GAME SET――それぞれの夢舞台「こんなに赤いヤマブキドーム、初めて見ました」 モミジの街から引っ張ってきたアサキタが、ベンチ裏からスタンドを見て、感嘆しながら言った。 僕もだよ、と同意しながらスマホで写真を撮る。 球場の左半分を埋める緋色の軍団。これまで感じたことのない、独特の熱気を帯びていた。 +++ 「観てますか? アカシさん」 『うん、テレビで観てる』 こんなの見逃したら、一生悔やんでも悔やみきれないさ、と電話の向こうでアカシさんは言う。そうですよね、と私は笑う。 野球は去年の開幕に観て以来だから、試合開始からずっとテンション上がりっぱなしだよ。普段より気持ち早口な声が、抑えきれない興奮を物語っている。 ちょうど二年前、本当は私はこの球場にいるはずだった。 球場に通い始めてから初めて、買ったチケットを自分で使わなかったあの日。私はレジギガスの優勝シーンを目撃することになるはずだった。 今日はこの場所で、その逆を目にしようとしている。 「アカシさんの名前、最近たまに聞きますよ。この前雑誌にも出てましたよね」 『ほんの小さな特集記事の一部だけどね。トウカさんは相変わらず、絶好調だね』 負けてられませんからね。そういって笑うと、やっぱりトウカさんは強いなあ、と少し呆れたような感じもする声が返ってくる。 勝ち続けるのは正直しんどい。だけど、喜びはそれ以上だ。 やっぱり私は根っからトレーナーなんだな、と思う。 そろそろスタンドに戻りますね、と言うと、じゃあまた、今度はどこかの大会で、とアカシさんが返す。 電話を切り、コンコースから席に戻る。 ドームの半分近くを染める緋色。今まで感じたことがない熱気。 ああ、やっぱり、野球はいいなあ。 赤いうねりの中で、じんわりと楽しさが浮かび上がってくる。 +++ 「えっ!? 球団職員!?」 「そう。ウグイス嬢やりたくて」 控室のモニターで球場内の様子を見る。こういう日は、混乱防止のために売り子は早めに下がる。 来年には大学四年生。売り子の仕事も、今年で終わり。進路どうするの? と聞かれて、出した答え。 そっかー、チヅちゃんマイク映えする声だもんね、と売り子仲間がある程度納得する様子を見せながら、でも意外だなあ、と首をひねる。 「チヅちゃん、そんなに野球のこと好きなんだ?」 「野球が好きかどうかって言われたら、正直今でもわからない。だけど、私は」 モニターに客席が映る。手を叩き、声を上げ、緑の芝を躍動する選手に熱狂する人たち。ふっと、少しだけ頬が緩む。 「球場に来る人たちのことが、大好きだから」 希望通り進めるかどうかはわからない。正直、難しいだろう。 だけど、やりたいと思った。 流されて続けてきた私が、ようやく自分で見つけた目標。 レフトを埋める緋色の集団から、落胆の声が響いた。だけど、盛り上がりは全く落ちない。スコアボードの上段に、九つの数字が並びきった。 +++ 『さあ、モミジマジカープ、一点リードの状況で九回表を終えました。悲願の優勝まで、あとアウト三つです』 テレビの中で実況のアナウンサーが言う。 試合開始から早鐘を打っていた心臓はもう破裂寸前の勢いだった。 一点失えば延長戦、二点取られればサヨナラ負け。 何としても点を取られるにはいかない場面。実況アナウンサーが解説者の元選手に話を振る。 『アオヤマさん、今日はどちらを送ってくるでしょうか?』 『この後は上位打線に回りますね。強力な右打者が並んでいますから、まあおそらく、右で来るでしょう』 『右ということは……あっ、来ました!』 ダグアウトから出てきた選手は、帽子をとってグラウンドに一礼し、マウンドへ走っていく。 ひゅっ、と息が止まった。喜びと興奮と、何かもうその辺の感情が一気に噴き出してくる。 マウンドの一番高いところ。割れんばかりの大歓声の中、背番号90が立っていた。 +++ 『去年の開幕戦、ホンカワ投手が抑えで登場したのには驚きましたが、若手の 『ダブルストッパー構想が上手くはまりましたね。左右の抑えがいるのはチームとしても心強いでしょう』 『今日は右打者が続くということで、ベテランのホンカワ投手。アオヤマさんも現役時代に親交がおありですね』 『ええ。僕が選手会長だった頃、彼にはかなり世話になりました』 『選手会長の頃というと、野球とポ球の合併問題の時期ですか』 『そうですね。彼には役員としていろいろ意見ももらいました。去年話題になった野球とポ球のCMで出てきた「あなたの心を動かす、人でありたい」っていうフレーズも、その頃彼の言った言葉が元ですね』 『そういえばアオヤマさん。去年から野球とポ球は少しずつ協力していく姿勢が見られますね。今年のオールスターゲームでは、同じ球場で昼にポ球、夜に野球が行われました。一日通しの観戦チケットなんかも出ましたね』 『出ましたねー。