにとっても良くないと思った。

 ……少しポケモンから離れられる時間があった方がいいと思ったんだ。今のままだと、ポケモンも、人間も、全部嫌いになっちゃいそうだと思ったんだよね。
 だから野球にした。トウカちゃんは人を見る子だから、野球に没頭できる子だと思ったんだ」

 少なくないんだよ、こういう子たちって、とカエデは言った。僕が神妙に聞き入っていると、まあそういうわけで、と急に明るい声になった。

「何だ、これからの人生のちょっとした息抜きになればと思ったんだけど……思った以上にトウカちゃんが野球にはまってさ。さすがに俺も予想外。ありゃ熱狂的ファンになる素質があるぜ、間違いなく」
「お、おう、そうか」

 そう言ってからからと笑い、あ、そうだ、とカエデが思い出したように付け加えた。

「俺、結婚するわ」
「は?」
「ほら、もうすぐ前半戦終わってオールスターじゃん? 俺今年出ないし、その間に婚姻届出そうかと思って。あと引っ越しする。今の家、単身用だから狭くってさ。で、シーズン終わったら式あげるんだ」
「お、おお、そうか。何というか、それついでに言うことじゃないだろ。おめでとう」
「さんきゅー。式にはお前もキリちゃんも呼ぶから絶対来いよな! 良い席用意すっから。来賓の」

 やめろよそれ絶対お前のチームのお偉いさん方に囲まれるところだろ、と僕が言うと、カエデはまた愉快そうに笑った。
 それじゃ、お互い優勝目指して頑張ろうぜ、とカエデが言い、会話は終わった。



 シーズンは、もう数試合で終わるという頃だった。
 とうに優勝チームは決まり、順位もほぼ確定していて、僕のチームは変わらず下位を低迷していて、いや変わらずそれじゃいけないんだけど、まあとにかく消化試合真っ只中だった。

 その日はビジターの試合で、三連戦の最終戦で、僕はいつも通りブルペンで肩を作っていた。
 試合開始まであと四時間少々といった頃合いだった。

 ショウリ! と真っ青な顔のダンバラが走ってきた。右手に携帯電話を握りしめている。
 普段野手がブルペンに来ることはほとんどないので、投手陣もブルペンキャッチャーたちも驚いた。
 普段飄々としているダンバラには珍しく、ひどく狼狽えている様子だった。ダンバラはぜえぜえと苦しげに息を整えてから、震えた声で言った。

「ショウリ、カエデが、カエデが……」
「キリ、落ち着け。どうした? カエデが、どうしたんだ?」

 ダンバラは何回か咳きこんで、泣きそうな顔でこっちを見上げて、言った。

「カエデが、ポ球の試合中に……か、顔に、顔に、投球が……」

 凍りつくような寒気が背骨に落ちてきた。ダンバラはまた咳きこみ、車で三十分の総合病院に、と震えて言った。
 息がつまりそうになりながら目線を動かすと、投手コーチが暗い顔で、行ってこい、と僕とダンバラの背を押した。
 僕とダンバラは促されるまま、練習場の外へ駆けだした。


 タクシーを拾い、全速力で飛ばしてもらって病院へ着いた。
 周りの人たちがユニフォーム姿のこちらを訝しげな目で見るのも構わず、病室へ駆けこんだ。

 病室には医者と看護師と、ポ球の監督らしきユニフォームを着た人と、カエデの奥さんがいた。
 カエデの奥さんはこちらを見て、顔にハンカチを当てて声を上げて泣いていた。
 アルコールや薬品のにおいと、鉄っぽいにおいが漂っていた。

 ベッドの上には、真っ白なシーツに包まれ、顔に白い布をかけられたカエデが、何も言わず、何も動かず、静かに横たわっていた。

「カエ……デ……」

 ふらふらとベッドの近くへ行き、顔に乗せられた白い布に手をかける。
 見ない方が、と医者が慌てて制止するが、それを振り切って布をはいだ。途端、息が止まった。

 カエデの頭には顔がなかった。
 首から上がはじけ飛んだように、血と骨と組織がぐちゃぐちゃになった赤黒い肉の塊がむき出しになっていた。

 すぐに布を戻すことも出来ず、僕はただ呆然と固まっていた。
 ダンバラの嘔吐く声と、カエデの奥さんの嗚咽が後ろから聞こえてきた。
 医者がそっと僕の手から布をとり、カエデの顔があった場所にかぶせた。

