9−8:「野球」の理由




 秋季練習が始まった。
 大勢の仲間たちと一緒に、走りこみやらウェイトやら練習メニューをこなす。

 ただ、ボールを投げようとすると、体が震えて投げられなかった。
 事情を把握しているコーチや仲間たちが声をかけてくれたけど、ボールを投げる、という行動を取ろうとするとどうしても体の震えと吐き気が抑えられなかった。
 ダンバラも何度も、しっかりしろと檄を飛ばしてきた。僕と同じようにショックを受けたはずのダンバラが立ち直っているのに、いつまでも先へ進めない自分が情けなかった。


 秋季キャンプが始まっても、ボールを投げることはできないままだった。
 マスコミにはシーズン末にケガをしてノースロートレーニング中っていうことに球団がしてくれて、世間で騒がれることはなかったけれども。


 その日もとうとう、ボールを投げられなかった。
 モト、とバッテリーコーチが手招きしてきた。顔面蒼白なままそちらへ行くと、バッテリーコーチも何やら戸惑っているような表情で練習場の入口を指差した。

「お客さんだ」

 緑色のネットの向こうに、スーツを着込んだ、ガタイのいい男性が立っていた。
 角の立ったスーツに眼鏡。一見一流企業のビジネスマンのような姿だが、その場にいる全員がその人物を知っていた。
 その人が、このマジカープのキャンプ地に来るのは明らかにおかしい人物であるということも。

「アオヤマ……さん?」

 スーツの男性はやあ、と片手を上げて爽やかな笑顔を僕に向けてきた。
 青山アオヤマ捕手。タマムシスウェローズのベテラン正捕手だ。

 ホンカワ君ちょっとお借りしますね、と、アオヤマさんは半ば強引に僕を練習場から連れ出していった。
 練習場裏手の誰もいない芝生の広場に連れてこられた。
 ひたすら困惑している僕に、アオヤマさんはまあ堅くならないで、と無茶な注文をしてきた。

「今日はタマムシスウェローズのキャッチャーじゃなくって、プロ野球選手会会長のアオヤマとして話をしにきたんだ」

 選手会、ですか、と僕は首をひねりながら言った。
 選手会とは要するにプロ野球選手の労働組合みたいなものだ。僕ももちろん入っていて、アオヤマさんは現在その会長をしている。
 本来は僕から頼むことでもないんだけど、と前置きして、アオヤマさんは言った。

「ホンカワ君。君に、選手会の役員になってもらいたいんだ」

 突然の申し出に、僕は呆気にとられた。
 だって、僕は入団してたった二年の若造である。しかも、正直言って野球を出来る状態じゃない。この秋季キャンプが終わってから、チームに残っている保証は僕にはないのだ。
 アオヤマさんは僕の様子を見て、少し言い淀んでから小さな声で言ってきた。

「あんまりこういうこと言うべきじゃないんだろうけど……ホンカワ君、『特携』出身だよね?」

 あまりにもアオヤマさんが申し訳なさそうな顔で言うので、僕はちょっとおかしくなって、そうですよ、と笑って言った。生まれてからもうずっと言われ慣れてるし、アオヤマさんが僕を傷つける意図で触れたわけではないことはわかりきっていた。
 僕の様子にアオヤマさんも軽く苦笑いして、そしてまた深刻な表情に戻った。
 アオヤマさんは顔を上げ、周囲を注意深く見まわした。誰の気配も感じなかった様子だったが、変わらず警戒した顔で、低い声で囁いてきた。

「先に言っておくけど、これはまだどこも正式な発表はしていないし、決まったことじゃない。真偽不明だ。もしかしたら――僕がそうなってほしいっていうのもあるけど――単なる杞憂に終わるかもしれない。だから、事が動くまで……君が役員に入ろうとも、そうでなくても、絶対に誰にも言わないでほしい」