僕も行きましたけど、一日中試合観てるとさすがに疲れます』 『そうでしょうね。そういえば現在マウンドで投球練習を行っているホンカワ投手は、プロの野球やポ球の選手を目指す子供たちに対して積極的に支援を行っているとか』 『彼自身野球に救われたと言ってましたからね。まあ、出自のことも含めていろいろあったんでしょう』 『失礼ですが、ポ球の支援も行っているというのが正直意外でした』 『彼の親友がポ球の選手でしたからね。その遺志を継いでいるのでしょうね』 『おっと、その話は初耳ですね?』 『あ、しまった、ホンカワ君まだ公表してなかったのか。ごめんここオフレコで』 『生放送なのでカットはできません。……さあ、投球練習が終わったようです』 『ホンカワ君ごめん。……さあ、いよいよ正念場ですね』 +++ 最初のバッターをセカンドゴロ。次の打席は 四球目、三塁方向に転がったゴロをダンバラ選手が一塁に送球する。 アウトかと思ったが、 スタンドから歓声と悲鳴の絶叫が響く。一死一塁。打順は最初に戻り、一番打者。 一球で上手く送りバントを決められ、二死二塁。 ここで急に、ピッチャーの制球が乱れはじめた。 マウンドの投手は帽子を取って、ユニフォームの袖で汗をぬぐう。 ああ、やばい。高まったテンションと緊張で心臓が痛い。変な汗が出てくる。めっちゃ吐きそう。 どうか、どうか、お願いします。僕は自然と、テレビの前で手を組んで祈り始めた。 頑張れという気持ちと、何とか頼むと縋る祈りの気持ち。泣きそうだ。 だけど不思議と絶望感はなく、ただただハイになった感情の表し方に困っている。 テレビの向こう側から、マウンドに立つ背番号90への、地響きのような励ましと祈りと応援の声が聞こえてきた。 +++ ツーアウト満塁、フルカウント。相手は四番打者。 汗が止まらない。足が震える。正直、逃げて帰りたい。動悸が止まらない。 ちくしょう、何なんだ。小心者め。情けない。怖くて怖くてしょうがない。 点を取られるのは投手の責任。ここで負けたら自分の責任。怖い。怖い。 内野陣が集まってくる。 不甲斐なさに泣きそうになる。めちゃくちゃに責められても文句は言えない。 「モトさん、このバッター転がさせます? 守備位置、前寄りにしときますか?」 「今日の球は引っ張りやすい感じだから、左寄りにした方がいいかもしれないな」 「右に飛んだ奴は全部任してください!」 相談、提案、激励。責める言葉はひとつもない。幼馴染がグローブで肩を叩いた。 「ほら、もうちょっと頑張れ。俺たちも監督もファンも、お前を信じてんだからよ」 割れんばかりの声援が、緊張でふさがっていた耳にようやく入る。 応援と祈りの声。嫌な張り詰め方をしていた心がほぐれ、少し口元が緩む。 大丈夫、いけるよ、と僕が言うと、よっしゃ、と仲間たちが笑顔を見せる。 定位置に戻っていく内野陣を見送り、ひとりマウンドの上で息をつく。 とん、と胸を叩かれた感覚がしたような気がした。 『大丈夫大丈夫、俺のところめがけて思いっきり放ればそれでいいから!』 微かな声が耳に入る。顔を上げる。 目線の先にいるのは相手バッターと、審判と、捕手のフナイリさんだけ。 ああ、だけど、そうだった。 お前は、僕が投げてる時は、そこにいてくれるんだったよな。 ずっと、待っててくれたんだよな。 緋色に染まった球場。両チームのファンの声が地鳴りのように響き渡る。 ここに集まった何万人の、全ての目線が、マウンドの上に注がれている。 この場面、この瞬間、僕は間違いなく、主人公だ。 ボールを握り直す。大きく息を吐く。もう迷いも恐れもない。 出来ることを、精一杯。ただ、それだけだ。 僕はありとあらゆる感情を乗せ、指先に魂を込めて、18.44m先のキャッチャーミットへ、白球を、投げた。 参考文献 ・「公認野球規則 2015」「公認野球規則 2016」日本プロフェッショナル野球組織/ベースボールマガジン社 ・「球界再編は終わらない」日本経済新聞社 編集/日本経済新聞社 ・「中継ぎ投手 荒れたマウンドのエースたち」澤宮 優/河出書房新社 ・「神は背番号に宿る」佐々木 健一/新潮社 ・「スローカーブを、もう一球」山際 淳司/角川文庫 ・「エンジェルボール」飛騨 俊吾/双葉社 ・「球場ラヴァーズ」シリーズ 石田 敦子/少年画報社 ・「もう一度、投げたかった 炎のストッパー津田恒美最後の闘い」山登 義明,大古 滋久/幻冬舎文庫 ・「一生懸命 木村拓也 決してあなたを忘れない」木村 由美子/中央公論新社 ・「広島東洋カープ 公式サイト」http://www.carp.co.jp/ 初出 『僕は緋に燃える』 2015年4月(Web公開したものに大幅加筆・修正) 他 2017年6月発行個人誌「#(背番号)90」 Special Thanks 黒戸屋 様(『僕は緋に燃える』タイトル提供) |