 僕もダンバラも、何も言えず、動けなかった。
 意味がわからなかった。何だこれ、何だこれ、という言葉だけが頭の中で何度も何度も繰り返された。



 気がついたら、モミジの街に戻っていた。
 ビジター三連戦の最終戦だったはずだけど、いつの間にか三日が経っていた。
 その間何をしたかは全く覚えていなかったけれど、マウンドに立っていないのは確かだった。新聞を見ると大差でうちが負けていたから、たまたま登板機会がなかったのだろう。

 葬式に出たかもしれないし、出なかったかもしれない。何も覚えていない。
 ただ何となく覚えているのは、医者だったかポ球の監督だったか、その辺から聞いた、カエデの「事故」の話。

 緩く上がったキャッチャーフライを追いかけて、カエデは試合中ずっとしているはずのキャッチャーマスクを外して追いかけた。
 気が緩んだのか戻したつもりになっていたのか、たまたまそのマスクを戻すのを忘れ、たまたま誰も指摘しなかった。
 そしてそこに偶然、狙いを外した剛速球が襲いかかってきた。
 偶然。たまたま。少し気が緩んだから。カエデの「事故」はそんな言葉と一緒に語られた。


 今週はビジターとホームの試合の間には二日の空きがあったはずだから、今日はホームで試合のある日。今日が試合で、明日は休み。二日休んで、もう二戦。それで、今シーズンは終わり。
 頭では理解できているのだが、身体の中が空っぽになったようで、真っ白だった。

 それでも、僕はプロの選手だから。野球をやらないと。
 空虚な身体を動かして、いつも通りの時間に、いつも通りの準備をして、いつも通り球場へ向かった。


 普段通りストレッチをして、ランニングをして、身体をほぐす。チームメイトが大丈夫か? と声をかけてくる。
 僕は曖昧にうなずく。本当に大丈夫かよ、顔が青白いぞ、とチームメイトが心配そうな顔を向けてくる。
 視界の端にダンバラが映る。口を真一文字に結んで、黙々とアップを続けている。僕はそれを見て、大丈夫、と小さな声で言った。

 練習場の真ん中のブルペンに立つ。ブルペンキャッチャーが準備オーケーと手を振ってくる。
 球を握り、投球準備に入ろうとする。


 足が震えた。抑えようにも抑えられない。身体が硬直して動けない。背骨が氷漬けになったように冷たい。
 モト、どうした? というブルペンキャッチャーの声が聞こえる。
 返事をしようにも声が出ない。あ、あ、と喉の奥から潰れたようなような音を漏らすのがやっとだ。

『大丈夫大丈夫、俺のところめがけて思いっきり放ればそれでいいから!』

 俺のところにめがけて、思いっきり。思いっきり。頭の中で、カエデの声が反響する。
 額から流れてきた汗が半開きの唇に触れる。薄い塩味。辺りに漂う鉄のにおい。内臓の上下が反転したように、体の中がぐるぐると渦を巻く。立っていられない。口の中いっぱいに酸味と生臭さが広がった。
 「モトさん!」「モト!」と周りから叫び声がする。
 ぼとり、と白球が地面に落ちた。



 気がつくと、医務室のベッドで横になっていた。
 一瞬、顔に白い布がかかっているような気がして、顔面蒼白で飛び起きた。布はなかった。心臓が早鐘を打っている。

 モト、起きたか、と監督が声をかけてきた。
 投球練習が始まった直後、ブルペンで突然もどして気絶したのだと。散々心配をかけてしまったらしい。
 申し訳ありません、と頭を下げた。虚ろな顔の僕を見て、監督はため息交じりに静かに告げた。