 僕が頷いたのを確認して、アオヤマさんは更に小さな声で、でも僕にははっきりと聞こえるように、言った。

「『ポ球』と『野球』の協会に合併の動きがあるんだ」

 えっ、と僕は思わず声を上げた。アオヤマさんはすぐに人差し指を口にあてた。僕は慌てて手で口を塞いだ。
 アオヤマさんがまた周囲を見回し、話を続けた。

「もちろん、平等に合併、なんて事があるわけない。似てはいるけど別競技だからね。実質、ポ球による野球リーグの吸収。つまりこの状況を野放しにしておいた先にあるのは……プロ野球の消滅だ」
「な……」
「もちろん、野球の選手会としては手放しに認めることはできない。今入っている情報が真実なら、計画されているのは二リーグ十二球団制。今現在ポ球は六球団、野球が十二球団。合併したら今の野球選手の半分は路頭に迷うことになる。それに、いろんな事情がある。ポ球をやりたくてもできない人だっているしね」

 だけど、とアオヤマさんは眉間にしわを寄せて首を振った。

「実際問題として、野球の運営が限界なのは確かなんだ。いや、もうとっくに限界を突破してるんだろうね。行き詰まってるんだ。随分前から、球団の削減が提案されてきた。選手の年俸も、本当はもっと高くなっていいはずなんだ。
 僕が球界に入った頃はまだポ球はなかった。あの頃と今を比べると、本当にひどいよ。今の優勝争いのような大事な試合より、僕がルーキーの頃の消化試合の方がよっぽどお客さんがいた。
 客が入らない今の状態で興行と言えるのか、っていう声も確かにあるんだよ。見る人がいてのプロスポーツ。僕たちのプレーを見て、お金を払ってくれる人がいるからこそ、仕事として成り立ってるわけだ」

 そういう意味では君たちの球団がうらやましいよ、とアオヤマさんは自嘲気味に言った。あそこまで「野球」が文化としてそこまで根付いている場所も珍しいから、と。

「でも、その……ポ球は人気だから、わざわざ合併してもあちらに利はないんじゃないですか?」
「うん、僕もそう思ってた。でも、ポ球の方も、順調とはいかないみたいなんだ」

 アオヤマさんは、暗い顔で首を振った。

「この前……ポ球の方で、事故があっただろう」

 ぞわり、と肌が粟立った。

「あの影響がかなりあるみたいなんだ。何せ試合中だったし、中継もされてたからね。ポケモンの愛護団体とか、トレーナー制度に反対してる人とか、そういう人たちの声が大きくなってるみたいでね。まあ要するに、こういう言い方するのはよくないけど、野球を取り込むことでそれに付随してくるファンや影響力を取り込もうってわけだ。地盤固めってわけだね」

 何もないところに手を出すより、似た競技が根付いてる下地があった方が楽だからね、とアオヤマさんはため息交じりに言った。

「僕個人としては、合併には反対だ。でも、『プロ』として仕事をしたい、という気持ちもわからなくもない。僕は選手会長として、いろんな視点からの話を聞きたい。だから、君にも協力してほしいんだ。きっと君が球界で一番、ポケモンと人の関わりを客観的に見ている選手だから」

 そういうわけだよ、とアオヤマさんは僕の方を見て、もう一度ため息をついた。
 空気が冷えていくような感覚を覚えて、僕はぶるりと体を震わせた。アルコールと鉄の混ざったようなにおいがした気がした。
 怒りとも、恨みともつかない真っ黒な感情が、足下からふつふつと沸き立っているようだった。

「ポケモンはいつでも、大事なものを奪っていく。最初は家族。家も、大会も、親友まで奪って……野球まで、僕から取り上げようっていうのか」

 アオヤマさんは驚いた顔をして、君が彼の、と言いかけて言葉を切り、納得したようにゆっくりとうなずいた。

 しばしの沈黙の後、アオヤマさんは突然立ち上がった。
 僕にも立つように促すと、アオヤマさんはくるりと踵を返し、僕から四、五メートルほど距離をとった。
 僕が困惑していると、アオヤマさんはブリーフケースの中から、緑色の小さなゴムボールを取り出した。

 アオヤマさんはそのボールを下手で放ってきた。僕が慌ててキャッチすると、投げ返してこい、と言うように手の平をこちらに向けて来た。
 ぶわっと全身から冷や汗が吹き出した。戸惑っていると、早く、という感じで、右手の平をこちらに向けたまま左手で招いてきた。笑顔で。
 僕は体が震えて拒否したかったけど、僕より十年以上長くこの世界にいる、球界を代表するベテランキャッチャーの無言の圧力は恐怖をさらに上回った。
 おそるおそる投げたボールは足元に落ち、小さく数回バウンドして明後日の方向へ力無く転がった。
 アオヤマさんは笑って、転がったボールを拾いに行った。

