9−10:背番号90




 いろいろなことがあった。良いことも悪いことも、山ほどあった。

 相変わらずむらっ気はあったけど、セーブ数は積み重ねていた。年間のセーブ数でリーグトップになったことも何回かあった。

 カエデの奥さんは、あれから二年経って、どういうわけか何とダンバラと再婚した。
 理由は「生命力が無駄に強そうでこの人は死にそうにないと思った」だそうだ。その点に関しては全力で太鼓判を押しておいた。


 気がつけば僕たちは中堅を過ぎて、ベテランと呼ばれはじめるようになった。
 肘と肩を壊して、一軍の試合に出られない時期が二年くらい続いた。無理して投げすぎだと言われた。
 昔ほどの速球が投げられなくなって、フォームも配球も変えた。
 休んでいる間に抑えクローザーは替わって、中継ぎセットアッパーやワンポイントに転換された。

 不調になっても、けがをしても、僕は諦めなかった。
 かっこ悪くても、見苦しくても、チャンスがあればしがみついた。
 野次られても、誤解されても、歯を食いしばって前を向いた。


 僕は主人公でなければならない。マウンドの一番高いところ、そこから永遠に退場するまでは。

 未だ成しえていない、幼い日の約束を果たすために。
 夢半ばで倒れた、同じ番号を背負っていた親友の夢を叶えるために。







 開幕戦の熱気があふれる球場。
 ストーブリーグを耐え、球春を迎え、オープン戦で育てた期待と喜びが、照明に照らされた赤い球場で爆発している。

 ブルペンの電話が鳴る。コーチが少しだけ応対した後、僕を呼び、受話器を押しつけてきた。
 促されるまま耳を当てる。モト、と監督が声をかけてきた。

「行けるな?」

 最終回。点差は一点。久しく立たなかった、守護神クローザーのマウンド。
 僕は一度唾液を呑み込み、はっきりと答えた。

「はい!」

 僕の答えに、監督が受話器の向こうで満足そうに、よし、と言うのが聞こえた。


 ブルペンで軽くボールを投げ、通路を小走りでベンチ裏へ向かう。
 ベンチ裏からグラウンドを見る。赤いランプが三つ点灯する。見事な空振り三振を喫したナガレカワが悔しそうな表情でベンチへ下がってくるのが見えた。

 小心者の心臓が早鐘を打つ。無意識に、右手が胸を押さえる。
 弱気がほんの少し、心の隅に顔を出す。スタンドの空気に呑まれてしまいそうだ。

 モトさん、と声がかかる。
 ベンチ前で声を上げていた、八回を投げ抜いた剛腕エースが、握った右手をこちらに向ける。おう、と小さく頷いて、グローブでその手に軽くタッチする。
 僕の後ろを守る仲間達がベンチから飛び出していく。一塁線を超えた幼馴染が、こっちへ笑顔を向けて招くように手を挙げた。こちらも、自然と笑みが顔に浮かぶ。


 季節外れの夕凪を閉じ込めた、緋色のスタジアム。
 暗い空に吸い込まれていく金管楽器の華やかな音。空気を震わせる太鼓の響き。相手チームを鼓舞するファンの歓声。熱気とうねりが渦を巻いている。

 春の夜、月はなし。カクテル光線に照らされたグラウンド。
 三時間の熱闘によって掘り返され傷ついた、一番高いところへ走っていく。歓声と拍手が耳に入る。

 夢舞台の上で、目を閉じて少し俯き、右手で胸を軽く叩き、僕は祈る。
 この場所に立てる喜び。野球の神様と、亡き親友への感謝。

 孤独なマウンドで、熱く強烈な緋色の声援が、やわらかく体を包み込む。
 熱気を纏った空気を吸い込み、大きく息を吐く。小さく耳鳴りがする。顔を出しかけていた弱気はかき消され、鼓動の高なりはもう落ち着いている。

 白球を右手の指二本で挟むように握り、腕を振りかぶる。
 ウグイス嬢の声が、満員のスタジアムにこだました。



「マジカープ、選手の交代をお知らせします。ピッチャー、モトマチに代わりまして、ホンカワ。ピッチャー、ホンカワ ショウリ。背番号、90――」







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