「お前の登録、抹消したぞ」

 黙ってうなずくしかなかった。
 投げられないピッチャーに存在価値などない。僕はもう、キャッチャーに向けてボールを投げられないのだ。

 僕はもう、野球ができない。
 そんな絶望感が、僕の空虚な身体の中に詰まっていた。
 監督はまた小さくため息をついて、指折り数えながら言った。

「うちの残り試合が三つ、シーズン終わりまで五日間。まあ、周りより少し早めにオフ入ったと思え」

 僕が間の抜けた顔を上げると、監督は僕の意に反して、少し困ったように笑っていた。
 しっかり休んでリフレッシュしろよ、と言って、監督は部屋を出て行こうとした。
 ああそれから、と監督はドアから首だけ出して追加の言葉を投げてきた。

「秋季練習はちゃんと遅刻せずに来るんだぞ。お前が抜けたらうちのクローザー壊滅なんだからな」

 逃げないように釘を刺して、監督は部屋を出て行った。



 秋季練習が始まった。
 大勢の仲間たちと一緒に、走りこみやらウェイトやら練習メニューをこなす。

 ただ、ボールを投げようとすると、体が震えて投げられなかった。
 事情を把握しているコーチや仲間たちが声をかけてくれたけど、ボールを投げる、という行動を取ろうとするとどうしても体の震えと吐き気が抑えられなかった。
 ダンバラも何度も、しっかりしろと檄を飛ばしてきた。僕と同じようにショックを受けたはずのダンバラが立ち直っているのに、いつまでも先へ進めない自分が情けなかった。


 秋季キャンプが始まっても、ボールを投げることはできないままだった。
 マスコミにはシーズン末にケガをしてノースロートレーニング中っていうことに球団がしてくれて、世間で騒がれることはなかったけれども。


 その日もとうとう、ボールを投げられなかった。
 モト、とバッテリーコーチが手招きしてきた。顔面蒼白なままそちらへ行くと、バッテリーコーチも何やら戸惑っているような表情で練習場の入口を指差した。

「お客さんだ」

 緑色のネットの向こうに、スーツを着込んだ、ガタイのいい男性が立っていた。
 角の立ったスーツに眼鏡。一見一流企業のビジネスマンのような姿だが、その場にいる全員がその人物を知っていた。
 その人が、このマジカープのキャンプ地に来るのは明らかにおかしい人物であるということも。

「アオヤマ……さん?」

 スーツの男性はやあ、と片手を上げて爽やかな笑顔を僕に向けてきた。
 青山アオヤマ捕手。タマムシスウェローズのベテラン正捕手だ。

 ホンカワ君ちょっとお借りしますね、と、アオヤマさんは半ば強引に僕を練習場から連れ出していった。
 練習場裏手の誰もいない芝生の広場に連れてこられた。
 ひたすら困惑している僕に、アオヤマさんはまあ堅くならないで、と無茶な注文をしてきた。

「今日はタマムシスウェローズのキャッチャーじゃなくって、プロ野球選手会会長のアオヤマとして話をしにきたんだ」

 選手会、ですか、と僕は首をひねりながら言った。
 選手会とは要するにプロ野球選手の労働組合みたいなものだ。僕ももちろん入っていて、アオヤマさんは現在その会長をしている。
 本来は僕から頼むことでもないんだけど、と前置きして、アオヤマさんは言った。

「ホンカワ君。君に、選手会の役員になってもらいたいんだ」

 突然の申し出に、僕は呆気にとられた。
 だって、僕は入団してたった二年の若造である。しかも、正直言って野球を出来る状態じゃない。この秋季キャンプが終わってから、チームに残っている保証は僕にはないのだ。
 アオヤマさんは僕の様子を見て、少し言い淀んでから小さな声で言ってきた。

「あんまりこういうこと言うべきじゃないんだろうけど……ホンカワ君、『特携』出身だよね?」

 あまりにもアオヤマさんが申し訳なさそうな顔で言うので、僕はちょっとおかしくなって、そうですよ、と笑って言った。生まれてからもうずっと言われ慣れてるし、アオヤマさんが僕を傷つける意図で触れたわけではないことはわかりきっていた。
 僕の様子にアオヤマさんも軽く苦笑いして、そしてまた深刻な表情に戻った。
 アオヤマさんは顔を上げ、周囲を注意深く見まわした。誰の気配も感じなかった様子だったが、変わらず警戒した顔で、低い声で囁いてきた。

