9−9:拝啓、一番大事な親友その日、都心に初雪が降った。平年より二週間早いと、テレビで気象予報士が言っていた。 カエデがいなくなったあの日以来初めて顔を合わせたカエデの奥さんは、僕が家に来てくれたことをとても歓迎してくれた。 ずいぶんと待たせてしまったことを詫びると、カエデの奥さんは首を振って、来てくれただけで十分です、と言った。 引っ越したばかりだった新しい家には仏壇もなく、リビングに置かれた白い布がかけられた棚の上に、カエデの写真とキャッチャーミットと、僕の故郷の名物である紅葉の形をした饅頭が置いてあった。 カエデ、未だにこれ好きだったんだ、と僕がつぶやくと、しかもこしあん限定でね、と奥さんが笑いながら返してきた。 それならよかった、と言って僕が鞄から同じ饅頭を取り出すと、奥さんは驚いた顔をして、また笑った。 しばらく無言でカエデの遺影と見つめ合っていたら、お茶をどうぞ、とカエデの奥さんに声をかけられた。 ダイニングテーブルで向かい合わせに座り、他愛もない話をする。 カエデと奥さんは高校のポ球部時代の選手とマネージャーだったらしく、付き合いはそれなりに長かったようだ。 こんなことならもっと早く籍を入れればよかった、とぽつりつぶやいた。 昔話にしばし花を咲かせたあと、一息ついて、カエデの奥さんは、僕に封筒を差し出してきた。 「あの人は結婚前から、万が一何かあったときのためにって、時々手紙を書いていたんです。シーズンが始まる前には必ず。書くのはいつも三通。ひとつは親に、ひとつは私に、そしてもうひとつは、ホンカワさんに」 真っ白な封筒。見慣れたカエデの字で、大きく『勝鯉へ』と書いてあった。隅にあの電話を受けた日の日付が書いてあった。 封筒を開くと、シンプルな白い便箋に、何度も書き直した様子のある文章が綴られていた。
最後の方は、もう読めなかった。 破り捨てたからじゃない。零れた滴で、インクが滲んだからだ。 飲み込めなかった現実に、目を逸らしていた事実に、ようやく向き合ったのかもしれない。 カエデがいなくなって、呆然として、恨んで、憎んで、怒って、苦しんで、逃げて、困惑して、何とか向き合って、受け止めて、そうしてやっと悲しいと思えるようになった。 そうしたら涙が零れてきた。あの日からずっと、泣いていなかったことに初めて気がついた。 自分の中で止まっていた時が、ようやく動き出したような気がした。 僕は、ポケモンにいろいろなものを奪われた。 生まれてすぐに、親と家を。「普通」の感受性と生活を。日常を奪われた。大会を奪われた。 一番大事な親友を奪われ、「野球」そのものまで奪われそうになった。 だけど。ポケモンがいたからトレーナーである顔も知らない僕の両親は出会い、僕が生まれ、ポケモンのおかげで野球をやることができ、ポケモンがいたから僕は親友と出会い、その親友はポケモンがいたからこそプロになり、同じ背番号を背負えた。 ポケモンがいたから野球ファンは改めて球界の在り方を見直せたし、そして改めて、僕はこの競技を心の底から愛しているのだと気づいた。 「特別」だったから、ポケモン中心のこの世界から少しだけ距離を置いて、物事を見られた。 傷つけられて、何もかもなるべく関わりたくないと思う特携の仲間たちみたいな人。 ポケモンもトレーナーも好きなカエデみたいな人。 ポケモンは好きだけどトレーナーが嫌いなダンバラみたいな人。 ポケモンは苦手だけど、自分みたいな人を減らすため歩み寄ろうとするマイちゃんみたいな人。 トレーナーの親に放置されているような状態でも、それでもトレーナーになりたいカエデの知り合いの女の子みたいな人。 ポケモンやトレーナーとの関わりは多種多様で、存在していいか駄目かの単純な二元論じゃない。 禍福は糾える縄の如し。僕の人生に無駄なものはなく、疎んでいたものもまた僕を構成する要素のひとつ。 であるならば、僕自身がポケモンやトレーナーを憎むとか、嫌うとか、そういうことは僕の判断とは無関係だ。 憎いからじゃない。嫌いだからじゃない。自分が、不利益を被ってきたからじゃない。 僕が野球を消滅させたくないのは、僕が「野球」を愛しているから。 理由はそれだけ。ただ、それだけだ。 必死で戦った選手会長のアオヤマさんのおかげもあって、野球は消えなかった。 ホンカワ君のおかげだよと言ってくれたけど、僕の力なんて何もない。 ファンも選手も、野球が好きだと声を張り上げてくれたからだ。 声を上げてくれたから、人の心を動かせた。 人に影響を一番与えるのは、人だと信じている。 遠い日に見た、緋色の服のヒーローたちのように。 |