「君と初めて対戦した時、とんでもないピッチャーが出てきたなって思ったな」

 アオヤマさんはそう言いながら、今度は上手で放ってきた。

「打席に入って、初球はフォークだったかな。あんまり曲がるから消えたかと思った」
「……そんなこと言って、アオヤマさん、三球目のストレートをあっさりバックスクリーンへ運んでくれたじゃないですか。サヨナラスリーラン」
「お、さすがに覚えてたか」
「当たり前じゃないですか。それ、僕のプロ入り初被弾ですよ。クローザー転向してからの初黒星でもあります」
「あー、そりゃ覚えてるか。ま、新人にプロの厳しさを教えるのがベテランの仕事だしな」

 笑いながら、ボールを放ってくる。僕もぎこちなくボールを返す。
 アオヤマさんは一呼吸置いてから、さっきまでより少し落ち着いた、どことなく優しい声で言った。

「オオタ君はね、ポ球の方で選手会の役員をやっていたんだよ」
「カエデが?」
「そう。だから僕も何度か会ったよ。彼はいつも言ってた。僕たちはポケモンと共にいるけど、人を蔑ろにしちゃいけない。僕はポケモンが大好きだから、ポケモンによって傷つけられる人を少しでも減らしたいんだ、って。若いけど立派な人だったよ」

 親友の影響だって言ってたよ、ホンカワ君のことだったんだね、とアオヤマさんは微笑んだ。優しい奴なんです、と僕は言った。心臓がぎゅっと締め付けられたように痛くなった。
 ぽん、ぽん、と、ゴムボールのキャッチボールはだんだんテンポがよくなっている。

「ねえ、」

 アオヤマさんは、少し勢いの強い球を僕に投げた。受け止めると、ぱしっと高い音がした。

「ホンカワ君は、何で野球をやってるんだい?」
「何で、って……」
「ポケモンが嫌いだから? トレーナーが憎いから?」

 ゴムボールを持ったまま、立ち尽くす。
 ポケモンが嫌い。トレーナーが憎い。その気持ちは、ないとはいえない。

 でも、違う。

「僕は……」

 違う。違う。もっと単純だったはずだ。

 もし、僕が「特別」じゃなかったら。何度も考えたことがある。
 僕はポケモンと一緒にいただろうか。トレーナーに憧れたかもしれない。旅に出たりもしたのだろうか。

 それでも、どんなに想像を巡らせても、僕は「野球」をやっていた。
 僕は「野球」を選んでいた。選択肢は無限にあるのに、僕が選ぶのは「野球」だった。

 アオヤマさんは少しずつ後ずさりしている。僕たちの距離はもう十メートル以上開いていた。

「僕は……!」

 アオヤマさんが屈んだ。僕は大きく腕を振りかぶった。


「僕は!! 野球が!! 大好きだからですよ!!」


 バチン! と大きな音がして、アオヤマさんの手の中にゴムボールが納まった。
 僕は空になった自分の右手を見て、自分のことなのにポカンとしていた。もちろん硬球ほどのスピードは出ないけれど、それでもそれなりの速球を、人に向けて投げた。ひと月以上ぶりだった。
 アオヤマさんは笑いながらゴムボールを軽く投げてはキャッチして、ナイスボール、と僕に言ってきた。

「さてと、君にするべき話は全部終わったし、僕はそろそろタマムシに戻るかな。……あとは、チームメイトに任せるよ」

 そう言って、アオヤマさんは笑いながら練習場の方を指さした。その先を目で追うと、壁に隠れながらこちらをうかがっている、ダンバラをはじめとしたチームメイトがいた。
 僕の視線が向いたことに気がつくと、ダンバラを先頭に、チームメイトたちがものすごい勢いで僕に向かってダッシュして襲いかかってきた。

「てめーショウリこのやろー! 何アオヤマさんに投げられるようにしてもらってんだこの馬鹿! そこは俺たちの仕事だろうがこのやろー!」

 このやろー! よかったな! おめでとう! と意地悪そうに笑うチームメイトたちにもみくちゃにされる。
 数人がかりで頭をぐりぐりと撫でられながら、アオヤマさんが背を向けて手を振りながら去って行くのが見えた。





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