「先に言っておくけど、これはまだどこも正式な発表はしていないし、決まったことじゃない。真偽不明だ。もしかしたら――僕がそうなってほしいっていうのもあるけど――単なる杞憂に終わるかもしれない。だから、事が動くまで……君が役員に入ろうとも、そうでなくても、絶対に誰にも言わないでほしい」

 僕が頷いたのを確認して、アオヤマさんは更に小さな声で、でも僕にははっきりと聞こえるように、言った。

「『ポ球』と『野球』の協会に合併の動きがあるんだ」

 えっ、と僕は思わず声を上げた。アオヤマさんはすぐに人差し指を口にあてた。僕は慌てて手で口を塞いだ。
 アオヤマさんがまた周囲を見回し、話を続けた。

「もちろん、平等に合併、なんて事があるわけない。似てはいるけど別競技だからね。実質、ポ球による野球リーグの吸収。つまりこの状況を野放しにしておいた先にあるのは……プロ野球の消滅だ」
「な……」
「もちろん、野球の選手会としては手放しに認めることはできない。今入っている情報が真実なら、計画されているのは二リーグ十二球団制。今現在ポ球は六球団、野球が十二球団。合併したら今の野球選手の半分は路頭に迷うことになる。それに、いろんな事情がある。ポ球をやりたくてもできない人だっているしね」

 だけど、とアオヤマさんは眉間にしわを寄せて首を振った。

「実際問題として、野球の運営が限界なのは確かなんだ。いや、もうとっくに限界を突破してるんだろうね。行き詰まってるんだ。随分前から、球団の削減が提案されてきた。選手の年俸も、本当はもっと高くなっていいはずなんだ。
 僕が球界に入った頃はまだポ球はなかった。あの頃と今を比べると、本当にひどいよ。今の優勝争いのような大事な試合より、僕がルーキーの頃の消化試合の方がよっぽどお客さんがいた。
 客が入らない今の状態で興行と言えるのか、っていう声も確かにあるんだよ。見る人がいてのプロスポーツ。僕たちのプレーを見て、お金を払ってくれる人がいるからこそ、仕事として成り立ってるわけだ」

 そういう意味では君たちの球団がうらやましいよ、とアオヤマさんは自嘲気味に言った。あそこまで「野球」が文化としてそこまで根付いている場所も珍しいから、と。

「でも、その……ポ球は人気だから、わざわざ合併してもあちらに利はないんじゃないですか?」
「うん、僕もそう思ってた。でも、ポ球の方も、順調とはいかないみたいなんだ」

 アオヤマさんは、暗い顔で首を振った。

「この前……ポ球の方で、事故があっただろう」

 ぞわり、と肌が粟立った。

「あの影響がかなりあるみたいなんだ。何せ試合中だったし、中継もされてたからね。ポケモンの愛護団体とか、トレーナー制度に反対してる人とか、そういう人たちの声が大きくなってるみたいでね。まあ要するに、こういう言い方するのはよくないけど、野球を取り込むことでそれに付随してくるファンや影響力を取り込もうってわけだ。地盤固めってわけだね」

 何もないところに手を出すより、似た競技が根付いてる下地があった方が楽だからね、とアオヤマさんはため息交じりに言った。

「僕個人としては、合併には反対だ。でも、『プロ』として仕事をしたい、という気持ちもわからなくもない。僕は選手会長として、いろんな視点からの話を聞きたい。だから、君にも協力してほしいんだ。きっと君が球界で一番、ポケモンと人の関わりを客観的に見ている選手だから」

 そういうわけだよ、とアオヤマさんは僕の方を見て、もう一度ため息をついた。
 空気が冷えていくような感覚を覚えて、僕はぶるりと体を震わせた。アルコールと鉄の混ざったようなにおいがした気がした。
 怒りとも、恨みともつかない真っ黒な感情が、足下からふつふつと沸き立っているようだった。

「ポケモンはいつでも、大事なものを奪っていく。最初は家族。家も、大会も、親友まで奪って……野球まで、僕から取り上げようっていうのか」

 アオヤマさんは驚いた顔をして、君が彼の、と言いかけて言葉を切り、納得したようにゆっくりとうなずいた。

 しばしの沈黙の後、アオヤマさんは突然立ち上がった。
 僕にも立つように促すと、アオヤマさんはくるりと踵を返し、僕から四、五メートルほど距離をとった。
 僕が困惑していると、アオヤマさんはブリーフケースの中から、緑色の小さなゴムボールを取り出した。

 アオヤマさんはそのボールを下手で放ってきた。僕が慌ててキャッチすると、投げ返してこい、と言うように手の平をこちらに向けて来た。
 ぶわっと全身から冷や汗が吹き出した。戸惑っていると、早く、という感じで、右手の平をこちらに向けたまま左手で招いてきた。笑顔で。
 僕は体が震えて拒否したかったけど、僕より十年以上長くこの世界にいる、球界を代表するベテランキャッチャーの無言の圧力は恐怖をさらに上回った。
 おそるおそる投げたボールは足元に落ち、小さく数回バウンドして明後日の方向へ力無く転がった。
 アオヤマさんは笑って、転がったボールを拾いに行った。

「君と初めて対戦した時、とんでもないピッチャーが出てきたなって思ったな」

 アオヤマさんはそう言いながら、今度は上手で放ってきた。

「打席に入って、初球はフォークだったかな。あんまり曲がるから消えたかと思った」
「……そんなこと言って、アオヤマさん、三球目のストレートをあっさりバックスクリーンへ運んでくれたじゃないですか。サヨナラスリーラン」
「お、さすがに覚えてたか」
「当たり前じゃないですか。それ、僕のプロ入り初被弾ですよ。クローザー転向してからの初黒星でもあります」
「あー、そりゃ覚えてるか。ま、新人にプロの厳しさを教えるのがベテランの仕事だしな」

 笑いながら、ボールを放ってくる。僕もぎこちなくボールを返す。
 アオヤマさんは一呼吸置いてから、さっきまでより少し落ち着いた、どことなく優しい声で言った。

「オオタ君はね、ポ球の方で選手会の役員をやっていたんだよ」
「カエデが?」
「そう。だから僕も何度か会ったよ。彼はいつも言ってた。僕たちはポケモンと共にいるけど、人を蔑ろにしちゃいけない。僕はポケモンが大好きだから、ポケモンによって傷つけられる人を少しでも減らしたいんだ、って。若いけど立派な人だったよ」

 親友の影響だって言ってたよ、ホンカワ君のことだったんだね、とアオヤマさんは微笑んだ。優しい奴なんです、と僕は言った。心臓がぎゅっと締め付けられたように痛くなった。
 ぽん、ぽん、と、ゴムボールのキャッチボールはだんだんテンポがよくなっている。

「ねえ、」

 アオヤマさんは、少し勢いの強い球を僕に投げた。受け止めると、ぱしっと高い音がした。

「ホンカワ君は、何で野球をやってるんだい?」
「何で、って……」
「ポケモンが嫌いだから? トレーナーが憎いから?」

 ゴムボールを持ったまま、立ち尽くす。
 ポケモンが嫌い。トレーナーが憎い。その気持ちは、ないとはいえない。

 でも、違う。

「僕は……」

 違う。違う。もっと単純だったはずだ。

 もし、僕が「特別」じゃなかったら。何度も考えたことがある。
 僕はポケモンと一緒にいただろうか。トレーナーに憧れたかもしれない。旅に出たりもしたのだろうか。

 それでも、どんなに想像を巡らせても、僕は「野球」をやっていた。
 僕は「野球」を選んでいた。選択肢は無限にあるのに、僕が選ぶのは「野球」だった。

 アオヤマさんは少しずつ後ずさりしている。僕たちの距離はもう十メートル以上開いていた。

「僕は……!」

 アオヤマさんが屈んだ。僕は大きく腕を振りかぶった。


「僕は!! 野球が!! 大好きだからですよ!!」


 バチン! と大きな音がして、アオヤマさんの手の中にゴムボールが納まった。
 僕は空になった自分の右手を見て、自分のことなのにポカンとしていた。もちろん硬球ほどのスピードは出ないけれど、それでもそれなりの速球を、人に向けて投げた。ひと月以上ぶりだった。
 アオヤマさんは笑いながらゴムボールを軽く投げてはキャッチして、ナイスボール、と僕に言ってきた。

「さてと、君にするべき話は全部終わったし、僕はそろそろタマムシに戻るかな。……あとは、チームメイトに任せるよ」

 そう言って、アオヤマさんは笑いながら練習場の方を指さした。その先を目で追うと、壁に隠れながらこちらをうかがっている、ダンバラをはじめとしたチームメイトがいた。
 僕の視線が向いたことに気がつくと、ダンバラを先頭に、チームメイトたちがものすごい勢いで僕に向かってダッシュして襲いかかってきた。

「てめーショウリこのやろー! 何アオヤマさんに投げられるようにしてもらってんだこの馬鹿! そこは俺たちの仕事だろうがこのやろー!」

 このやろー! よかったな! おめでとう! と意地悪そうに笑うチームメイトたちにもみくちゃにされる。
 数人がかりで頭をぐりぐりと撫でられながら、アオヤマさんが背を向けて手を振りながら去って行くのが見えた。



 その日、都心に初雪が降った。平年より二週間早いと、テレビで気象予報士が言っていた。

 カエデがいなくなったあの日以来初めて顔を合わせたカエデの奥さんは、僕が家に来てくれたことをとても歓迎してくれた。
 ずいぶんと待たせてしまったことを詫びると、カエデの奥さんは首を振って、来てくれただけで十分です、と言った。

 引っ越したばかりだった新しい家には仏壇もなく、リビングに置かれた白い布がかけられた棚の上に、カエデの写真とキャッチャーミットと、僕の故郷の名物である紅葉の形をした饅頭が置いてあった。
 カエデ、未だにこれ好きだったんだ、と僕がつぶやくと、しかもこしあん限定でね、と奥さんが笑いながら返してきた。
 それならよかった、と言って僕が鞄から同じ饅頭を取り出すと、奥さんは驚いた顔をして、また笑った。

 しばらく無言でカエデの遺影と見つめ合っていたら、お茶をどうぞ、とカエデの奥さんに声をかけられた。
 ダイニングテーブルで向かい合わせに座り、他愛もない話をする。
 カエデと奥さんは高校のポ球部時代の選手とマネージャーだったらしく、付き合いはそれなりに長かったようだ。
 こんなことならもっと早く籍を入れればよかった、とぽつりつぶやいた。

 昔話にしばし花を咲かせたあと、一息ついて、カエデの奥さんは、僕に封筒を差し出してきた。

「あの人は結婚前から、万が一何かあったときのためにって、時々手紙を書いていたんです。シーズンが始まる前には必ず。書くのはいつも三通。ひとつは親に、ひとつは私に、そしてもうひとつは、ホンカワさんに」

 真っ白な封筒。見慣れたカエデの字で、大きく『勝鯉へ』と書いてあった。隅にあの電話を受けた日の日付が書いてあった。
 封筒を開くと、シンプルな白い便箋に、何度も書き直した様子のある文章が綴られていた。




 お前がこれを読んでるってことは、多分俺はもうそこにいないんだろうな。こんな書き始め漫画とか映画でよく見るけど、何か変な感じだな。まあいいか。
 自分が身を置いている世界がとてつもなく危ないことは、理解してるつもりだ。だから何かあった時のために、これを残しておく。
 願わくば、今回も必要なくなってゴミ箱に捨てることができますように。


 本当にごめん。俺、お前との約束全然守れなかった。
 プロ野球選手にもなれなかったし、優勝もできなかったし、結婚式にも呼べなかったな。

 今だから本音書くけど、俺、最初お前に会ったとき、本当にびっくりしたんだ。
 俺の周りにポケモン嫌いな人なんていなかったし、トレーナーのせいでひどい目に遭っている人がいるって言うのも、全然意識したことなかったから。
 正直、小さい頃からずっと決めていたトレーナーの道を辞めたの、お前に会ったからなんだ。

 約束守れなかった俺が言うことじゃないんだけど、最後にひとつ、我が儘を聞いてくれないか。

 ポケモンのこと嫌いになっても、ポ球のことが嫌いになっても、トレーナーを憎んでもいい。
 だけど、頼む。

 ポケモンのことを、恨まないでやってくれ。

 俺はお前やキリちゃんみたいにはなれなくって、自分だけの力じゃどうしても、もうひとつの夢の野球選手にはなれなかった。
 ポケモンの力を借りないと、俺は絶対プロになれなかった。同じフィールドに立つこともできなかった。
 プロになってお前やキリちゃんと再会できたのも、ポケモンがいたからなんだ。

 ごめんな。お前にとって、ものすごく酷なこと言ってるよな。絶交されてもしょうがないよな。もう読むの止めて捨ててるかな。

 でも俺、お前と友達になれて本当によかった。

 ポケモンのこと好きじゃないのに、トレーナーのことも好きじゃないのに、俺と友達になってくれて嬉しかった。
 約束守れなかったのに、ポケモンと一緒にいることを選んだのに、プロになったのを喜んでくれたのが嬉しかった。
 あの頃の約束を覚えてくれてて、俺と同じ背番号にしてくれたの、本当に嬉しかった。

 俺はもうそこにはいないけど、お前の投げる時は、勝手に球場のホームベースあたりにいていいかな。
 お前がいつか胴上げされるの、俺、待ってるから。

 大丈夫大丈夫、俺のところめがけて思いっきり放ればそれでいいから。


一番大事な俺の親友へ  太田 楓




 最後の方は、もう読めなかった。
 破り捨てたからじゃない。零れた滴で、インクが滲んだからだ。

 飲み込めなかった現実に、目を逸らしていた事実に、ようやく向き合ったのかもしれない。
 カエデがいなくなって、呆然として、恨んで、憎んで、怒って、苦しんで、逃げて、困惑して、何とか向き合って、受け止めて、そうしてやっと悲しいと思えるようになった。
 そうしたら涙が零れてきた。あの日からずっと、泣いていなかったことに初めて気がついた。

 自分の中で止まっていた時が、ようやく動き出したような気がした。



 僕は、ポケモンにいろいろなものを奪われた。
 生まれてすぐに、親と家を。「普通」の感受性と生活を。日常を奪われた。大会を奪われた。
 一番大事な親友を奪われ、「野球」そのものまで奪われそうになった。

 だけど。ポケモンがいたからトレーナーである顔も知らない僕の両親は出会い、僕が生まれ、ポケモンのおかげで野球をやることができ、ポケモンがいたから僕は親友と出会い、その親友はポケモンがいたからこそプロになり、同じ背番号を背負えた。
 ポケモンがいたから野球ファンは改めて球界の在り方を見直せたし、そして改めて、僕はこの競技を心の底から愛しているのだと気づいた。

 「特別」だったから、ポケモン中心のこの世界から少しだけ距離を置いて、物事を見られた。
 傷つけられて、何もかもなるべく関わりたくないと思う特携の仲間たちみたいな人。
 ポケモンもトレーナーも好きなカエデみたいな人。
 ポケモンは好きだけどトレーナーが嫌いなダンバラみたいな人。
 ポケモンは苦手だけど、自分みたいな人を減らすため歩み寄ろうとするマイちゃんみたいな人。
 トレーナーの親に放置されているような状態でも、それでもトレーナーになりたいカエデの知り合いの女の子みたいな人。
 ポケモンやトレーナーとの関わりは多種多様で、存在していいか駄目かの単純な二元論じゃない。
 禍福は糾える縄の如し。僕の人生に無駄なものはなく、疎んでいたものもまた僕を構成する要素のひとつ。

 であるならば、僕自身がポケモンやトレーナーを憎むとか、嫌うとか、そういうことは僕の判断とは無関係だ。
 憎いからじゃない。嫌いだからじゃない。自分が、不利益を被ってきたからじゃない。


 僕が野球を消滅させたくないのは、僕が「野球」を愛しているから。
 理由はそれだけ。ただ、それだけだ。



 必死で戦った選手会長のアオヤマさんのおかげもあって、野球は消えなかった。
 ホンカワ君のおかげだよと言ってくれたけど、僕の力なんて何もない。

 ファンも選手も、野球が好きだと声を張り上げてくれたからだ。
 声を上げてくれたから、人の心を動かせた。


 人に影響を一番与えるのは、人だと信じている。

 遠い日に見た、緋色の服のヒーローたちのように。



 いろいろなことがあった。良いことも悪いことも、山ほどあった。

 相変わらずむらっ気はあったけど、セーブ数は積み重ねていた。年間のセーブ数でリーグトップになったことも何回かあった。

 カエデの奥さんは、あれから二年経って、どういうわけか何とダンバラと再婚した。
 理由は「生命力が無駄に強そうでこの人は死にそうにないと思った」だそうだ。その点に関しては全力で太鼓判を押しておいた。


 気がつけば僕たちは中堅を過ぎて、ベテランと呼ばれはじめるようになった。
 肘と肩を壊して、一軍の試合に出られない時期が二年くらい続いた。無理して投げすぎだと言われた。
 昔ほどの速球が投げられなくなって、フォームも配球も変えた。
 休んでいる間に抑えクローザーは替わって、中継ぎセットアッパーやワンポイントに転換された。

 不調になっても、けがをしても、僕は諦めなかった。
 かっこ悪くても、見苦しくても、チャンスがあればしがみついた。
 野次られても、誤解されても、歯を食いしばって前を向いた。


 僕は主人公でなければならない。マウンドの一番高いところ、そこから永遠に退場するまでは。

 未だ成しえていない、幼い日の約束を果たすために。
 夢半ばで倒れた、同じ番号を背負っていた親友の夢を叶えるために。







 開幕戦の熱気があふれる球場。
 ストーブリーグを耐え、球春を迎え、オープン戦で育てた期待と喜びが、照明に照らされた赤い球場で爆発している。

 ブルペンの電話が鳴る。コーチが少しだけ応対した後、僕を呼び、受話器を押しつけてきた。
 促されるまま耳を当てる。モト、と監督が声をかけてきた。

「行けるな?」

 最終回。点差は一点。久しく立たなかった、守護神クローザーのマウンド。
 僕は一度唾液を呑み込み、はっきりと答えた。

「はい!」

 僕の答えに、監督が受話器の向こうで満足そうに、よし、と言うのが聞こえた。


 ブルペンで軽くボールを投げ、通路を小走りでベンチ裏へ向かう。
 ベンチ裏からグラウンドを見る。赤いランプが三つ点灯する。見事な空振り三振を喫したナガレカワが悔しそうな表情でベンチへ下がってくるのが見えた。

 小心者の心臓が早鐘を打つ。無意識に、右手が胸を押さえる。
 弱気がほんの少し、心の隅に顔を出す。スタンドの空気に呑まれてしまいそうだ。

 モトさん、と声がかかる。
 ベンチ前で声を上げていた、八回を投げ抜いた剛腕エースが、握った右手をこちらに向ける。おう、と小さく頷いて、グローブでその手に軽くタッチする。
 僕の後ろを守る仲間達がベンチから飛び出していく。一塁線を超えた幼馴染が、こっちへ笑顔を向けて招くように手を挙げた。こちらも、自然と笑みが顔に浮かぶ。


 季節外れの夕凪を閉じ込めた、緋色のスタジアム。
 暗い空に吸い込まれていく金管楽器の華やかな音。空気を震わせる太鼓の響き。相手チームを鼓舞するファンの歓声。熱気とうねりが渦を巻いている。

 春の夜、月はなし。カクテル光線に照らされたグラウンド。
 三時間の熱闘によって掘り返され傷ついた、一番高いところへ走っていく。歓声と拍手が耳に入る。

 夢舞台の上で、目を閉じて少し俯き、右手で胸を軽く叩き、僕は祈る。
 この場所に立てる喜び。野球の神様と、亡き親友への感謝。

 孤独なマウンドで、熱く強烈な緋色の声援が、やわらかく体を包み込む。
 熱気を纏った空気を吸い込み、大きく息を吐く。小さく耳鳴りがする。顔を出しかけていた弱気はかき消され、鼓動の高なりはもう落ち着いている。

 白球を右手の指二本で挟むように握り、腕を振りかぶる。
 ウグイス嬢の声が、満員のスタジアムにこだました。



「マジカープ、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、モトマチに代わりまして、ホンカワ。ピッチャー、ホンカワ ショウリ。背番号、90――」







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